拾鉢















ただ、笑っていて欲しいと



その笑顔を見続けていたいと













……出来ることは





………本当に、何もないのだろうか




































珍しく弟が随分早くに帰って来たと思ったら、頭の天辺から足の先までずぶ濡れになっていて驚いた。
俯いた弟の表情は見る事が出来なかったけれど、ただ、“何か”があった事だけが判った。

「何があった」と聞きたかったけれど、いつも真っ直ぐ前を見ている弟が俯いていた時点で、それは赦されなかった。
後ろめたい事だとか、そういう疚しい事はないと思う、この子は心根も真っ直ぐで曲がった事が嫌いだから。
幼すぎる故にその判断基準もまた幼く単純だが、それらは全て弟の信念に基いている。
弟をよく知る兄に、それを否定する要因は何一つなかった。


だから何も聞かずに、風邪を引くからとそれだけ言って風呂に入らせた。
着替えを用意して、風呂から上がってくるといつも通り着付けを手伝ってやって、部屋に通してやった。


そして今、弟――――幸村は、兄の腕の中で小さく蹲っていた。






(………どうした?)






聞きたいけれど聞けない言葉が、何度となく信幸の中で反芻される。

腕の中で蹲る幸村は、帰ってから何一つ言葉を発せず、まるで声を出すという行為を忘れてしまったようにも見えた。
顔もまた俯いたままになっていて、信幸からは幸村の旋毛しか見えない。



せめて顔を見せてくれたら、少しでも何かが判るかも知れないのに。
でも、だからこそ幸村はずっと下を向いたままでいるのではないかとも思う。






(……佐助、今だけお前が恨めしいほど羨ましいよ)







長く顔を見ていない、弟の傍仕えの少年を思い出し、信幸は自嘲気味に笑みを浮かべた。
元々自分よりも長く一緒にいる彼を羨ましく思った事は何度となかった。
けれど、恨めしいほどにそう強く思ったのは、きっとこれが初めてだと思う。

だって、あの子の方が、自分よりもこの可愛い弟の事を理解しているような気がしてならないのだ。
一緒にいる時間も、幸村の些細な我がままも、何もかも彼には敵わない。
そう言ったらあの聡い少年は「そんな事ないでしょ」と道化た振りをしながら言うのだろう。
知らぬは、この小さな弟ばかりだ。


そして、今此処で、彼の姿を求めている自分がいるのが、何よりの理由であり、敗因。


弟に手を差し伸べてやる事もできず、また弟も、きっと信幸が手を伸ばしてもそれを掴む事はしないだろう。
いつの間にか我慢や遠慮と言う言葉を兄にまで使うようになってしまった弟。

あの少年なら、弱い力で弟の背中を抱きながら、「らしくないね、どうかした?」と聞くのだろう。
幸村にしか見せない優しい目をして、それが幸村の心の戸をほんの少し開かせる。
僅かでも隙間が出来れば、後は少しずつ吐き出していくだろう。

……自分は、それさえ踏み出す勇気がない。
兄、なのに。







外はいつの間にか夕闇さえ終え、今は夜の帳が落ちてきていた。
秋と違ってろくに虫の声も聞こえない。
真田屋敷の中は広く静かで、時折姿勢を直す信幸の衣擦れの音が響くだけだった。








(……幸)








名を呼んでも、今はきっと答えてはくれないだろう。
それでも顔を上げてこっちを見て欲しかったから、音にしないで何度も弟の名を呼んだ。
理屈でなくて聡い弟が気づいてくれる事を祈って、それが己の傲慢であると判っていても。






(幸、誰がお前をそんなにした?)






いつもなら幸村を泣かせたり傷付けたりした者には、それが何であっても物騒にも殺意に似た感情を覚えるけれど、
不思議と今の信幸の心は静かで波紋すらなく、ただ侘しさだけが募る。


こんな顔さえ、幸村は自分にしてくれるだろうか。
置いていくことが日常になってしまってから、この子は自分も連れて行って欲しいなんて言った事はなかった。
佐助がいなくなる時は駄々を捏ねるのに、いつだって兄や父の前では聞き分けの良い子になる。
本人が意識してそうしている訳ではにだろうけれど、だから余計に、信幸は寂しかった。

兄弟であるのに、この溝はなんだろう。
この、言いようのない虚無感と寂しさは、なんだろう。






(誰がお前に…そんな顔をさせた……?)







