弐拾四
繋いだ手
繋いだ温もり
ずっとこのままだったら、ずっとずっとしあわせなのに
どうしても離れたくないと言う子供達の、最後の我侭。
一歩引いた場所で様子をただ見つめていた綱元の提案で、少しだけさよならは先送りにされた。
それでも別れてしまう事に変わりはないと、子供達も幼くてもきちんと理解している。
ただ、其処に辿り着くまでの心の準備をするのには、やはり大人達よりもずっと時間がかかるのだ。
繋いだ手を名残惜しげに強く握り合って、弟と幼い主は大人達に挟まれて、然程長くない距離をゆっくりと進んでいた。
「…かぜ、ひかなかったか?」
「…ん? ……うん、なんともないよ」
「川、つめたかっただろ」
「んー……わかんなかった」
そんなに顔を近づけなくても聞こえるだろうに。
二人は顔を寄せ合って、まるで内緒話でもしているかのように話をしている。
信幸、小十郎、綱元の三人はそれを見つめて苦笑するばかりだ。
「わかんなかった?」
「うん。わかんなかった」
「………そっか」
「でも、なんともなかったから、つめたくなかった」
僅かに目尻を伏せて俯く政宗に、幸村は一つ高い声で囁く。
政宗が気に病むようなことは何もなかったんだよ、とまるで宥めているようだ。
内緒話をしているような話し方をしている二人だけれど、声まで潜めてはいない。
顔を近付けて話すのは、突き放してしまった罪悪感や、突き放された悲しさから抜け出しきっていないからだろうか。
もしかしたら単純に、もっとはっきりと相手の顔が判るようにしたいだけかも知れない。
他の周りのものなんて視界に入らないくらい、相手の顔だけが見えるぐらい近い距離で。
もう直ぐ引き離されてしまうから、それまで目の前の存在だけを見ていたい。
これは少々妬けるな、と信幸は思って苦笑を漏らす。
小十郎も同じように、こんなにも必死になっている主を見たのは久しぶりで、
それを引き出してくれた幼い友人に感謝とともに、顔には出さない少しの焼餅を焼く。
今の子供達にとって、大人達の存在と言うものはまるで蚊帳の外になっているらしい。
微笑ましい光景に結局は口元が緩むから、邪魔をしようとは思わなかった。
「なぁ、あの花、なんだ?」
「どれ?」
「むらさきの…」
「あ、花しょうぶ」
「しょうぶ?」
「うん」
「あっちは?」
「あっちは、ささゆり」
「この草は?」
「んーと……みぞそば」
「……そば?」
「みぞそば」
幸村は、意外と草花に詳しい。
御付の少年が食べられる野草や薬草を覚えていて、その少年から色々聞きかじっているからだ。
詳しいことに小十郎と綱元も驚いたようで、感心した風で幸村を見ている。
それを喜ばしく思うのは、やはり親馬鹿――自分は兄馬鹿か――だろうかと、信幸は一人ごちた。
橋の架かった川辺が見えると、突然子供達が駆け出した。
まるで示し合わせたかのように揃って駆け出すから、大人三人は一瞬置いてけぼりを食らってしまった。
しかし子供達の姿が見えなくなる事はなく、橋の上に来ると、揃って欄干に足をかけて川を見下ろした。
それほど深くない川には、育ちの良い魚達が泳ぎまわっている。
「うぐい!」
「うぐい?」
「おいしいよ」
「ふーん……」
そういえば、と魚を見下ろしながら幸村と政宗は思い出す。
いつも一緒に遊んだ川辺で、魚釣りは何度もしたけれど、釣った魚をどうしようとは思わなかった。
垂らした釣り糸で釣った魚も、びしょ濡れになりながら手掴みで獲った魚も、最後はいつも川に返した。
食べたら美味いだろうなと思いはしたけれど、子供二人で流石に魚は捌けないし、火を起こすのも危ない。
政宗は、信州の魚の味を覚えていなかった。
宿で出される食事には、勿論海山の幸は十分あったけれど、それがどんな味だったかよく覚えていない。
もしかしたら幸村と同じものを食べたのかも知れない、と思うと、今になってそれを勿体無く感じる。
「かいって、どんな魚がいるんんだ?」
