弐拾
子供たちの見る空が
どうか、未来も晴れていますように
屋敷に戻ってみれば、弟は家を出た時と何も変わらぬまま、布団の中で蹲っていた。
ただ目は覚めているようで、時折愚図るような声が漏れて聞こえてくる。
もともと小さな体つきの幸村だが、そうして布団に包まって丸くなっていると余計に小さく見えてしまう。
信幸はそんな弟に可愛いものだな、と少々ずれた事を考えながら、苦笑を浮かべてその布団に歩み寄る。
兄が戻ってきた気配に気付いたのか、僅かに布団が揺れたけれど、それが捲られる事はなかった。
弟はただ、ただ耐えようとして、その幼い背中に浴びた冷水が流れ落ちれ消えるまで此処から出ようとしないだろう。
それを邪魔するのは、ただの過保護かも知れない。
知れないけれど、それでも信幸は行動する事に決めた。
この幼い弟が耐えようとしているものは、決してそのまま過去にしていい事ではない。
甘やかしているのではないかと言われれば信幸に反論の余地はないし、実際にそういう気がしないでもない。
違うのはその根源にあるのは決して弟が可愛いから、まだ弟が幼い子供だから、それだけではないこと。
別れというものは須らく誰にでも訪れるものだけれど、望まぬ別れというものは生きている道の中で幾らでもあるけれど、
それにただ黙って耐えるのはもう少し先の未来の日であっていい筈だから、それまではまだ心から笑って欲しかった。
いつか来る日の別れの日まで、もう少しの間、弟は絹に包まれてもいい筈だから。
そっと弟が蹲る隣に、なるべく音を立てないように腰を下ろした。
けれども衣擦れの音とはしてしまうもので、それを聞いた幸村が益々縮こまってしまった。
きっと今、幸村のあの大きな瞳は真っ赤になっている事だろう。
泣き明かして目元が腫れぼったくなっているかも知れない。
それらはどちらも、幸村は見られたくないと思っているだろう。
胸のうちで一つ、小さくごめんな、と謝って幸村の布団に手を触れた。
「幸、目が覚めたか?」
返事が来ないのは、返事をしたくないからではなくて、きっと喉が引き攣っているから。
だから言葉の変わりに、頭の部分が小さく頷いたのが見えた。
「今日はな、良い空だぞ。雲もない。今日は、遊びに行かなくて良いのか?」
ごく普通に、ただ昨日の朝まで繰り返していた問いをもう一度投げかけてみる。
幸村はそれに一度震えると、またしても小さく小さくなってしまう。
それ以上小さく縮こまる事など出来ないだろうに、それでも丸くなってしまう弟に、信幸は苦笑した。
目は口ほどに物を言うと言うが、弟の場合はそれを全身で表してくれる。
事によっては知られたくない事なのだろうけれど、信幸はそんな素直な弟が愛しかった。
「珍しいなぁ、お前がそうしていつまでも寝ているのは。どうした、腹が痛いのか?」
弟が変な重みを感じないように、一度視線を逸らし、信幸は開け放った障子の向こうを眺めながら言う。
信幸の言葉の通り、外はすっかり晴れ間が広がり、雲は所々に見えるだけ。
それも真っ白な雲で分厚く、ああもう夏だったかと信幸は独り言を漏らした。
この天気の中、外で駆け回って遊んだら、きっと弟の血色の良い肌は真っ黒になっているだろう。
今も前に信幸が出仕で家を開けたばかりの事を思えば、随分と健康的に焼けたものだ。
信幸の言葉に、幸村は少しの間を置いてから、小さく頭を横に振った。
それは布団の中での事だったから信幸は見えにくかったけれど、それでも判らなかった筈はなく。
「そうか。ならば良かった。しかしそれなら、今日は外には行かぬのか?」
繰り返し問う事は、今の弟にとって酷く辛いことだろう。
けれども信幸はそれをなるべく和らぐように優しい声音で、もう一度だけ繰り返した。
返事はない。
今度は、頭を揺らす事もしない。
そうして頭もすっぽり隠れていた布団を更に引き上げたから、今度は足先が出てしまった。