弟がいつも天真爛漫で、向日葵のような笑顔を見せてくれるのが好きだった。
側役の少年に些細な我侭を言って困らせて、言う事を聞いてくれた時跳ね上がって喜ぶのを見るのが好きだった。

此処暫く、毎日のように笑って駆けて行く背中を見送るのが嬉しかった。
帰って来た時あちこち痣だらけになりながら、楽しそうに笑っているのが嬉しかった。




けれど元来、幸村はよく泣く子供であった。

感受性が豊かで理屈で理解するよりも前に本能的に物事を感じ取り、子供特有の聡さが抜きん出て優れていた。
そして感情の起伏が激しく、嬉しければ笑い、嫌なら怒り、寂しくなったら泣く子供だった。




そう。

ただの、子供だった。










(……幸)









―――――不意に重みが増したような気がして見下ろせば、幸村は信幸に抱かれたままで目を閉じていた。
多分、色々あったのと、泣き疲れたのとで心身ともに酷く疲弊していたのだろう。
体が休息を欲したのも無理はない。


目の辺りが腫れていて、余程に泣き腫らしたのだと信幸にも判る。
家に帰ってからは泣いていなかったから、道中できっと、ずっと涙を流していたのだ。

武家の男が容易く泣くな。
父が感情が豊か過ぎるゆえによく泣く幸村に何度となく言い聞かせていた。
相変わらず幸村はよく泣くけれど、それでも幾分かは落ち着いていたのではないだろうか。
……それを、こんなにも泣かせるとは。









「……これは、妬いていると言うのかな」









顔も知らない、川原で幸村の隣にいた人物を思って、信幸は呟いた。






























































帰って来るなり、幼い主は綱元が使用していた布団を分捕り、丸くなって動かなくなってしまった。


綱元は、昨日この甲斐へやってきたばかりである。
奥州からの旅路は世辞にも楽であったとは言い難いだろうに、その昨日は夜半まで起きて酒を呑んでいた。
ようようと眠ったのは殆ど朝で、空は白くなっていて、人々が活動を始める時間になっていた。
疲労もあるだろう潰れた綱元を小十郎は起こそうとはせず、主が帰ってくるまでそのままにしていた。

しかし、そんな綱元の惰眠を、幼い主は躊躇いもなく破ってくれたのである。
元来この幼い主はそんな幼稚な所があったが、今日はいつにも増してそれが激しかった。




寝床を分捕った幼い主は、小十郎と綱元の顔を見ようともせず、じっと丸くなったまま。
触れようとすれば毛を逆立てた猫のような威嚇の声を出すものだから、全く手に負えない。


小さな子供が癇癪を起こしているようなものだ。
だからこういう時は、本人の気分が落ち着くまでそっとしておくのがいい。
小十郎も綱元もそれは弁えているつもりなので、今は主一人を部屋に残して、今は宿の廊下に立っていた。

幼いとは言え主を一人にする事に聊かの不安はあったが、それよりも彼の心の方が大事だ。
誰かが傍にいると何処かで突っ張ってしまう子だから、今子供の傍にいてはいけない。







貪っていた惰眠を中断させられた綱元は、先刻から何度も欠伸を繰り返している。
聊かだらしなくも見える仕草であるが、落ち着いているので大きく構えているのが見て取れる。

対して小十郎の方はと言えば、部屋を出て数十分した所で、そわそわと忙しくなくなっていた。





「……ちったぁ落ち着いたらどうだぃ、片倉殿」
「しかし!」
「あんまり声出すと政宗に聞こえちまうぞ」





人差し指を立てて静かに、と促す綱元に、小十郎も口を噤む。





「全く、少し見ない間に随分変わったんだなぁ」
「…そのように見受けられますか?」
「ああ。片倉殿は心配性が増してるし、政宗は――――……」





頭の後ろで手を組みながら、綱元は閉じられた戸の向こうに目をやった。
その向こう側にいるのは勿論幼い主で、今もまだ彼は布団に包まったままなのだろう。






…あんな、今にも崩折れそうな主の姿を見たのは、何年ぶりだっただろうか。




周りの一切の手出しを拒みながら、自分ひとりで立ち続けながら、その場所の基盤は酷く脆いものだった。
きっと子供の心に深い翳を落としたあの出来事は、きっと一生かかっても消えはしないのだろう。
それほどまでにあの出来事は小十郎たちにとっても大きな事件で、当事者の子供からすれば耐え切れないものだった。
それなのに幼い主は主たろうと一人で立ち続け、誰にも弱みを見せまいとしていた。
時折それは綻びもしたけれど、最後には子供は一人で立ち上がり、確かにそれは主が主である姿だった。

反面、それならば置き去りにされた“子供”の部分は何処へ行くのだろうか。
主が“主”であろうとすればするだけ、“子供”は形を潜めてしまう。
“主”である為には、幼い“子供”の部分はいずれ不要になるもので、主はそれをいつの間にか知っていた。
それは向けられる同情の目を嫌っての事であったかも知れない。

