拾参













「あ」











…………そう思った時には、もう遅い。




掴もうとした手はするりと空を切って、居所無く彷徨ってしまう。































言わないままが良いのだろう。
言わないままで此処で毎日を過ごした方が、きっとあの子供の為になるのだ。
それは背負った現実から逃げるだけだと判っているけれど、それでも毎日外に駆けて行く彼をずっと見てきた。
だからこそ小十郎は、今自分が持っている紙切れに書かれた文字の羅列を、破り捨てたくて溜まらない。

彼が此処でどんな風に笑っているか、どんな風に日々を過ごしているか、知っているのは自分だけだ。
何も知らない者にこの日々を壊されるのかと思うと、小十郎は胸の奥で何かが軋んで音を上げるのを感じた。



出来ない。
自分には、出来ない。



あるべき場所に戻るのだと言われれば、それだけなのかも知れない。
けれども小十郎は知っているから、この日々を壊すなんて出来なかった。

故郷で見ることのなかった子供の笑い顔を見たのは、本当に随分と久しぶりだった。
きっとまだ小十郎の知らぬ友達のお陰なのだと判る。
顔も知らないその子供が、あの幼い子にあるべき感情を再び与えてくれたのだと。
照れたように友達のことを語る子供の顔を、小十郎は幾らだって鮮明に思い浮かべることが出来る。




ぐしゃ、と手の中の文を握る。
歯を食いしばって脳裏を過ぎる人々に、今だけは激しい憎悪にも似た感情を覚えていた。






だから、気付かなかった。














「………………………小十郎」
















呼ばれて、振り向けば。
背中に立って小十郎の顔を――――――否、その手の中で広げられた文を見下ろす、一人の子供。
片目を包帯に覆われているとはいえ、この子供の視界にそれ程の問題はない、慣れてしまったのかも知れない。
本来ならば視界は狭まり、両目で見るより視力も衰えるのに、この子供はそんな欠片を見せた事もない。



見下ろす子供の瞳は、何も語っては来なかった。







あれほどに、笑っていたのに。
















































川原を走る幸村の手の中には、きちんと綺麗に包まれた弁当。
中身はいつものように兄が作ってくれた握り飯が二つと、幸村が早起きして作った握り飯が四つ。

握り飯を握ったのは、多分初めてだった。
やはり形は綺麗とは行かなかったけれど、三角型と俵型が二つずつ出来上がった。
兄に作ってもらったものも合わせて一つずつ、川原で政宗と一緒に食べるのだ。

その政宗も、きっと約束した通り、握り飯を作ってきてくれるに違いない。
根拠がある訳ではなかったけれど、幸村は何処かでそんな確信を抱いていた。
政宗はいつも金平糖のようなお菓子を持って来てくれたけれど、政宗が自分の手で作ったものを持ってきた事はなかった。
だからそれも相俟って、川原を駆け抜けていく足取りは軽い。



幸村は昨日、家に帰ってからずっとこんな調子だった。
政宗が言ってくれた言葉と約束と、思い出すだけで頭の中は幸せで一杯になってしまうのだ。



佐助は相変わらず帰って来ない。
今が一番大事な時期だから邪魔しちゃいけない。
淋しくない訳ではないけれど、今の幸村には、それに有り余るほど楽しい時間がある。
決して彼の事を忘れている訳ではないのだが、やはりどうしても楽しい時間の方を優先してしまうのだ。

佐助が帰って来たら、政宗の事を自慢してやろう。
その時、今まで遊び相手が自分しかなかった彼はどんな顔をするのだろう。
また政宗にも佐助を自慢してやって、三人仲良く遊べたら良い。








「まさむねー!!」








川辺に立ち尽くしている同じ年頃の子供。
下ろすと肩ほどまでの髪を項の少し上で括って、後れ毛がぴんぴんと跳ねていた。

お決まりになった幸村の呼び声に、政宗が振り向く。


政宗の立ち姿は、幼いながらに凛としていた。





「まさむね、おはよう!」
「おう」





幸村の挨拶に、政宗はいつも照れくさそうに笑って返事をする。
ほんのりと染まった頬に、幸村も嬉しくなって微笑んだ。



今日の遊ぶ場所を決める為に、川原をふらふらと二人で歩く。
どちらともなく話すのは、幸村は兄の事であったり、この甲斐にある美味い甘味屋の事であったりして、
政宗は大抵聞いている方なのだが、時折傍仕えの人物の事や、故郷の奥州の名物の話を聞かせてくれる。
話に夢中になって足元が疎かになり、川原の石積みの上に転んでしまう事は珍しくない。
けれども最近は二人ともそれに慣れて、どちらかが転びかけると支えるようにもなった。


