拾玖
未来は、きっと
光に溢れている筈で
どうか愛した子供がその光を見失わないように
来て、それで何かが判るとか、変わるとか考えたつもりはなかった。
けれども他に思いつく場所もなかったし、何か変わったとしたらきっと此処だったのだと信幸は思った。
だからまだ空も白んだばかりの時間から屋敷に幼い弟一人を残して此処まで馬を飛ばしてきた。
昨日から塞ぎ込んだままの弟を一人にする事に躊躇いがなかったと言えば嘘になるが、そのまま日々が過ぎるのを、
何をする事も出来ずにただ見続けているだけと言うのも信幸は耐え難いことだと思ったのだ。
これが単なる悪足掻きになろうことは重々承知していたが、それでも何かしたかった。
戸締りを厳重にして、呼び付けを貰ったという書置きと朝の食事の支度を済ませて、信幸は屋敷を出た。
目覚めて一人になった弟が何を思うか、それだけは酷く心に取っ掛かりを残したままだ。
そうして馬を飛ばして四半刻もせぬうちに、目的の場所へと信幸は辿り着く事が出来た。
此処で何もなければ、自分は本当に何も出来ないような気がした。
向かった場所は、弟がいつも遊んでいる川原だった。
台風などの天候の荒れがなければ、此処の風景はいつも変わらないままだ。
信幸が以前此処に来たのは随分前の話になるが、その時は川辺で弟が駆け回り、御付の少年がそれを追いかけていた。
その時も川原には柔らかな風が吹き、川は静寂の隙間を縫ってせせらぎの音を聞かせてくれたものだ。
広がる景色はその時と何も変わっていない、ただ子供たちの姿が其処にないだけで。
馬を土手の上に残して、信幸は緩やかな土手の坂を滑る。
誰の姿も其処にない川原は、酷く静かだった。
記憶にあるのが弟の笑い声や、御付の少年の声に染められているから、尚更そう思う。
此処しばらく御付の少年が不在でいる間に、弟は此処で新しい友達を作った。
名前も知らなければ勿論顔も知らないその人物も、今この場にはいない。
こんな朝早くからいる筈もないと言えば、確かにそうなのだけれど、何故かゆっくりしてはいられなかったのだ。
このまま時間が過ぎ去ってしまえば、二度と弟の笑顔を見られないような、そんな気さえして。
しかし、
「やはり……何もない、か……」
せせらぎの音だけが静寂を縫う中に、ぽつりと呟いた自分の声がやけに響いたような気がした。
何気なく足元に落ちていた小石を拾う。
随分前に見た子供たちの遊びを思い出して、信幸はそれを川原に向かって投げた。
それは水面を四度跳ねて、ぽちゃんと少し侘しい音を立てて水底に沈んだ。
これは確か御付の少年が教えた遊びだったと思う。
弟は真似して何度も繰り返していたけれど、多くて三度跳ねたのが精一杯だったと信幸は記憶している。
あれから随分時間が経っているから、もう少し上達しているのかおも思うけれど。
御付の少年に至っては流石といおうか、対岸近くまで跳ねて行ったような気がする。
何度かそれを繰り返して、足元に平たい石がなくなったのを期に、石投げを止めた。
適当に大めの石の上に腰を下ろすと、このまま暇を持て余されると思ったのか、土手の上で馬が不満そうに嘶いた。
ちらりとそちらを見やって少し悪いと思いはするものの、結局信幸は其処から動こうとしなかった。
まだもう少し悪足掻きを続けていたかった。
このまま此処にいても何も変わらないとしても、僅かな可能性があるとしたら、此処以外にないのだ。
脳裏に蘇るのは、昨日の弟の様相。
朝は嬉しそうに外に賭けて行ったのに、帰って来た時には身も心も酷い有様だった。
それでも何があったと一言も言おうとしなかったのは、何故か。
何度も何度も、信幸はそれを繰り返し考えていた。
何があって、それが何をもたらし、弟の心に根付いたのか。
何度思ったところで考えたところで浮かぶものは信幸の中の仮定でしかない。
確かなものが其処にはなかった。
確かな答えが欲しかった。
それが判れば何か出来るかも知れないと、藁にも縋る思いで。
もう少し待っていたら、何か判るだろうか。
いつも弟が屋敷を駆け出して行った時分になれば、何か変化はあるだろうか。