けれど、主がどんなに“主”であろうとしても、幼い“子供”であることには結局変わりはないのだ。




甲斐に来てから、主が普通の子供であったことを小十郎は知った。
否、知ってはいたし、判ってはいたけれど、思っていた以上に幼かった事を改めて認識した。



故郷にいた頃からあった幼い我侭が増えた。
小十郎がそれは危ないから駄目だと言えば、膨れ面をして知った事かと反発した。
そして心底楽しそうな顔をして宿を飛び出し、帰って来た時には擦り傷だらけになってそれでも笑って。

どうしようもなく、それに何度泣きたくなった事だろうか。
ただ普通の子供のように過ごす、主のその姿に。





不意に小十郎の脳裏に過ぎったのは、ついこの間まで楽しそうに宿を飛び出していった後姿。
そして、つい数刻前に何も言わずに宿を出て行った、消えそうな程小さな背中。






「……どーぞ」






言って綱元が差し出したのは、手拭だった。
それを引っ手繰るようにな勢いで受け取ると、小十郎は熱くなった目頭に当てた。






「全く…何があいつをあんなにさせてるんだろうかね。なんか聞いてないのか?」





天井を仰ぎながら呟く綱元に、小十郎は口を閉じた。


甲斐に来てからの日々が政宗に変化をもたらした事は確かで、その日々を知るのは小十郎以外にない。
此処に来て何が政宗の琴線に触れたのか、何によって政宗が幼い表情をするようになったのか。

黙した小十郎を急かすでもなく、綱元はただ頭上の板に目を向けているだけだ。
それに少しだけ感謝しながら、小十郎は此処に来てからの日々を思い出していた。














療養と称してこの甲斐に来て、最初の頃は政宗も何も変わったところは見られなかったと思う。
道中に見たものを思い出して話はするけれど、それが何の実を結ぶ事もなく、小十郎もそれを期待する事はなかった。
ただ少しでも、この張り詰めてばかりの幼い心が休める事が出来たなら、と。







景色の良い場所を点々として、時折仕掛けられる悪戯に怒ったりもして。
それでも奥州で繰り返してきた日々と遠からない時間を過ごして、幾日が経った頃だろうか。

政宗は、ついと小十郎の前から姿を消した。

その時の自分の慌てぶりは、自分でも実に情けないものだったと思う。
宿の主人にまで少し落ち着いて捜せと言われた程だったのだ。
けれども事情を知る人物にしてみれば無理はない、幼いとは言え政宗は奥州になくてはならない存在なのだ。
素性は隠してお忍びであるとは言え、何処で誰に知られるか判ったものではないのだ。
万が一、最悪の事態と言うのも考えられないものではなかった。




とにかく前日まで政宗と一緒に回った場所を駆けずり回った。
けれど、結局その姿を確認する事は出来なかった。




帰ってきたのは烏が最初の声を上げて四半刻も経ってからで、しかも擦り傷だらけだったものだから小十郎は卒倒した。
一体何処で何をやってきたのかと問い詰めたのは言うまでもない。
此処にいたのが小十郎でなかったとしても、それは当然聞いてきただろう。


―――――――政宗は、その質問に答えなかった。

ただ楽しそうに、面白そうに笑っただけで。
擦り傷だらけの身体を気にかけもせずに、政宗は着物に滲んだ泥の汚れさえ誇らしげにして見せた。
理由を幾ら聞いても教えてくれない、それでも何かあった事だけは小十郎にも判った。
繰り返し問う小十郎には何もねぇよ、と良いながら、心底楽しそうな顔で笑うのだ。
明日が楽しみだ、と言って。






それから毎日、政宗は小十郎が止めるのも聞かずに宿を飛び出して、
せめて何処にいるのかぐらい知らなければと追い駆ける小十郎をあっという間に撒いてしまった。


あの大雨の日も危ないから本当は行かせないつもりだったし、もしどうしても行くと言うならついていくつもりだった。
なのに見事に傘を奪われて、大雨の中、政宗は一人で駆けて行ってしまった。
中々帰って来ない政宗に、もう神経も何もかもが摺り切られそうだと思ったのは決して大袈裟な話ではない。
帰って来たのは夜の帳が下りて随分遅く、傘も何処かに忘れて全身びしょ濡れだった。

それから、あの日からまた、政宗の中で何かが変化を始めていた。
失われた日から一度も真っ直ぐに見ることのなかったものと向き合って。
悪くねぇな、と。



誰にも踏み入れることが出来ない領域だと思っていたのに。
此処に来てからの何かが政宗を変えた。













それらは、風の強い日に聞いたこと。




































全ては、川原の幻が見せてくれた奇跡。





































  


鬼庭が意外と出張る…おや??