「さっきのうぐいと、やまめと、…あゆもおいしい!」
「あ、いいな、あゆ」
鮎なら宿の食事にあった、と直ぐに思い出せた。
しかし、やはり味は記憶に残っていない。
剥れた顔になった政宗に、幸村は小首を傾げて顔を覗き込む。
どうかした? と言葉なく問いかける幸村に、政宗はやはり言葉なく首を横に振ってなんでもないと示す。
幸村は益々首を傾げていたが、結局追求する事はなかった。
「こんど、いっしょにたべようね」
繋いだ手を強く握って、幸村は言う。
空で煌く陽光を揺らめく川の水面が反射して、政宗の瞳を射抜く。
でもそれよりも、政宗には、目の前の笑顔が何より眩しかった。
―――――こんど。
―――――……今度。
それは、いつの話になるのか誰にも判らない。
その日が一生来ないことも十分在り得たし、こうして手を繋ぐのも“今度”があるのか判らない。
幸村もそれが今になって判っていない訳ではないし、政宗もそれに軽く返事が出せる訳でもなかった。
でも、大好きな“友達”にそう言われたら、どうしたって返す言葉は決まっていた。
「こんどな」
負けじと強く手を握って、政宗は笑ってそう言った。
甲斐は山間にある国だ。
当然、国境も山道を越える中にある。
あまり長く一緒にいては別れが余計に辛くなるだろうに、大人達は誰もそれを咎めはしなかった。
もう間もなく訪れてしまう別れだからこそ、今一番、感じたい温もりと手を繋いでいたい。
ぎりぎりの瞬間まで決して離れる事はないだろう小さな二つの手を見下ろして、大人達は子供に見えないように淋しく笑った。
緩やかな坂道を上る間、二人の子供はあちらこちらへ行ったり来たり。
目に付いた草花の名を幸村が教えると、政宗は忘れないように心に刻むように繰り返す。
進むたびに二人の口数は減って行ってはいたけれど、口を噤むことはしなかった。
泣き出したいのを我慢しているのが、判る。
嫌だと言いたいのが、それを必死に喉で留めているのが判ってしまう。
お互いにそれがあると判るから、余計に寂しくて、反面嬉しくもあって、二人は最後まで笑っていようと決めた。
泣き顔はもう散々見たのだから、最後の最後になってまで、また泣いて別れるなんてしたくなかった。
どうせ泣くなら、頭の中を過ぎるのは、泣き顔じゃなくて笑顔がいい。
最後に網膜に焼き付けるのなら、何度も見てきた、大好きな笑った顔がいいと思うから。
だから、泣かない。
「おーしゅーって、何があるの?」
「何って、何が?」
「花とか、草とか、どうぶつとか。ここにいいないのもいるの?」
「んー……」
一通り目ぼしいものを見つけ切ってしまってか、幸村が話を切り替えた。
「花は…おれはあんまり知らねぇ」
「そうなの?」
「…あんまりきょうみなかったし」
「どうぶつは?」
「そんなにちがわねえんじゃね?」
「えー……」
「シカもいるし、タヌキも出るし……」
「とり! とりは?」
幸村はどうしても奥州の話を聞きたいらしく、政宗に食い下がる。
返答に窮した政宗だったが無碍にすることはなく、眉間に皺を寄せながら思い出そうと試みる。
そんな幼い主に自分が割って入ろうか、と一瞬考えた小十郎だったが、結局やめた。
が、綱元は引いていた馬の手綱を小十郎に押し付け、前を歩く二人の子どもの頭に手を置いた。
「わぷ!」
「てっ! 何すんだよ、綱元!」
突然のことに驚いた二人に、綱元はくつくつと面白そうに笑いながら、
「夏だからなぁ、今の時期なら、大瑠璃とか、白鷺も見れるんじゃねえか?」
「あ! おれが言おうとしたのに!!」
「お前が遅いのが悪い。大瑠璃ってのは蒼い綺麗な鳥でな、白鷺は真っ白な鳥だ。白鷺なら、此処でも見たことあるかもな」
先に取るなと言い出した政宗の頭をぐいぐいと押さえつけながら、綱元は笑う。
幸村は名前を聞けたことは嬉しかったようだが、続けて他には? と更に問うて来た。
「鴛鴦も繁殖中か? それから冬になったら……」
