弐拾壱
其処に涙があってもいい
其処に傷みが生まれても
……そうして後で笑ってくれるなら
出立予定にしていた子の正刻近くなっても部屋から出て来なかった、幼い主。
少しの間は仕方がないだろうとも思ったが、今日を置いては主の傷は更に酷くなってしまう。
昨日の昼に綱元から分捕った布団に包まったまま、政宗はあれからぴくりとも動かなかった。
食事だけは取って欲しかったから枕元に膳を置いたが、それもあまり減ったようには見受けられない。
昨晩は綱元がどうにか引きずって少しだけ食べてくれたが、今日は何も口にしていないだろう。
そんな状態で出発すれば直に主が疲れてしまうのは判っていたが、あまり遅く出る訳にもいかなかった。
だからまだ包まったままだろう主に出立を促そうと、小十郎は名を呼んで部屋の引き戸を開けた。
けれども、予想に反して政宗は既に起き、布団も畳み、着替えを済ませて部屋の中に立ち尽くしていた。
何をするでもなく其処に立ち尽くした主の背中は、“子供”と言うには少し不似合いに見えた。
背負った重みがどれほどのものか誰よりも知っていながらにして、なんでもない事なのだと気丈にして見せる。
其処に在るのは一人で立ち続けようとする、幼さを感じさせない寂しいもの。
いつも帯に差した短刀が、常に見るよりも酷く冴え冴えとして見えるのは錯覚ではない。
たった一つ、主の纏う空気が違うだけで、主の全てがほんの少し前と違って見えた。
「――――……政宗様」
何処か厳かささえ感じられるその張り詰めた空気の中で、ようやく、小十郎は主の名を呼んだ。
そうして振り返った主の表情は、小十郎もよく見た真一文字に唇を噤んだもの。
無表情にも取れるその顔は、幼い主が主たる為に誰も知らぬ間に見に覚えた仮面であった。
其処に数日前まで見せてくれていた筈の、幼い子供の色はない。
長い階段を一足飛びで駆け抜けてしまった、小さな音なの片鱗が其処に存在していた。
「でるぞ、小十郎」
帰るぞ、と言わないのは。
言えないから、言いたくないからだろうか、と思うのは、いけない事なのだろうか。
小十郎の脇を横切って部屋を出た主の後を、直ぐに追いかける気に離れなかった。
既に布団も片付けられてしまって使われた形跡すら残していない部屋に、何があるという訳でもない。
幼いというのに随分しっかりとしてしまった子供が何事か忘れ物をする事もないだろう。
―――――寧ろ、主はきっと此処に何も残して行こうとせぬだろう。
それを判っているのに、小十郎の踵は返ろうとはしなかった。
開ける時に添えられた手が、触れたままの襖戸から離れようとしない。
未練があるのは、自分の方だ。
ついこの間まで見ていた主の姿を求めている自分の方が、余程未練がましい事を考えている。
主は己が何処にいるべきか知っていて、その為に何を選ばなければならないかも知っている。
幼くして否応なしに思い知らされた奈落の暗闇と、絶対零度の孤独。
それは常に主の心の中に巣を作り、何をしても完全に拭い去られる事はないだろう。
何処にいても、誰と在ってもそれは変わらないと思っていた。
いつしか本当の大人になっていく仮定の中で、自身の中で一つの区切りをつけられるまでは、きっと変わらないと。
……それが、此処に来て変わった。
笑って。
拗ねて。
約束をして、その喜びを知って。
今日と言う日が終わる事に淋しさを感じ。
明日と言う日が来るのを待ち侘びて。
よく晴れた空の下で駆けて行く子供の背中が、今酷く懐かしい。
どれだけそれを願っていたか。
どれだけそれを望んでいたか。
幼い主に告げる事は、きっとないだろう。
それでも、この地に来てから半ば諦めかけていたその顔を見られるようになって。
包帯を解いた自分の顔を見つめた主の呟いた言葉が、どれほど小十郎にとって大きな意味を持ったことか。
「―――――片倉殿」
聞こえた声に振り返ると、眉根を寄せて顰め面を浮かべた鬼庭綱元が其処にいた。
「もう行こう。政宗は、とっくに心を決めてる」
淡々と告げる言葉の中に垣間見える強さは、年の功とでも言おうか。
口にすれば恐らく烈火の如く怒るだろうが、其処が今の小十郎にとっては酷く羨ましかった。
此処での暮らし振りを知らぬという差はあれど、幼い主を見守ってきた年月に然程の差異はない筈だ。
だのに目の前の男は主の選ぶ道を、その心意気を受け止め、主が選んだ道ならばと其処に殉ずる。
それに比べて自分はと言えば、今もこうして留まろうとしている。
自分が本来在る場所へと帰る事を自ら決めた主。
