弐拾弐
どれが嘘で
それがどんな意味を持っているのか
何が真実で
それがどんな言葉を抱いているのか
一番判っているのは、きっと
弟の表情が驚きに満ち満ちていくのを見て、信幸は小さく笑んだ。
まさか此処で逢える事があろうとは思わなかっただろうに、きっとこのまま逢わずいたかったのかも知れないけれど。
主の表情が驚きに溢れているのを見て、小十郎は小さく笑んだ。
もう二度と逢わないつもりであっただろうに、きっとこのまま思い出も何もかも置いて行くつもりだったのだろうけれど。
馬の上で茫然としたままの幸村を、信幸は抱き上げた。
突然の事に引っ繰り返った声を上げた弟は、不安定になって反射的に兄にしがみ付く。
弟を片腕に抱いたまま、信幸は危なげなく馬から下りると、幸村を地面に立たせた。
目を白黒させている幸村はいまいち状況が掴めていないらしい。
無理も無いだろう、思っても見なかった光景が目の前にあって、それに意識を奪われていたと思ったら、
有無を言わざる間もなく抱き上げられて地面に下ろされてしまったのだから。
信幸が馬から下りたのに続いて、小十郎も馬を下りた。
茫然自失のように立ち尽くす幼い主の傍らに立つと、倣うように綱元も馬から下りて歩み寄る。
小十郎にとっては、知らぬ相手ではない。
主との関係も話程度には聞いているから、聊か奇妙な緊張感に囚われつつも、じっと見守るつもりだ。
ただ綱元に取っては名も知らなければ顔も知らぬ、事情も小十郎ほど聞かされてはいないから、綱元は少し警戒しているようだ。
目の前の人物を見つけた途端に主がひたりと動かなくなったのだから、無理も無い話だけれど。
ざり、と土を踏む音がして、政宗が半歩前に踏み出した。
それは無意識の行動であったのだろう。
眼前の光景が自分にとってどんなものであるのか、いまいち頭で処理し切れてはいなかった。
幼いなりに冷静な部分を持つ政宗だが、やはり唐突な場面と言うものはいつでも怒るのだ。
綱元が政宗の名を呼ぼうとしたのが判って、小十郎はちらりと振り返ることで制した。
今はただ、見ていて欲しいと。
幸村はしばらく兄の袴の一端を握っていたが、少しずつそれから力が抜かれていく。
だが離れた手がそのまま重力に従って下ろされる事はなく、彷徨うように居所を探した。
子供達の時間は、止まっていた。
空を飛ぶとんびの声は、今この瞬間きっと聞こえていないだろう。
ただ、目の前の存在で何もかもが一杯で。
信幸と小十郎の視線が交わる。
互いに困ったような、少しだけ悪いことをしてしまったかな、という顔を浮かべていた。
共犯だ。
でも、仕方がない。
思うことは同じだった。
願うことは同じだった。
対象は違っていて似ていた。
大事な弟、大事な主、大事な子供、大事な大事な。
諦めた顔なんて見たくない、諦めた泣き顔なんて見たくない、笑った顔が見たい――――……
先に動いたのは幸村の方だった。
右足を一歩踏み出して、その足元は酷く覚束無いものに見えた。
ともすれば支えてやらなければ倒れてしまうんじゃないかと思うような。
けれど信幸が手を差し出さずとも幸村の両足はしっかりと地面の上に立ち、次の足を踏み出す。
最初の一歩を踏み出すことが出来れば、後は心に任せるまま。
踏み出すごとに近くなる姿が鮮明になっていく。
「………まさむね……?」
確認するように呼んだ声は、小さいものだったけれど、それでも相手に届いた。
一層瞠目して緋色を着た少年を見つめる政宗の瞳は、今にも零れ落ちそうな程に大きかった。
ふらふらと覚束無かった幸村の足取りが幾らか落ち着きを取り戻すと、今度は早足になる。
転んでしまうぞ、と信幸が言ったけれど、恐らく届くとは思っていなかったのだろう。
事実、幸村は兄の声など聞こえなかったように走り出す。
近付いていく土を踏む音、鮮やかになっていく目の前のその姿。
目の前にいるのが間違うことのない子供の存在だと知る度に、幸村の心は熱くなる。
言われた言葉を、忘れた訳じゃない。
川に落ちてしまって置いて行かれた事を、忘れた訳じゃない。
でも、それがなんだっていうのか。
走り出した子供と、立ち尽くしたままの子供と。
その距離は数間しか離れていない。
「―――――っまさむねぇ!!」
弾けたように呼ぶ声に、政宗がはっとしたように駆け寄る子供を見つめた。
何を言われたか覚えてる。
何を言ったか覚えてる。
置いて行かれた事を覚えてる。
置いて行った事をを覚えてる。
どんな顔をしてたのか覚えてる。
どんな顔をさせたのか覚えてる。
――――――……泣きそうだった。
――――――……泣かせた。
「くんな!!!」
叫ぶような、悲鳴のような、慟哭のような、そんな声。
痛みを帯びたその声に、小十郎と綱元は驚き、信幸は瞠目し、幸村はびくりと震えて足を止めた。
最初の距離の、丁度半分。
政宗が怒鳴るなんて、いつ以来だっただろうか。
綱元は訳が判らず小十郎へ目を向け、小十郎は驚いた表情で幼い主を見下ろしていた。
政宗は前を見るのを止めた。
伏せて前髪で見えなくなった瞳は、其処に緋色の子供を映し出すのを拒んでいるようにも見える。
否―――――……拒んでいるのか、怯えているのか。
