弐拾七
守りたいもの
この手を繋いでいたいから
この手を離すより、怖いことなんて何もないから
子供一人分の足場が精々だろう。
流れの速い川面を、二人は落ちないように落ちないようにと渡っていく。
手を繋いだままでは尚更危ないことは判っていたから、名残惜しかったけれど手を離した。
離す瞬間がなんだか別れの予行演習のようで、酷く締め付けられる感覚に襲われたけれど、
それよりも今は前に進まなければならなかったし、また直ぐに掴めるんだから大丈夫と言い聞かせた。
この川から向こう側は、幸村もよく知らない。
川渡を佐助は教えてくれなかったし、彼も兄ほどではないが幸村に対して過保護である。
幸村にとってはそれは当たり前の事だったから、過保護であると感じたことはなかったけれど。
ただ此処から先にも忍の印はあると言っていたから、それほど不安を感じてはいない。
政宗は足元に気をつけながら、時折後ろを振り返り、そして前へと進んだ。
飛び石に慣れていない幸村の足元が危なっかしいのにハラハラしながら、時折手助けして、進む。
兄と従者は、まだ追い付かない。
山賊達も、来ない。
兄と従者が追いついて、此処ではない何処かで奴らをこらしめているなら、これ以上逃げる必要はない。
けれども政宗と幸村は、それらを知る手段を持っていなかった。
幸村は、佐助の最近の修行が、鳥を扱っているものであると聞いた事を思い出す。
その術が自分にも備わっていれば、鳥に辺りを探って貰うことも出来たのだろうに――――。
「――――あっ」
ずるりと幸村の足が滑り、体勢が崩れた。
過ぎった考えに悔しくなって唇を噛んでいたら、足元への注意が疎かになっていた。
すかさず、政宗が後ろから支える。
「だいじょうぶか?」
「う、ん。ありがと」
「おう」
体勢を直して貰って、もう一度幸村は飛び石を蹴った。
政宗がそれに続く。
「まさむね、もうちょっとだよ」
「ああ」
最初よりも近くなった対岸に幸村が振り返って言えば、政宗は力強く頷いた。
最後の飛び石から対岸までは、子供の足の一歩では足りない距離になっていた。
幸村は最後の飛び石の上で足に力を入れて、思い切って飛んだ。
もともと身軽な性質だ、飛距離に申し分はなく、対岸に辿り着いた。
少し姿勢を崩して蹈鞴を踏んだが、飛び石の上と違って広い足場だ、多少転んだところで足を擦り剥くだけである。
それでも転びかけた幸村に政宗が無意識に心配の声を上げたが、問題はなかった。
散々手をばたつかせてようやく落ち着いた幸村に、政宗はホッと胸を撫で下ろす。
何せ幸村の平衡の取り方と言ったら、見ている側には危なっかしくて仕方がないのだ。
変にじたばたしてしまうから。
何より、着地した後ろ側は流れの速い川である。
もしも落ちたら子供の自分では助けられない――――可不可に構わず、政宗は飛び込んでいっただろうけれど。
今度は政宗の番だ。
飛び石遊びは、奥州で成実と何度かやった事がある。
だが此処まで距離があるのは初めてだった。
幸村同様、足に力を入れる。
その時だった。
「おお、珍しい。こんなところに童子がいやがる」
政宗に目を向けていた幸村の背後から、野太い声が茂みを割って聞こえてきた。
振り返った幸村の瞳に、ぼろぼろの鎧を纏った、古傷だらけの大男が映る。
自分達を負って来ているだろう賊の集団に似ていたが、放つ威圧感はそれの比ではない。
落ち武者だ。
髪も髭も無精に伸ばし放題で、長く風呂に入っていないのだろう、垢やフケが目立つ。
鞘を失ったのか、剥き出しの刀は先端が折れ、刃零れもしていたが、それよりも子供達には刃にこびりついたものが目に付いた。
赤黒く変色したそれが単なる錆であるとは思えない、其処からまだ知らない暗い闇が見えそうで、幸村は戦慄した。
近付くと薄らと糞尿の匂いが風に乗って鼻をつき、幸村と政宗は顔を顰めた。
―――――逃げてる真っ最中だってのに!