それにしても、もう夏だというのに布団の中に包まって暑苦しくはないのだろうか。
今の弟には、そんな事を感じる余裕すらないのかも知れない。
このまま、放っておいて欲しいと思っているのかも知れない。
それでも出来ないこの兄は、本当に過保護になっている。
自覚しながらも、今回ばかりは。
「今日は遊びに行かぬなら……幸、私と遠乗りをしないか?」
言うと、一度弟の体が小さく振え、そろそろと可愛い頭が布団の下から覗き出てきた。
やはりその目は真っ赤になり、目元は腫れぼったくなっており、泣いた後さえも残っていた。
それに少しの痛々しさを感じながら、けれども信幸は微笑んだ。
兄の突然の提案に、幸村は少し驚いたような表情を浮かべていた。
「とおのり…ですか……?」
「ああ。しばらく幸と何処に出掛けてもいなかったしな。久方ぶりに、どうだ?」
以前は出仕で、昨日までは弟が毎日遊びに出掛けていて。
前者は仕方がないし、後者は弟がいつも楽しそうだから邪魔をしたくなかった。
けれども、やはりただでさえ一緒に過ごす時間が短かったのだから、たまに家にいる間ぐらい構い倒したいものだ。
今までだってそうしていて、御付の少年には悪いと思うけれど、家に戻った時には父も自分もとにかく弟に構い倒す。
それがごく当たり前にもなっていて、時には結構ですと言う御付の少年も巻き込んでいたものだ。
触れ合いと言うものに慣れていない少年は戸惑い勝ちではあるが、隣で弟が笑うのを見ると、まぁいいか、と思うようになった。
けれど、今日こうして弟を誘ったのは、何もそれだけが理由ではない。
「今日は風も気持ちがいい。私は、久方ぶりに幸と遠乗りがしたい。幸は、どうだ?」
家にいたいと言うかも知れない。
一人がいいと言うかも知れない。
でも、弟の笑った顔が見たいから、弟がなんと言っても外に連れ出したかった。
空の下で笑う子供が見たかった。
前に座る弟が落馬したりしないように、時折幸村の体を支えてやる。
その傍らで馬の手綱を巧みに操り、信幸は真っ直ぐに前を見ていた。
幸村と兄と同じように顔は前へと向けられていたが、走り抜ける風景はきっと見えていないだろうと信幸は思う。
今もまだ、ともすれば涙が出そうになるようで、時折俯いては堪えるように肩を震わせた。
いつもならそんな弟の頭を撫でたりするのだけれど、今この時、信幸は体を支える以外に幸村に触れはしなかった。
視線は真っ直ぐに進む方向へと向けられたまま、敢えて弟の顔を見ようとはしていなかった。
突き放している訳ではない。
本当は、ずっと強く抱き締めて、もっと声を上げても良いんだと。
だけれど今それを自分がしてしまっては、今この時もまだ耐えようとしている幸村の心を台無しにする事になる。
あくまで自分の中で決着をつけようとしているのだから、自分が不用意に手を伸ばして捕まえるのは無粋な事だ。
だからせめて、この幼い背中を一つ押す事だけは、赦されることだと願いたい。
時折俯いては、また顔を上げ、瞬き一つすらするのが今は辛いだろうに。
一所懸命に口を噤んで耐えようとする細い肩の、なんといじらしいことか。
―――――空は屋敷の中で見たの光景と同じ、透き通った蒼が遠くまで続いている。
信幸がこの空を見上げる時、傍らに愛しい弟の存在が在る事は酷く稀なことであった。
まだまだ若いと言われても流石真田の長男、と呼びなわされる信幸だ。
父に続いて功績を挙げる信幸は一日の大半を甲斐の虎のもとへ出仕して過ごすことが多い。
歳の離れた弟だけが一人屋敷に残り、その傍らには御付の忍の少年の姿があり、信幸が其処に留まる事は滅多にない。
致し方ないこととは言え、何もその現実に少しの寂しさも覚えなかった事はなかったものだ。
今日の様に晴れた日、鍛錬の合間にふと空を見上げて、弟を思い出すことはよくあった。