足を止めた幸村は、其処からの切っ掛けを失くしてしまったように立ち尽くす。
その背を押したくなったけれど、信幸は歯を食い縛る。
政宗は数回頭を横に振ると、ぎっと幸村を睨みつける。
「なにしてんだよ、おまえ!!」
射抜く瞳は小さな小龍のようで、獰猛さを抱いている。
幸村は一瞬それに萎縮したように肩を竦めたが、それでもじっと政宗を見つめていた。
「おれは、おまえなんかもうあきたって言っただろ」
その言葉に蘇った傷みに、幸村が泣きそうに顔を歪める。
けれど、後ろには下がらない。
赤子の頃にしたように、兄に縋り付いて泣いたりしない。
ぎゅっと着物の裾を握る幸村と、腕を組んで幸村を睨む政宗と。
大人たちはそれを見守るだけだ。
「まだおれのこと、ともだちだって思ってんのかよ」
「――――っそうだよ! だって言ったじゃん!」
「おぼえてねぇよ」
「おぼえてないなら、もう一回言う!」
泣いた子供が喚いた声とよく似た、幸村の声。
きっと一番それに傷付くのが誰であるのか、幸村以外はきっと皆知っている。
――――同時に、その素直で真っ直ぐな心が、政宗にとってどれほど大きなものだったのか。
「まさむねにとってわたしはどうでも、わたしにとっては、まさむねはともだちだって!」
強く握りすぎて手が白くなってしまうんじゃないかと思うぐらいに、幸村は力を込めて着物の裾を握り締める。
掴んでいたものが滑り落ちてしまったその瞬間から、もう一度開くことを初めて怖いと思った。
もう一度手を伸ばして掴めたとして、また振り払われてしまったら。
初めて振り払われた瞬間の傷みは怖いくらいのもので、だから繰り返すことに酷く臆病になっていた。
嫌われたくないと思っていても、自分が相手を好きでいても、相手の気持ちは判らない。
ひょっとしたら言われた言葉が何よりの本心なのではないかと思ったりもした。
だから散々泣いたし、兄にも何も言えずにいたし、いつも呼んでいた忍の少年の名前も呼ばなかった。
吐き出してしまえば一時は楽になりそうだけど、そうしてしまった吐き出した瞬間に終わりになりそうだった。
噛み潰している間はまだ自分の中に残っているから、だから。
もう一度掴みたい、また振り払われるのが怖い。
堂々巡りのいたちごっこになってしまった自分の感情は、まだ己の中でぐるぐると渦巻いている。
だけど、楽しかったのは本当だった。
例えばあの日々が嘘からやってきた日々だとしても、其処に自分の心があったのは事実。
甘い金平糖を分け合って、兄から渡された握り飯を二人で食べて、
ちゃんばらごっこで打ち合って買って負けて、鬼ごっこをして走り回って転んで怪我を作って、それでも笑って。
一番最初がもしも嘘だったとしても、その時隣で笑っていた友達の存在までなかった事にはしたくない。
雨の日に聞いた話も。
二人で川で溺れた時、掴んで離さなかった手も。
浮島で二人、取り残されて零れた気持ちも。
何もかもが嘘だったわけじゃない。
其処に確かに、自分たちは存在していた。
其処に気持ちは、確かに在った。
「だからって………だからって、なんでくるんだよ!?」
「もう一回あいたかったんだもん!」
「おれは、おまえにウソついたんだぞ!?」
「かんけいないよ!」
「おれはおまえになんかあいたくない!!」
政宗が幸村に言った言葉が嘘でも、逢いたくなくても、嫌われていても。
悲しいことに変わりはないけど、だからって自分の気持ちまで否定する必要は何もない。
真っ直ぐ、気持ちを見せたくて。
政宗が逸らすように俯いて、それを見た幸村が呪縛から解き放たれたようにまた歩き出す。
歩み寄ってくるその顔だけでない、足取りまでが怒ったような色を浮かべて。
「くんな!!」
「しらない!」
「ちかよんな!!」
「しらない!!」
「おまえなんか、きらいだ!!」
俯いたのが、自分を嘘で塗り固めていくのを見られたくなかったからだなんて。
怒ったように近付くのが、本当は泣きたいのを誤魔化しているからだなんて。
お互い、判らない、けれど。
距離がなくなっても、政宗は其処から動かない。
幸村は長い距離を進んだ訳でもないのに、肩で荒い息をする。
二人引き攣ったように声をなくして、呼吸した。
それを見守る大人たちが固唾を呑んでいるなんて、きっと二人はずっと知らないままだろう。
幸村が一つ大きく息を吸うと、俯く政宗の両頬を手で掴んで、無理矢理顔を上げさせた。
間近に見える、 “ 友達 ” の顔。
何を言われたか覚えてる。
何を言ったか覚えてる。
置いて行かれた事を覚えてる。
置いて行った事をを覚えてる。
どんな顔をしてたのか覚えてる。
どんな顔をさせたのか覚えてる。
――――――……泣きそうだった。
――――――……泣かせた。
泣きたかったのは、お互い様。
「わたしは、まさむねがすきだもん!!!」
ああ、ちくしょう
だから、だからあいたくなかった
だいすきだから。
滲んだ視界に広がった、大好きな大好きな、“ 友達 ”。
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切り替えが早いのは、多分幸村の方。
ど真ん中ストレートだから。