幼い背に背負うそれがどれ程のものであるか、どんな意味が篭められているか判っているつもりだ。
傍仕えであると言われても、此処で自分が口出しするのはただの筋違いでしかない。
けれど、もう一度部屋の中へと振り返った時、近付く夏の陽炎の中に、一時の夢を見てしまいそうだった。
だから。
だから。
「―――――参りましょう」
出張ることを赦して欲しい、今だけは。
その夢をもう一度、現で見たくて。
果てのない蒼の下で笑う子供達が見たかった。
二頭の馬の一頭に綱元が乗り、もう一頭に政宗を前に乗せて小十郎が跨る。
高くなった地面をこの主が怖がった事はなく、時折手持ち無沙汰に目の前に在る馬の鬣を撫で弄っている。
表情は今までにもよく見てきた仏頂面であったが、少しだけ淋しそうに見えるのは小十郎の気の所為か。
規則正しい蹄の音は、惑う事無く隣国へと続く甲斐の国境へと進んでいる。
活気のある宿場町を抜け、子供たちが駆け回る姿の目立つ大路を抜け、今はもう田畑が目立つ光景が眼前に広がっていた。
名残惜しささえ感じさせない幼い主は、欠片も後ろを振り返ろうとはしない。
それに気付いた時、馬の鬣を撫でる未だに小さな手が何かを誤魔化そうとしているように小十郎は思えた。
そして、それはあながち間違ってはいないのだ。
主は知られたくないと望んでいるけれど。
とんびの鳴く声がよく響く。
夏が近付き、少し湿気がべたついてくるような気がする。
北国生まれだから、余計にそう思うのだろうか。
もう少し早い時期に甲斐に来ていたら、咲き誇る桜も見れたのではないだろうか。
小十郎が政宗とともに甲斐に入ったのは春の半ばを既に過ぎた頃だったから、桜の時期は終わっていた。
名残のように幾本かまだ咲いてはいたけれど、結局それも録に見る余暇もないまま散ってしまった。
桜前線が上がってくる中を下る道中、通り道で咲き誇る満開の桜を見たりもしたけれど、やはり此処で見たかったと今は思う。
下る道の中で政宗は祖国にないものを見つけてははしゃいで見せていた。
けれどそれは、小十郎の心中を察しているからこそのもの。
大人の思惑を覗くことにいつしか長けてしまった幼い子供である筈の主は、何処か一足飛びに大人の領域に踏み込んでいた。
貴重な砂糖菓子や南蛮渡来の品や、祖国にない道端の大輪の花を見つけて笑ってはくれたけれど、
確かに幼心の中で芽吹いたものはあったのだとは思うが、それが花開くにはそれらだけではまだ足りなかった。
だけれど今なら―――――否、ほんの数日前までならば。
同じものを見ても、また違っていたのではないだろうか。
それが一つの小十郎自身が抱く願いであっても、そう思わずにはいられない。
あの時なら、あの日までなら、あんなに無邪気に蒼の下を駆けて行った後姿を見せてくれた時ならば。
頭上を飛び回るとんびを追い駆けたりもしたのだろうか。
「―――――思いの外、甲斐はいい所だったみたいだな」
少し後ろを進んでいた綱元の声がして、小十郎の意識が思考の淵から現実へ帰る。
振り返らずにそうですね、とだけ言ってすぐ目の前の幼い主へと視線を落とす。
小さな頭の旋毛は、微動だにしなかった。
けれど、気付いてしまった。
誤魔化すように隠すように押し込めるように、馬の鬣を撫でていた手が一瞬固くなった事を。
知らない振りをして、小十郎は肩越しに綱元へと振り返る。
「このまま夏になれば、我らでは少々辛くなったかも知れません」
「そうだな。奥州と此処とじゃ気温が違い過ぎる」
「だからこそ、此処は奥州よりも芽吹くものもあるのでしょうな」
田畑で田植えをしている人々を眺めながら、小十郎は言った。
倣うように綱元もそちらに目を向けて、それから道の端に咲いていた小さな花に目をやる。
奥州にも、その国特有の花や動物達はいる。
それらは過酷な環境の中、ただ生き抜く為に進化し、その姿は力強い。
変わって此処では弱いとは言わないけれど、温もりのような、陽だまりのようなものがある気がした。
……だから、溶かしてくれたのかも知れない。
凍て付いた場所で自ら刻を止めてしまった、小さな小さな花の温かな成長を。
「政宗、お前はどうだった?」
「―――――あ?」
半ば唐突気味に話を振られて、少々瞠目して政宗が綱元を振り返る。
馬から横合いに乗り出す格好になったが、特に危なげな様子は見られなかった。
政宗は僅かに顔を顰めたが、甲斐での自分たちの生活ぶりを知らぬ綱元が感想を聞こうとするのは自然なことだ。
振り返ってみた綱元の目がまるで息子を見る父親のようで、小十郎は苦笑する。
