参拾
なきたくない
わらったかおがみたいから
なきたくない
だけど、だけど、だけど―――――――……
馬の背に乗り、揺れる小さな影が二つ。
それに寄り添う大きな影が三つと、馬の影。
夏を知らせる分厚い雲が、山の向こうに聳えている。
海を望めぬ山国である。
潮の香りなど何処にもない。
在るのは、ただただ強い日差しと、時折遠くに聞こえる川のせせらぎ。
他には子供二人の囀りと、沈黙を厭うように隙間に鳴る蹄の音。
「なんだ、うみってみたことないのか」
「うん」
旅路の最中に見た風景を話す政宗に、幸村は酷く羨ましそうな顔をしていた。
己の知らぬものを知る同じ年の少年へ、幸村は確かに憧れに似た感情を抱いている。
政宗はふぅん、そうか、と短く告げた後で、
「じゃあ、いっしょに見ようぜ」
「いっしょに?」
政宗の言葉に、幸村が鸚鵡返しに問い掛けた。
大きく頷く政宗を見て、それに幸村も応えて大きく頷いた。
さっきから何度この会話を繰り返しているのか、もう子供達には判らなくなっていた。
鳥を見る約束、釣りをする約束、甘い柿を食べる約束―――――上げていけばキリがないだろう。
それでも子供達は繰り返し繰り返し、約束をする。
途方もない約束であると、判っていても。
涙を誤魔化す為の言い訳だと思ったりもしたけれど、でもやはり泣きたくはなかった。
散々泣いて泣いて、もう一度笑い合えるようになったのだから、見たくないのに見てしまった泣き顔は、今度こそ本当に見たくない。
約束をすればもう一度逢えるなんて、容易いように考えてはいない、けれど。
二度と逢えなくなってしまうと思うのは嫌で、細い糸を必死で手繰り寄せて繋ぎ止めようとしている。
見えない未来を信じていられる程には、まだ己の命運など知らずにいられたから。
そして、再び出会うことを信じていられる程に、不思議と強い何かを感じるような気がする。
理屈ではない何かがあるような気がして、堪らなかった。
ただその不可思議な何かを芯から信じるには、まだ目の前の別れが辛過ぎて。
「やくそくな」
「うん、やくそく!」
――――――――不確かな言葉で、一所懸命、繋がる形を探している。
信幸が引いていた馬が、ブルルッと鼻を鳴らして立ち止まる。
この馬は、名を残月と言う。
幸村と信幸の父の愛馬とされ、兄弟も長年親しんでいる馬だ。
――――――賢い馬であった。
程無く行けば国境越えになる。
信幸が幸村を抱えると、案外と素直に幸村は馬を下りた。
政宗はそれを見ていて、口元には笑みさえ浮かべている。
ない筈の眼までもが笑っていたような気がして、小十郎は不思議な感覚に陥った。
不可思議な感覚に陥り、なんとはなしに主を凝視していた小十郎に、政宗が小生意気に唇を尖らした。
「なにしてんんだよ、小十郎。はやくのれよ」
政宗の乗る馬は、小十郎の馬だ。
小十郎が少し後ろを振り返ってみれば、元網も既に馬に跨っていた。
はい、と短く返事をしてから、小十郎は自分の馬に乗る。
「―――――――そうだ」
ふと、思い付いたように政宗が顔を上げた。
ひょいっと軽い身のこなしで馬を下りると、兄に寄り添った幸村に駆け寄る。
幼い手が腰に伸ばされ、常に其処に携帯されていた小刀を帯から抜き取った。
「これ、おまえがもってろ」
いささかぶっきら棒な口調で突き出された、小刀。
上等な白木の鞘と柄で出来たものだ。
政宗がこれを持たされるようになったのは、右目を失って程なくしての事だった。
父・輝宗に授けられた小さな刃は、時として政宗を守り、時として先に推し進める為の力となった。
父がどのような面さしでこれを手渡したのか、その時の記憶は政宗の中で酷くぼんやりと曖昧になっていた。
その頃の記憶については他にも曖昧な箇所は幾つかあるので、然程それを気にした事はない。
当時の政宗にとっては、それよりも更に苛烈な出来事が己が身の上に振ってきていたのだから。
ただ覚えているのは、これを手渡したのが父であると言う事と、白木の柄鞘が酷く綺麗だったという事。
成実がやたらと羨ましがっていたのも覚えている。
それぐらいのものだった。
だが記憶の不確かさはあろうとも、政宗にとって、この小さな刃は確かに己の一部となっていた。
護身用の意味もあって常に腰に差していたし、そうでなくとも、刃一つがある事は幼子にとって大きな意味を持つ。
刀を重んじる武家に生まれたのだから、その重みも、幼いながらに理解していた。
小さな、小さな刃だけれど。
これは確かに、自分の身を守り続けてきてくれた。
そして、守る力を与えてくれた。
人に手渡したなどと父に知れれば何を言われるか判らないが、拳骨幾つ喰らったとて、きっと後悔はしないだろう。