最後の飛び石の上から動けないまま、政宗はぎりりと歯を噛み締めた。
「駄目だろぉ、こんな所にガキ二人でよぉ……」
やけに間延びした、ねっとりとした喋り方が二人の心を絡め取っていくようだった。
向けられる目は毒蛙を思い起こさせる澱んだ色を放ち、口を開く度に覗く長い舌が気持ちの悪さを助長させる。
川と男に挟まれた幸村の脚が竦んでいる事に、政宗は気付いた。
同じように、自分の思考回路が混乱を引き起こしていることにも気付いた。
戻る選択肢は最良ではない。
賊の集団が追いかけて来ていることは想像するだに難くなかったし、幸村がこちらに戻って来れない。
まだ飛び石の上にいる自分は逃げることが出来るだろうが、幸村は既に対岸だ。
飛び石に戻ろうと背中を向けた瞬間、捕まってしまうだろう。
「ゆきむら、にげろ!!」
言ってしまってから、政宗は後悔した。
―――――前には落ち武者、後ろは川。
何処に逃げれば、その手に掴まらずに済むだろう。
それでも、他に言える言葉が見付からなかった。
「まさ――――」
助けを求めるような声は、決して幸村の口から零れることはなかった。
それでも咄嗟に伸ばした手は政宗へと向かっていて、政宗も飛び石の上からその手に自らの手を伸ばす。
この場所でこの手を取れば、諸共に激流に落ちてしまうだろう。
それでも構わないと思った、一緒なら手を繋いでいられるのなら平気だと思った。
今の二人に現状を正確に分析できる筈もなく、この場で最も最善であると言える手段を一瞬で弾き出すことは無理だった。
ただ伸ばす手を互いに届かせようと、それさえ出来れば後はなんとかなるからと、必死になっていた。
けれども無情にも、その手は届かなかった。
「逃げるなよぉ、坊主。ちょいと俺の相手してくれよぉ」
「やっやだっ! やだやだやだぁ!!」
「おまえっ! ゆきむらからはなれろ!!」
幸村の髪を掴んで捕まえた落ち武者は、卑下た笑みを浮かべて幸村を見下ろした。
それに言い知れぬ不快さを感じた幸村は逃れようとするが、手酷く髪を引っ張られ頭皮が痛む。
顔を顰める幸村に政宗が眉を吊り上げた。
赤黒い錆ついた刀の刃が政宗へと向けられる。
飛び石の上にいる政宗には如何したって容易く届く距離ではなかったが、それは確かな牽制であった。
其処から此方へ来るなと、近付けば容易く切って捨ててやると、飛び出た眼が容赦なかった。
落ち武者は幸村の顔に自分の顔を寄せ、にやにやと笑う。
「きれぇな肌してんじゃねえか……女子みてぇだなぁ」
「ひ………!」
ざらついた舌が幸村の頬を舐め、幸村はおぞましさに鳥肌立つ。
目尻に浮かんだ涙は、恐怖か不快感からか。
「やだやだ! 兄上、佐助ぇ!! さすけーっ!!!」
「ゆきむら!!」
「お前も大人しくしてろよぉ、後で可愛がってやっからよぉ……」
呼べばいつも来てくれた名を幾度連ねても、此処にはいない。
逃れたくても、がっしりと掴まえる大きな手が恐ろしかった。
子供の首など片手で追ってしまいそうな太く固い手は、自分が今まで知っていた暖かな手とは酷く程遠い。
幸村の泣きじゃくる様が落ち武者の可虐心を煽っていた。
瞼のすぐ上を長い舌がべろりと舐め、目玉を食われる錯覚に陥る。
徐々に表情さえも失いつつある幸村に、政宗は帯に差していた小刀に手をかけた。
「はなれろ、じゃねえときり捨てるぞ!!」
言って抜いた小刀は、子供が護身用にと持たされる本当に小さなものだった。
対して落ち武者の持っているものは、手入れも何もされていない錆びたものとは言え、刃渡りのなが打刀である。
持っているのが小さな子供である事もあって、男は小莫迦にした笑みを浮かべていた。
子供一人で何が出来る。
飛び出た男の眼は、明らかにそう侮蔑していたのだ。
もしも逆の立場であるなら政宗とてそう思っただろうし、幸村も無謀だと感じただろう。
大人の男――――それも落ちているとは言え、相手は武者なのだ。
下手に逆えば己の身がどうなるか判らない程、この戦乱の世に生まれた子供は莫迦ではない。
だが、それで容易く諦めがつく程に利巧ではないのだ――――此処にいる子供達は。
「はなれろって………言ってんだよ!!!」
飛び石を蹴って跳んだ政宗は、地面に着地すると直ぐにもう一度足を動かした。
子供故の俊敏さを飛び出た眼が追い駆け、錆た刀が政宗を確かな悪意で持って狙いを定めた。
向けられた切っ先に、政宗は今度は怯まなかった。
臆せば即死に繋がることを理屈ではなく、本能的に感じていた所為でもあるし、
目の前で伸ばされる手の存在しか見えていなかったとも言える。
ただ、失いたくなかっただけだ。
失われた右目の光を、もう一度見せてくれた、この温かい存在を。
ただ。
ずっと、手を繋いでいたかっただけなんだ。
他に怖いものなんてないから。
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頑張る子供達。