以前政宗だったかその従弟だったかが言っていた“綱元が父で、小十郎は母だ”という言葉を思い出したものだから。
しばし綱元を見ていた政宗だったが、ふいっとまた前へと視線を戻す。
がしがしと後頭部を荒っぽく掻いて、こころなしか耳が紅いように見えるのは小十郎の気の所為か。
毎日外に賭けて一日中遊び返っていたというのに、今になって近付く夏の天道に当てられた訳でもあるまい。
先ほど馬の鬣を弄っていた手はまた手持ち無沙汰に揺れたが、それは言葉を捜していることを示していた。
綱元が急かさなかったからか、政宗はやや間を置いてから目線を前に向けたまま、呟く。
「わるか、なかったよ」
思い出を此処に置き去りにしていくように。
これっきりだと、言われたような気がした。
同じような言葉を小十郎は前にも聞いた。
聞いたけれど、あの時とは違う色が此処にある。
受け入れられずにいたものを受け入れて、照れ臭そうに笑っていた、あの大雨の日の夜。
既に外の暗雲は晴れつつあって、それでも暗い部屋の中、行灯に照らされた主の顔。
ある筈のものを失い空洞になってしまった其処は、誰もが忌むべきものだと、腫れ物のように扱っていた。
周りがいつまでもそんなものだから、幼い主の中でもそれはやはり同じ形で心の中に根付いてしまった。
だけれどあの日あの時、主は笑った。
暗がりの部屋の中で小十郎が見たのはその幼い横顔だったけれど、それでも笑ったことは判った。
困ったように嬉しそうに、照れ臭そうに―――――……それを見たのも、何年振りのことだったか。
今それと同じ言葉を聞いた、けれど其処に篭められる意味も思いもまるで違う形を成している。
受け入れられなかったものを受け入れようとするのではなく、受け入れられないから捨ててしまおうという諦めのような。
「それは、良かったですね」
小十郎がそう言うと、おう、と小さな声が返る。
その直後に、歩く馬の上から政宗が途端に飛び降りた。
「政宗様?」
何か忘れ物でも、と思って問いかけると、政宗の幼い割には切れ長の瞳が小十郎を見上げた。
しばらくじっと小十郎を見上げていた政宗は、少し緩慢な動作で今まで馬で来た道を振り返る。
田畑の真ん中を通る少し大きな道は、真っ直ぐ戻っていけば少し前まで身を置いていた甲斐の街へと辿り着く。
まだ小さな幼い足がその道を戻ろうとする事は無かったけれど、まるで瞳に焼きつかせようとしているようだった。
想いは此処に捨てて。
自分の記憶の中にだけ、形を残す。
何処か矛盾したその幼い行動が、政宗の本音をそのまま語ってくれたような気がした。
誰もいない道を見つめるその瞳は、ほんの少し前まで誰を映し出していたのか。
蒼い空の下で駆けて行った後姿は、いつも待ち侘びて待ち侘びて待ちくたびれて、我慢しきれず弾けた子供のようだった。
帰って来た時は嬉しそうに笑って、眠る時まで落ち着かなくて、まるで瞼の裏で出来事の続きを見ているように見えた。
そして朝が来ればまた弾けたように小十郎を振り切って走り出して、楽しそうに笑った。
毎日毎日小さな擦り傷を作って、時には派手に転んだのか痣を作って帰ってきた。
小十郎がそれを見て一人で真っ青になっていれば、こんなものはなんでもないと言って誇らしげにしてみせる。
その姿は御家で従弟と遊んでいた時に見たものは少し違っていた。
擦り傷が治ることさえ惜しそうにして見ていた横顔は、名残が消えるのを淋しがっているようだった。
その目に映る名残が、全ての証のように。
右目に触れれば其処にあるのは空洞で、其処が光を見る事は二度とない。
幼い主の世界は左目だけで認識されていて、右目はとうの昔に役割を放棄してしまった。
誰が望んだ事ではなかったけれど、結果的にそうなってしまった。
だけれど、右目は光を見た。
幻のようなものでも、それでも“光”と呼べるものを見つけた。
きっと、今日のような蒼い蒼い空の下で。
進む道の向こうに見つけた影に、小十郎は少しだけ笑む。
淋しさと申し訳なさと、喜びと。
少しだけ主を裏切ってしまった事に、心の中で謝罪する。
「政宗様」
「………おう」
恐らく、今の会話に意志の疎通の目的は無かった。
それでも聞こえてはいたから返事だけをして、政宗はくるりと踵を返す。
そして。
―――――……焼き付けたいのは、そんなものではないでしょう。
振り返ったその先には、果てのない蒼と――――――――――………
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当初予定になかった政宗サイド。
寧ろこれだと小十郎サイド…?
対にしてみたつもりです。