時折幸村の腕の中にあるものに政宗の目が行った。
けれど政宗は何を言う事もなく、再び前を向いて歩き出す。

政宗は幸村と違って手に持っている物はなかったが、腰の巾着がいつもより大きかった。





「きのうね…かえって、ひさしぶりに兄上とけいこしたの」
「へー。で、どうだったんだ?」
「うー………」





政宗の質問に幸村は唇を尖らした。
それだけで、結果がどういうものであったのか、政宗にはよく判る。

前よりも強くなったとは言われた幸村だったが、やはりまだまだ兄には敵わないのだ。
歳が離れているから、というだけではないと幸村は思っている。
毎日のように政宗とちゃんばらごっこもしているのに、やはり経験の差というものか。

拗ねた顔をした幸村を見て、政宗は面白そうに笑っている。





「まさむね!」
「だって……はは、ゆきむら、へんなかお!」
「してない!」
「してる、ぜったいしてる」





撤回を要求するも、政宗は腹を抑えて笑い出した。
そして益々、幸村は拗ねた顔―――変な顔になってしまうのである。

笑うのを止めない政宗を睨んでみるけれど、全く効果がない。
終いにはその場にしゃがみこんでまで笑う政宗に、幸村はもう! と憤慨して見せる。
小さな仔犬が吼えているようなその仕草を見て、政宗は余計に笑いが止まらない。






「むー……まさむね、そんなにわらうんだったら、ごはんあげない!」
「えー!? そりゃねぇよ、ゆきむら」
「だってわらうんだもん」
「ごめん、わるかったって。だからちょーだい」





幸村がずっと腕に抱えている弁当を見た後、政宗は笑って詫びる。
それはさっきまでの笑顔とは少し違っていて、確かに悪かったと思っているものだった。
それでもしばらく拗ねた顔をしていた幸村だったが、両手を合わせてまで行って来る政宗に、もう良いか、と思う。

其処まで言うなら、と敢えて仕方がない風を装うと、それが冗談であると政宗にはばれているのだろう。
向かい合って笑い合うと、二人はその場にすとんと腰を下ろした。



この川原にはいつも人気がない。
淋しい風景と言われればそうだろうが、二人は自分たちだけの遊び場のようで好きだった。
無論この場所の事は幸村の兄も知っていて、佐助だっていつも此処で一緒に遊んでいるのだ。
けれども兄は此処まで来る事は滅多にないし、佐助は今修行中だから。

此処で出逢って、此処で遊んで、別れて、また逢って。
繰り返されるその日々が、幸村は嬉しかった。


隣に座っている政宗もきっとそうだ―――――そう思って、幸村は隣にある横顔を見た。



すると、其処にあったのは。







「………まさむね?」

「ん?」







何が、何処が、と言われると、幸村にもよく判らなかった。
だけれど違和感を感じて名前を呼ぶと、政宗はいつものように振り返って返事をする。
右目を包帯で覆った横顔は、幸村も随分見慣れたものになっていた。

幸村は感受性が豊かだ。
理屈よりも本能でものを感じる事があり、自分でも理解できない内に何かを感じ取る事がある。
大抵は他愛もない事だったのだけれど、今は不思議と胸の奥がざわめいていた。


……けれども、目の前の大好きな友達はいつも通りの姿。



名を呼んだまま黙った幸村の顔を、政宗が不思議そうな表情をして覗き込んだ。
どうかしたか、と問うて来る政宗に、幸村は少し戸惑ったものの首を横に振った。





「ほら、めしくおう」
「もう?」
「だってはらへったし」





今日は早起きしたから、と続ける政宗の台詞の直後、二人の腹が盛大な音を立てた。





「ほらな」
「………うん」





結構な音であった事に恥ずかしさを覚えつつ、幸村は抱いていた包みの紐を解く。
姿を見せたのは綺麗な形の握り飯が二つと、少し歪な三角型と俵型が二つずつ。

それを見てぱっと明るい表情になった政宗も、腰巾着から弁当を取り出す。
少し形崩れてるかも、と言いながら紐を解けば、三角型と俵型が二つずつ入っていた。
決して大きな握り飯であるとは言い難かったが、これだけ数があれば食べ盛りの二人でも満足だろう。



お互いに、先ずは自分で作った俵型を食べる。
初めて自分で作った握り飯の出来に、自然と二人の口元が綻んだ。
続いて自分の三角型を食べて、信幸が作ってくれた綺麗な握り飯を食べる。