「おれのたからものなんだ。だから、おまえがもってろよ」
一番の宝物はお前だから、それは誰にも預けることさえ出来ないけれど。
音にしなかったその言葉は、果たして幸村に届いていたのか。
其処は政宗には判らなかったし、幸村も理屈ではなかったと思う。
刀を差し出す政宗の顔があまりにも輝いて見えたから、半ばぼんやりと、引き寄せられるような気持ちで手を伸ばした。
かちゃりと小さな金属音が聞こえて、小さな手から小さな手へと、小さな刃が受け渡される。
その途端に、幸村の視界がぐにゃりと歪む。
「なんだよ、なくんじゃねぇよ」
「ないてないもん!」
政宗の言葉に反発して、幸村が声を大きくして言った。
潤んだ眼を指差されると、もう一度泣いてないもんと言って幸村は目を擦る。
埃が入っただけだと言う幸村に、なんだそうかと政宗は笑った。
「それな、おやじにもらったんだ。おれのたからものなんだ」
「……じゃあ、ダメだよ。もらったものなら、だいじだったら、あげちゃダメ」
「だれも、やる、なんて言ってねぇよ」
幸村の言葉に、今度は政宗の方が反発したように、拗ねた声を出した。
ちゃんと聞いてろよ、とでも言われたような気分になる幸村である。
「もってろ、って言ったんだ」
「だから」
「ちがうって」
幸村が言おうとするのを先に制して、政宗は続ける。
「いつか、返してもらうから」
政宗の言葉に、幸村はまん丸に目を見開いた。
少し赤みのかかった茶色が、其処からぽろりと零れ落ちてしまいそうに見える。
いつか、返して貰うから。
それは、また逢う日の約束。
形のある約束。
しばらくの間、瞠目して政宗を見つめていた幸村は、ふっと思い出して袖口に手をやった。
小刀を落とさないように気をつけながら、慌てた風に何かを探している。
何をしているのかと、政宗は首を傾げる。
傍らに佇む青年を見てみると、こちらも不思議そうにしていた。
程無くして目当てのものを見つけると、幸村は刀を片手に、もう片方の手に何かを握って差し出した。
「まさむね、手だして」
「手?」
なんだろうと思いながら右手を差し出すと、ちゃりと小さな音。
音を鳴らしたのは、糸に通した穴の空いた一文銭。
益々不思議そうにそれを眺める政宗に、幸村は小さく笑い、
「本当は、ろくもんせんなんだけど。わたしは、まだこどもだから、いちもんだって、父上が」
六文銭は真田の家紋。
糸に通した一文銭も、本来ならば六つ連なり意味を持つ。
しかし子供が背負うにはまだ重いそれを、父・昌幸は今しばらくの猶予を持たせた。
少しずつ、意味と重みと共に、確りと己の意志で、息子にそれを継いで欲しくて。
「おまえ…それこそおこられるんじゃないのかよ」
「たぶん……でも、まさむねだって同じだよ」
刀の重み、家紋の重み。
幼くとも、知らぬ訳でもなく、理解できぬ訳でもなく。
「だから、もってて。いつか、返してもらうから」
笑って言う幸村に、今度は政宗の方が瞠目した。
幸村はちらりと傍らの兄を見上げ、ほんの少し、申し訳なさそうな顔をした。
叱るに叱れぬ目の前の光景に、信幸は苦笑を漏らして可愛い弟の頭を撫でる。
御相子だ。
政宗が幸村に手渡した小刀にも、政宗の家紋は印されている。
いつか時とともに風化してしまうだろうけれど、此処に在るそれが、この少年のものである事に変わりはない。
黙ってみていた元網がククッと笑う。
「そんじゃあ、こいつらは、それぞれ人質な訳だ」
「……ひとじち?」
「……綱元殿…」
まだ耳慣れぬ単語であったのか、幸村がきょとんとして返した。
「知らないのか? まぁ、大人の世界の話だからな。約束の為に、こうして大切なものを差し出すって事だ」
色々と端折った説明ではあったが、子供達にはこれで十分だと元網は笑う。
小十郎が呆れた顔をしていたけれども、咎める事はしなかった。
だが、政宗の方が拗ねた顔をして綱元に振り返る。
「ひとじち、なんかじゃねえ。やくそくの印だ」
用いる意味は一緒じゃないかと綱元は言い掛けたが、結局噤んだ。
睨んでくる政宗の瞳があまりに真髄だった。
白鞘の小刀をぎゅっと握ると、うん、と呟いて。
「うん。わたしも、それがいい」
「……それって?」
「やくそくの印」
形に見える、約束の印。
いつか返して貰う、何よりの宝物。
一番の宝物は、やっぱり目の前の友達だけど。
それとは一緒にいられないから、せめて、その友達を感じさせるものを、傍らに。
いつか来る日の為の、いつかその日が来た時の為の。
「――――――――やくそくだ」
←
■
→
第一話での、幸村が思い出した部分は此処。
出番もなければ、予定もなかった双方のお父さんの話もちょろり。
厳しく律しようとする父と、溺愛する父(笑)。
“残月”は真田太平記からちょっと拝借…