「っだー! もうしゃべるな、綱元!」
もっともっとと聞きたがるかのように、幸村はきらきらと目を輝かせ、綱元に食い入っていた。
それが気に入らなかったのだろう、政宗は綱元の足を蹴り上げると、幸村の手を引っ張った。
加減なしで思いの他子供の一撃は痛いもので、綱元は蹴られた脛を擦りながら痛ぇ、とぼやく。
政宗は様見ろという表情で綱元に舌を出し、今度は自分が故郷の話を始める。
外の世界を綱元程知らなくても、自分にだって話せることはある。
何より、今は自分が幸村を独り占めしたいんだと、政宗は言葉なくして語っていた。
大人が思っているよりも、子供の独占欲は強いらしい。
特に初めて出来た友達、だからだろうか。
「綱元殿が悪いですよ、今のは」
「困ってるようだから、助け舟出してやったんじゃねえか」
「幸も幸だ、友を放って……申し訳ない、物知らずなもので」
「いえ、何も信幸殿が詫びることは」
またすっかり二人だけの世界に戻ってしまった子供を眺めつつ、大人達は顔を見合わせて笑う。
政宗は、また綱元に幸村を取られる事を警戒しているらしい。
どうせ道は一本道なのだからと、幸村を引っ張って前へ前へと進んでいく。
そんなにあからさまに毛を逆立てなくても良いだろう、綱元はぼやいた。
幸村はそんな政宗の様子が面白いのか、兄達を置いて進んで行っているのに気にもしない。
手を掴んで引っ張ってくれる友達だけを見つめて、それで他には、とまた質問攻めだ。
そんな中で幸村の腹の虫が鳴り、二人はしばし立ち止まってきょとんとして顔を見合わせていた。
今のお前? と言うように政宗が幸村を指差すと、今度は政宗の腹が鳴る。
今のは? と今度は幸村が政宗を指差して、数瞬後にはくすくすと二人で笑い出した。
そう言えば、子供達はまだ今日はまともな食事を取っていなかった。
幸村はずっと布団に蹲っていたし、政宗も朝餉をきちんと取っているとは二人の従者にも思えなかった。
今朝の様相のまま、つい四半刻前まで落ち込んでいたのだから無理もない。
散々泣いて安堵して、腹が減るのは無理もない事だ。
生憎信幸は持ち合わせがなかったが、小十郎と綱元は腹の足し程度のものなら持っている。
直ぐに荷物から取り出そうとした小十郎だったが、信幸がふと二人の様子に気付いてそれを止めた。
「真田殿?」
「……必要ないようで」
言う信幸に小十郎が不思議に思うと、綱元が前で立ち止まっている子供達を指差した。
政宗が手に取ったのは、いつも小刀と一緒に腰に身につけている小さな袋。
それを見た幸村がぱっと明るい顔になり、手を差し出すと政宗はその手の上で袋を傾ける。
ころり、と小さな甘いお菓子が転がり出た。
――――――金平糖だ。
ああ、だから金平糖の土産があると言った時、政宗はそれを欲しいと言ったのか。
嬉しそうに頬張る幸村を見て、自分も金平糖を食べながら嬉しそうに笑う政宗を見て、綱元は合点が行った。
貰って直ぐに食べずに、じっと見つめていたのは、きらきら光る砂糖菓子に、友達の笑顔を見たからか。
従弟の成実とだって分けっこなんてした事はあまりなかったのではないだろうか。
父親的な観点から思い出した綱元は、そんな事を考える。
「ゆきむら、あまいのすきか?」
「すき!」
「おれもすき」
他愛のない会話だ。
それでも、二人とも幸せそうで。
例え別れが秒読みでも、そんな風に笑う姿が見れただけでも、出張った甲斐はあるというもの。
「ゆきむら、おれな」
「うん」
「あまいの、すきだけどな」
「うん」
もごもご、ころころ。
口の中で金平糖を転がしながら、繋いだ手はぎゅっと握って。
「おまえのほうが、もっとすき」
好き。
好き。
大好き。
傷つけたけど。
傷ついたけど。
泣かせたけれど。
泣いたけど。
それでも、繋いだ手が、大好き。
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