ただ静寂とせせらぎだけが響く、この静かな遊び場に。
一刻程を其処で過ごせば、流石に信幸も諦めが来ていた。
その諦めは決して見目の良いものではなかったけれど、このまま此処にいても何も変わらないと言う事は感じられる。
此処で無為な時間を過ごすよりも、屋敷に戻って弟の傍にいる方が何倍も良い事のようにも思う。
それでもまだ腰を上げる気にならないのは、自分でもどういう理由だろうかと、今度はそちらに思考を巡らせる。
屋敷に戻って弟の落胆した表情を見たくない、それもある。
結局何も出来なかった自分を悔やみそれで弟に合わせる顔が判らない、それもなくはない。
此処まで粘ったのだからまだ粘ってやろうか、それも頭の隅にあった。
だけれどどれもはっきりとそれだと言い切るには至らず、信幸は溜息を吐いた。
こんなにも自分は優柔不断であったか、と。
帰って弟の顔を見たい、それが例え泣き顔であっても、泣き腫らした顔であっても、なんでもいい。
だけれどその前に、もう少し此処にいなければならないような気もするのだ。
土手の上で待ちぼうけにさせている馬の嘶きが聞こえた。
そろそろ辛抱ならなくなったのかと思ったが、よく聞けばそれにしては少し違う嘶き方だった。
堪らず、信幸は立ち上がると、土手を駆け上った。
「………あ……」
「―――――あ………」
土手を登った先に、人がいた。
少し気弱そうな顔をした、上等な装いをした自分と同じ年の頃の若者。
腰に刺した刀には、僅かに見覚えのあるような気がする家紋が垣間見えた。
先に言葉を漏らしたのは相手方で、それに釣られたように信幸の唇からも声が漏れた。
それは形にならず、ただ相手を認識したという事だけを知らせる程度のものだった。
相手方は茫然としたように信幸に目を向けていて、同様に信幸も取り合えず土手を登ったものの、どうして良いか判らなかった。
沈黙が支配するその間の居心地の悪さを非難するように風が吹く。
信幸の長い黒髪がそれに靡けば、相手の短めのそれも微かに揺れた。
何か。
なんでもいい。
何か、言わなければ。
探していたものが目の前の人物であるのか、それは判らない。
ただ此処で何もせずにいたら、今後もきっと同じになる。
そう思っていたら、相手方の方が先に口を開いた。
「貴殿は――――――……貴殿は、日頃此処で遊んでいた御子達を存じておられますか?」
搾り出したような、押し出したような声だった。
けれど告げられた言葉はしっかりと信幸の鼓膜に届き、脳に届き、認識させる。
日頃、此処で遊んでいた子供と言ったら、信幸の弟以外にいない。
御付の少年は此処しばらく姿を見せないし、ならば他に誰がいるというのか。
此処は街の中心部から少々離れた場所にあるからか、遊ぶ子供と言ったら彼らぐらいだった。
他は時折旅人が通りがかる位で、信幸は他に人目があるとは知らない。
口にせずとも、信幸の表情がそれを全て語っていた。
その滅多に人目につかぬ所を常の遊び場にしている弟の事を、何故目の前の人物が知っているのか。
けれども信幸安波は質問に答えず、瞳だけで睨むように相手を睨む。
顔も知らぬ相手が幼い弟を知っているとなれば、少しでも警戒するのは仕方があるまい。
幼くても、弟も“真田”の者。
まだ物事の是非もよく判らぬ時分から命を狙われた事は少なくない。
御付の少年が実によく出来ているので、大事になった事は滅多になかったが。
警戒心から、信幸は半ば無意識に腰の刀に触れていた。
それを、何と察したのだろうか。
途端に、相手方の若者はその場に土下座した。
「申し訳ない!!!」
人目がないとは言え、唐突にそんな行動に出られれば信幸でも瞳を瞠った。
上等な袴も何も体裁も投げ捨てて、若者はただ地べたに額を擦り付けている。
あまりにも突然なそれに毒気を抜かれたようで、信幸は嘆息すると、腰の刀の柄に当てていた手を外した。
重力に従って下ろせば衣擦れの音がして、しかし相手はそれでも頭を上げようとはしなかった。
誠意だとか、そういうものを言うよりも、其処には切羽詰った何かがあるような気がする。