広がる青空の下で、照らされる太陽の下でそれよりも眩しく笑う弟の顔を思い出して、ああ早く帰りたいものだと思うこともある。
だから屋敷に帰った時、お帰りなさいと言って抱きついて来る幸村の笑顔は、信幸にとって何よりの至福であった。
ああ帰ってきたのだと、此処に、弟の待つ此処に帰ってきても良いのだと感じられるから。
蒼い蒼い空の下で、駆け回る姿を見るのが好きだった。
昨日まで楽しそうに屋敷を飛び出していった後姿を見るように。
屋敷を出て、街を抜け、田畑の景色が目立つ頃になって、信幸は馬を奔らせた。
こうやって幸村と二人で遠乗りに出かけるのも、いつ以来だっただろう。
一年か二年前はこれに御付の忍の少年も一緒になっていて、はしゃぐ弟を落とさないように必死になっていたのを覚えている。
不思議と幸村は馬を怖がる事がなく、それを見た父はこれは大物になるだろうと言っていたものだ。
その時は大袈裟でしょうと笑って言った信幸だったが、しかしそれでも幼い幸村の度胸は大したものだと思った。
馬も幸村のことは随分と好いているようで、顔を撫でたり、体を洗ってやるとどの馬も喜んで鳴いてみせる。
中々いう事を聞かない馬も、何故か幸村の前では大人しかったりするのだ。
幸村が十になる頃にもなれば、揃って早駆けも出来るかも知れない。
どれだけ早い速度で走っても怖がることのない幸村は、どれ程の速さで走り抜けていくだろう。
その日が今から酷く楽しみな気がして、信幸はふ、と小さく笑みを零した。
と、その笑みが聞こえたのだろうか。
前と下を向いてばかりだった幸村が、信幸の方へと振り返った。
「……あにうえ?」
呼ばれて少し視線を落とせば、不思議そうに見上げてくる瞳とぶつかった。
昨日から今朝までずっと泣いてばかりだったその顔は、酷く腫れぼったい事になっている。
けれども信幸はくすりと笑んで見せると、また前へと目を向けた。
「どうかしましたか?」
「いや。ただ、幸が此処にいるのが嬉しくてな。つい笑ってしまった」
信幸のその言葉は偽りでなく、確かに嬉しかったのだ。
理由がどうあれしばらく振りの二人での遠乗りなのだから。
「こんなに気持ちの良い空だ。お館様のお膝元で見るのも良いが、やはり私は、お前とともに見るのが良い」
頭上で鳴き声を響かせるのはとんびだった。
ゆったりとした風に誘われるように旋回するその影は、蒼い空の下によく映える。
鳥が冬を越えようと移動する時期には白鶴が見られることもままあり、いつであったか幸村はそれを追い駆けようとしたりして、
―――――あの日もやはりこんな空の下で、何処までも駆けて行ってしまう弟を、御付の少年と慌てて追い駆けた事もある。
あの日珍しく一緒に出かける事が出来た父はと言えば、馬の傍で元気な次男の姿に笑みを浮かべていた。
数年前に見たその光景を、今年もう一度見ることは出来るだろうか。
父の暇が出来ればいいが、真田を背負い、甲斐の虎の両目とまで言われる智謀に果たしてそれが赦されるか。
厳格に見えてどういう訳か次男に対してだけはまるで甘いものだから、幸村に強請られれば断われないかも知れない。
その頃になれば、今大事な時期だからと修行から戻る事を赦されぬ御付の少年も一息吐いて戻ってくるだろう。
そうして幸村を囲む日がまた来るといい。
その時、空の下で元気に笑う、幼子の姿を願う。
ぐっと手綱を引けば、馬は一つ嘶いてその脚を止めた。
蹄の音を数回させて、ぶるるっと顔を振るってようやく馬は静かになる。
このまま道なりに進めば隣国への国境がある。
流石にそれ以上行こうとはしない信幸に、幸村が疑問を覚えることはなかった。
けれども、其処から道を戻ろうとしないのには不思議を感じたらしい。
「……あにうえ?」
「………なんだ?」
「…もどらないのですか?」
「お前は、どちらが良い?」
質問を質問で返す会話が続いて、幸村は眉をハの字にしてしまった。