初めて作った握り飯。
信幸が作ったものと比べると形は歪だけれど、それでも早起きして頑張って作ったものだ。
なんだかくすぐったくなって、これを政宗が、幸村が食べるのか、と思うと、益々くすぐったい気分になった。


ちらりと隣を見れば目が合って、考えている事は一緒なのだと判った。

政宗が俵型の握り飯を突き出すと、幸村も同じように差し出す。
一緒になって相手のそれを手に取って、せーの、と息合わせ。










どんな味だったかは、子供達だけの秘密。














































あれだけ食べても、夕刻まで遊びまわればやはり再び腹が減る。
申の刻を迎えつつある頃になって、二人は駆け回って息を切らす肩を落ち着かせながら立ち止まる。

今日の遊びは鬼ごっこで、広い川原を右へ左へ駆け回っていた。
最初は政宗が鬼で、素早い幸村を捕まえるのに随分と時間がかかった。
幸村が鬼になってからは真っ直ぐ向かってくる幸村の突進を、政宗はぎりぎりのところで避けた。
時折通りがかりの旅人が、無邪気に駆け回る子供達の姿を微笑ましそうに見つめていた。


でも、この時間になったらもう終わり。
夕餉の支度も整うだろう時間になって、二人はようやく足を止めるのだ。



止まる事など知らないように駆け回っていた二人は、汗だくになっていた。
額から落ちてくる汗を拭って、興奮した心臓を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。






「えへへ、まさむねのまけー」
「ちぇー」






政宗が鬼のままで終わってしまったからだ。
ちゃんばらごっこでは中々勝てない幸村だったが、鬼ごっこなら負けない。
白星を挙げて嬉しそうな幸村とは対照的に、政宗は悔しそうに唇を尖らせている。





「あしたもやろうね、おにごっこ」




足元に落ちていた枝を拾って、幸村は言った。
政宗がその言葉に返事らしい返事をする事は滅多にない。
ただ微笑んで応えてくれるだけだ。

今日は政宗が夕陽を背にしているから、翳って彼の表情を見ることは出来なかった。
けれど、返事をしないのはいつもと同じだから、幸村は笑って帰路へ向かう。









「――――――――あ」









聞こえた声に足を止めて振り返ると、中途半端に手を上げている政宗がいた。
表情は、やっぱり見えない。


不思議に思って首を傾げていると、政宗は居所なさそうに手を彷徨わせている。
その手はしばらく彷徨った後、政宗の後頭部をがしがしと掻いた。
それは政宗が何か言いよどんでいる時、無意識の内に取っている癖の行動。

何か言い忘れた事があったのだろうか、と思いながら、幸村は土手に向かおうとしていた身体を向き直す。
じっと喋るのを待っている幸村の視線を受けて、政宗は益々言いよどんでいた。





「あ…あーっと…………」
「なに?」





今更言い難いことでもあるのだろうか、と幸村はきょとんとした表情で政宗を見つめる。





「ん…いや…えっと……」
「あした、おにごっこするの、いや?」
「……それ、じゃ…ないけど……えーっと…」





彼が此処まで言葉を考えている事は珍しい。
政宗は幸村よりも色々言葉を知っているようだったから。










「……うん」
「ん?」
「いや、やっぱなんでもなかった」
「ない?」
「うん」
「ほんと?」
「うん、ない」
「でも」
「きのせいだった」
「…そうなの?」
「うん」
「…うん」
「うん」










川のせせらぎしか聞こえない場所で、二人にだけに聞こえる声。



なんでもない事を、政宗がこんなに悩んだだろうか。
幸村だって彼の全てが判る訳ではないけれど、彼らしくない気がして戸惑った。

綺麗な眉を八の字にして見つめる幸村に、政宗が歩み寄る。
ぽん、の頭を撫でる小さな手と、近くなった政宗の表情を見る。
それまで夕陽の翳りになっていた彼の表情がようやく見えるようになった。


政宗の表情は、いつも通り。







「またな」
「…あしたね」
「うん」







政宗の手が離れて、幸村は数歩後ろに下がる。
小さく手を振ると、政宗もそれに応えた。

背中を向けて駆け出しても、政宗はずっと手を振っている。
土手を登って振り返れば、見つめる政宗と目が合った。
最後にもう一回、今度は大きく手を振って、今度こそ帰路に向かって走り出す。

























その後姿が、見えなくなった頃、


川原に残った子供は、声を上げないまま泣き出した。