なんとなくそれは今の自分と同じものなのではないかと、そんな気がする。
それは単なる勘であったが、人間の勘というものは一概に馬鹿に出来ないものだ。
どうしたものかと少し頭を掻いた後で、今度は相手にも聞こえるようにはっきりと溜息を吐いた。
「面を上げてくれ。生憎だが、私は貴殿にそうされる理由が見つからない」
「―――――いえ! もしも、もしも貴方がその御子と縁深い方であり、御子に何かあったと言うなら、それは…!」
「いや、頼む。人目がないとは言え…それでは話も出来ぬ」
あくまで口調は上の立場のものであったが、信幸の声音は穏やかだった。
ゆっくりと、若者が顔を上げる。
端整な顔立ちをしているだろうそれは、今は酷く苦いものを噛み潰したように歪められていた。
其処にある感情が決して悪い類のものでない事は、信幸にも判った。
立ち上がって軽く埃を払って、相手方は改めて信幸に目を向けた。
「私は真田源三郎信幸と申す」
「片倉小十郎景綱と申します。突然の非礼、お詫び申し上げます……あまりに、気が動転いたしまして……」
今になって先の自分の行動が、少し間違えていればとんだ早とちりになると思ったのだろう。
深々と頭を下げる傍ら、耳まで赤くなっているのが見えたが、信幸はそれについては黙した。
お陰で相手がどういう人物か、なんとなく感じられた。
「それで……話を戻そうか。其方は私の弟に面識があるようだが」
「いえ。面識と言うほどの事は…顔も知りませぬ。ただ主からの話を聞いていただけです」
「……では……―――――」
弟が此処しばらくの間、いつも一緒に川原で遊んでいた人物。
それは、この目の前の人物の主、という事になる。
信幸は名前すら、何をして遊んでいたかさえも教えて貰えていないけれど。
多めに作って渡した弁当の握り飯を空っぽにして、翌日にはまた喜んで受け取ってくれる。
ほんの少し前は一緒に作って、歪だけれど一所懸命に作る弟の姿に、顔も知らぬ子供へ羨ましささえ覚えたほど。
そしてきっと、昨日一体何があったのか。
それを知る唯一の繋がりなのだと、感じた。
「我が主は幼いなれど…自分の立場をよく弁えておいでです。その上で、主は主たろうとし、子供である事を見失った」
けれど、と小十郎は続ける。
「此処に来てから、変わりました。いえ、戻ったと言いましょうか。
主が主たろうとする事無く、ただ純粋に、ただ普通の幼子と変わりなく日々を過ごしておりました。
今日が終わる事を残念な表情で見送り、明日が来るのが待ち遠しいと……
私たち傍仕えの家臣でさえ半ば諦めていたその変化が、此処に来て見られるようになりました。
はっきりとした理由は私も存じておりませぬが、時折、主から聞かされるようになりました。
此処で一緒に遊ぶ、一人の子がいると」
他でもない、それは信幸の弟だ。
渡した多目の握り飯も、その子が弟と並んで座って食べていたのだろう。
弟が時折目立つ擦り傷や打ち身の痕を作っていたのも、その子と遊び回っていたから。
いつだったかの風の強い日、それを少しだけれど聞かせて貰った。
時折外に遊びに行けずに稽古をした時以前よりも弟の腕は上がっていて、それはきっとその子と交えているから。
信幸の見えない所で成長を見せる弟は、そうやって競争して、少しずつ背を伸ばしていたのだ。
同様のように語る小十郎の眼差しは酷く優しく、幼い雛を見守るようでもあった。
それが時分の弟を見る目と同じものだとは、すぐ判った。
「私は、出来る事なら……出来る事なら、このまま此の地にいたいと思うようになりました」
「………それは………」
「…判っています。けれど、望むほどに我が主は本当に、よく笑うようになった……」
小十郎が何処の者であるのか、信幸は聞くつもりはなかった。
ないけれど、その小十郎の言葉が遠い夢物語である事は判る。
“真田”も同じだ。
甲斐の武田家に仕えるようになって幾年月が流れたか、信幸には判らない。
信幸が生まれた時には既に“真田”は武田に仕える豪族の一つだった。
名を馳せた名家に生まれた者が辿る道筋など決して多くはない、幼い弟も何時かは父、兄と同じ道を辿るだろう。