国境付近になって立ち止まって、幸村はこのまま戻るとばかり思っていただろう。
けれど信幸は動かぬまま、戻りたいか否かと問うてくる。
信幸が何を考えているのか、それよりもまず質問の意味が判らなかったのだろう、幸村は首を傾げた。
その仕草が本当に幼くて、信幸は声を上げて笑う。
すると幸村は余計に訳が判らないという顔になってしまった。
「あにうえ?」
「ふふ……ああ、悪かった。お前のその顔を久しぶりに見たからな」
「…??」
「気にするな」
ぽんぽんと幸村の頭を撫でれば、また一度首を傾げたものの、こくんと頷いた。
「それはそれとして、だ。幸、聞いても良いか?」
「……なにを…ですか?」
主語を抜いた信幸の言葉に返事をするまで、僅かな間があった。
やはり触れられたくないのだろう。
まだ自分の中で収まっていない感情をもう一度持ち出してしまっては、ずっと耐えた涙がまた溢れてしまう。
泣き出す一歩手前の表情になった幸村の頭をもう一度撫でる。
「言いたくなければ言わなくて良い。ただ、出来れば教えて欲しいんだ」
一つ逃げ道を残してくれる兄に、幸村は少し不安そうな顔はするが、それでも僅かに表情が綻んだ。
素直な弟に信幸も笑みを浮かべると、空を仰ぎ見る。
「生きて行くうちで…これからお前がどう生きようと、きっと何かの形、何かの出来事は胸の内に後悔として残ることもあるだろう」
父や兄の背中を見て戦に出る事があれば、其処で誰かを失い、涙する事も在るだろう。
守れなかった今は判らぬ誰かを思い、苦しむ日もあるだろう。
その道を選んだことそのものを、悔やむことさえあるかも知れない。
その逆も、また。
「それでも、お前が望むまま生きて、そして残るものだと言うのならそれは恥ずべきものにはならないと私は思っている」
それは半ば、願いにも似たもの。
時に立ち止まり、時に瀬を振り返ることがあるとしても、出来る限り前を向いて生きていって欲しい。
後悔がないようにとは言わない、それはどうしても着いてまわってくるものなのだから。
だからせめて、其処にぶつかるまで、目指したものへ、望むものへと手を伸ばして欲しかった。
仕方がないだとか、どうにもならないとか、それだけで諦めて欲しくなかった。
出来る事なら全部やり尽くして、真っ直ぐその事実に向き合って欲しかった。
まだ手が届く筈なのだと、気付いて欲しいから。
「今、その手に握りたいものは、なんだ?」
信幸の言葉に、幸村が僅かに瞠目した。
泣いていた理由でもなく、毎日外に駆けて行った理由でもなく。
ただの問い掛けと言うには浅くはない言葉に、幸村はずっと握り締めたままの小さな手へと視線を落とす。
父や兄の手を、いつも傍についている少年の手を、いつだって握っていた小さな手。
歩幅の違いで置いて行かれそうになっても、繋いだ手だけは絶対に離そうとしなかった。
小さなその手に掴んだものが、些細だけれど幸せの片鱗であったことに間違いはない。
だが昨日からずっと握り締められたままのその手には、何も収まってはいなかった。
けれど、ほんの少し前まで、その手は青空の下で大きく花開いていた筈で。
それがぱたりと萎れたように閉じてしまったのは、其処に父や兄の手も、今此処にいない少年の手も何もなくて、
―――――――きっと、ついこの間まで握っていたものがすり抜けてしまったから。
一度滑り落ちてしまったそれに、もう一度手を伸ばしていいのか。
もう一度手を伸ばして届いたとして、また落としてしまったりするのが怖くて。
怖くて、何も掴まないままただ強く強く握り締められた、小さな手。
その手が今、求めているものは。
――――聞こえてきた蹄の音に、ゆっくりと馬の手綱を引いて反転させる。
振り返ったその先には、果てのない蒼と――――――――――………
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