それ以外の道を望んでも、容易くそれが願い通りになる訳がない。
幼いながらに小十郎のような傍仕えを置いているなら、尚更その地位は高いものだと言っているようなものだ。
それでありながら、己の血筋も何も除外して生きて行く事は容易ではない話だ。
片倉も、主も、それを重々承知している。
承知している上で、この甲斐で生きて行く事を一時でも願ったのだと言う。
「それは全て……全て、真田殿の弟君が、我が主の光になってくれたからだと私は思うのです」
言われて、思わず信幸は首から熱くなるような感覚を覚えた。
それは弟を其処まで言ってくれた事への嬉しさから来るものであっただろう。
いつも真っ直ぐで正直で、そんな弟を他者にそうまで言って貰えて。
同時に、この場に弟がいない事が酷く残念だった。
それを聞いたら、あの子はどんなに喜んだだろうか。
けれども反して小十郎の方は、苦しげに顔を顰めていた。
それを見つけて、信幸は首を捻る。
「ですから……ですから私は、本当は……」
「片倉殿、少し落ち着いた方が」
「……いえっ…!」
詰まる息を振り切るようにして、小十郎が顔を上げる。
「私が出張る程の事ではないと判っています、判ってはいるのです」
「ならば私も同じだ。弟の事でこうまで出張る必要は、本来ならないのかも知れぬ。しかし、黙ってはいられなかった」
「………そうです……! このままでは、主はまたあの頃に戻ってしまう……!」
「…幸も……弟も、このままでは笑う事さえ忘れてしまうかも知れない…」
それは互いに、幼い子供に対しての過剰な思いであったかも知れない。
冷静に、他者から見れば往々にしてそう見えただろう。
けれども、このままでは大切な何かが壊れてしまうような気がしてならなかった。
それは信幸や小十郎にとってのものでもあったし、子供たちの間にあるもののようにも思えた。
どちらもそれらは欠けてはならず、もしも失われてしまったら子供たちもそのまま消えてしまうような気がした。
ずっと、笑っていて欲しいのに。
「……しかし、私達に出来る事は……」
今度は、信幸の方が唇を噛んだ。
何かしたいのに、何かしなければならないのに、それが判らない。
昨日もただ蹲る弟の傍にいるしか出来なくて、無性に御付の忍の少年を求めたものだ。
弟は縋ってくるだけで何も語ろうとせず、その唇を割る事が出来ないのが悔しかった。
そして今も。
こんなにも心は子供たちの笑顔を求めているのに、その為に出来る事が判らない。
「――――――真田殿!!」
それをまたしても突然に名を呼ばれ、はっと信幸は顔を上げる。
小十郎の瞳はやはり切羽詰っていて、けれど確かに真髄だった。
それを真っ直ぐに受け止めて入れば、小十郎はもう一度口を開く。
「どうか、ご助力賜りとう存じます! このままでは、主も、貴殿の弟君も、後悔しか残らない……!」
「しかし」
「我らは今日の子正刻に宿を立ち、祖国へ戻ります。そうなると、もう二度と主と弟君は逢う事はないでしょう」
何事か言おうとした信幸を遮り、続けられた言葉はあまりと言えばあまりのもの。
この日の本の国が広いか狭いか、それでも国と国を隔てて幼子達が逢える機会などないに等しい。
彼らが遠くに行くならば、その遠いだけ、弟は二度と友と逢う事はなくなるだろう。
互いに取って駆け出していた子供たちの手は、きっと彼らの望む外側で無理矢理解かれたのだ。
出来る事ならずっと繋がっていたいと願ったその糸に、他の誰かが糸を絡めて絡ませてしまった。
最終的に糸は断ち切られ、結ばれた端と端は二度と互いの片割れを見つける事は出来ないだろう。
どんなに子供たちが、その糸の片割れを捜しても。
それは信幸も、小十郎も望む事ではないのだ。
望んでいるのはただ一つ、愛する子供たちが笑ってくれる事だけ。
「真田殿………!!」
同じ事を願う言葉に、どうして厭が言えようか。
愛した子供たちが、どうか光を手放してしまわないように
← ■ →
大人たちが出張る出張る(笑)
子供たちはベコベコに凹んでおります(ごめんよぉぉぉ!!!)