拾四












もうすこし

あとすこし


あそこまでいったら、あったかい手にあえるのに








にげてもにげても

おいかけてくる、つめたい手がきらいだ








































いつも帰るはずの夕刻になっても戻ってこない幼い主が心配にならなかった訳ではない。
けれども、きっと今自分が行ってはいけないのだと、小十郎は判っていた。
せめて梟が鳴く頃には戻ってきてくれる事を祈って、小十郎は宿の部屋の真ん中でじっと姿勢を正して待っていた。





もういっその事、戻って来なくても良いのかもしれない。
そんな事まで思ってしまうのは、胸の袂に入れたままの手紙の所為だ。
このまま、この宿に戻って来なければ、良かれ悪しかれ、あの子はこの甲斐に留まる事を選んだ事になる。
氏を捨ててでも此処にいたいと願っているのならば、小十郎はそれを無理に連れ帰る事は出来なかった。
あの子が、あんなにも必死になって求めたのは、嘗て右目を失った時以来であったから。

あれ以来何に対しても何処か諦めたように笑う子供になっていた。
それがこの地に来てから歳相応に無邪気に笑い、小十郎の言い付けを破ってまで遊びに出掛けていく。
子供として当たり前の日常を、何年かぶりに取り戻した主に、何度感極まってしまった事か。
いつかの風の強い日に見た顔を、本当に、鮮やかに覚えていた。


飛脚の事故として、この手紙は受け取らなかったことにしてしまおうか。
そんな考えさえ過ぎってしまって、小十郎は唇を噛んだ。




逃げだと言われても、卑怯だと言われても構わない。
意気地なしだって良い。

ようやく見つけた光を追い駆ける子供を守りたいと願って、何が悪い。













逃げられない現実が、すぐ背中に佇んでいるような気がした。












































ようやく、引っ込んでくれた。



引っ切り無しに溢れては零れていた、目から浮かんで流れていった水。
止めようと思っても中々止まってくれなかったそれは、日が沈む頃になってようやく収まってくれた。
空は夕闇どころではなく、太陽は赤く、半分以上を山向こうに隠し、東空から暗い色が滲んできていた。

これ以上遅くなったら、小十郎が煩い。
既にいつも帰る時間を遠く過ぎているだろうから、一発食らうぐらいは覚悟しておいた方が良い。





川の水面を覗き込むと、自分の顔が映し出される。
映りこんだ自分の顔は赤くなり、きっとそれは日に焼けたからだけではないのだろう。
影になってよくよくは見えなかったが、きっと左目も赤くなっているに違いない。
何度も何度も目元を擦ったから、顔の半分を覆う包帯も解れかかっていた。

構わず、政宗は水面に頭を突っ込んだ。
誰かが見ていたら何をするのかと止めに来るだろうが、生憎今は誰もいない。
だから政宗の突然の奇行に気付く者はいなかった。



水を流し過ぎたら、頭が痛くなって、顔が熱い。
とにかくそれらを全部冷やしたくて、政宗は川に頭を入れたのだ。



……こうしていると、いつかの大雨の日を思い出す。
川が氾濫していると聞き、今日は宿の中にいろと言う小十郎の言い付けを破って此処に来た。
来てみればやはり幸村も来ていて、兄に無理を行って外に出して貰ったのだと言っていた。

その時初めて、政宗は自分から右目の話を切り出した。
今までは旅先で茶店の老婆に心配されても、小十郎が誤魔化す程度で、政宗は喋らなかった。
言えば気持ち悪いと言われるような気がして、政宗もこんな自分の右目が嫌いだったのだ。
喋りたくて喋るような内容でもないし――――――……けれどそれを、政宗は自分から幸村に語った。

直後に、二人で川の流れに攫われた。
突然の事に頭が真っ白になっていたけど、繋がれた手が誰のものかだけ、やけにはっきり感じる事が出来た。
冷たくて寒くて痛い荒々しい濁流に揉まれる中で、唯一掴んでいた、暖かい小さな手。
何があってもこれだけは離したくなくて、離れたくなくて、無我夢中で水を掻き分けた。
酸素のない世界から飛び出した時、見つめる瞳の光に、思わず泣きそうになったのを覚えている。


あの時、水が怖くて仕方がなかった。
あんなにも水が怖いと思ったのは、初めてではないだろうか。

…その川に、今自分で頭を突っ込んでいる。






(………ゆきむら)






眼を閉じたら、いつだって思い出す事が出来る。
まるで瞼の裏に焼き付いたみたいだった。

名前を呼んだら嬉しそうに振り返って、どんな遠くからでも彼の声は透き通って政宗に届く。
初めて見た時は本当に女の子に見えて、枝を振り回してるなんてお転婆だと思った。
声をかけたのはなんとなくだったのだけど、まさかいきなり泣かれるなんて思ってもいなかった政宗だ。
けれど、持っていた金平糖をあげたら、ころりと笑って。








全部覚えてる。
幸村と一緒に見たもの、聞いたもの、全部。

幸村がどんな風に喋ってどんな風に怒って泣いて、笑って、全部全部覚えている。







大雨の日の言葉も覚えてる。
浮島に取り残されて、まるで世界に自分たちしかいないみたいだった。
あの時政宗は、ずっと此処にいれば、幸村とずっと一緒にいられるような気がした。
それは色んなものを捨てる事になるけれど、目の前の存在さえいれば生きていけるような気がしたからだ。

今だって同じだ。
幸村と一緒にいたら、きっとどんな事だって平気だ。
……一緒にいれたら。




潜ったままで、政宗はぎゅ、と固く眼を閉じた。
どれほど息をしていないのか判らない、まだ数秒のような気もするし、随分長いような気もする。
どちらだって構わない、今顔を上げられない事実だけは変わりそうにないから。











(いやだ)









母と離された時、痛かった。
母に嫌われたと知った時、もう駄目だと思った。

幸村と逢って、あの雨の日、包帯を取った右目を見られた時、嫌われたと思った。
右目をなくしてから鏡の前に立つことさえ嫌だった、其処にあるのは忌むべきものであったから。
あれを見て母は壊れてしまったから、誰にも見られちゃいけないと思った。
それなら何故、あの時幸村にあの話をしたのか、矛盾はあったけれど。

……それでも幸村は、真っ直ぐ見て受け止めてくれた。
自身でさえ耐えられなかった程のものを、あの子は真っ直ぐ見つめてくれた。



言ってくれた。




『好きだよ』と。





なのに。












(いやだ……!)











受け入れてくれたのに。
壊れないでいてくれたのに。
拒まないでいてくれたのに。

どうしていつも、伸ばした手は届かない場所で彷徨うのだろう。


自分の立場がどういうものか、幼くても判らないほどではない。
だけれど、政宗だってまだ十にもならぬ幼子だ。
何かが欲しいと思うのは当たり前で、それを手放したくないと駄々を捏ねる事だって当たり前なのだ。









「―――――――…………っは……!」









水の中から上げた顔は、当たり前だがびしょびしょに濡れていた。
政宗は目にかかる前髪を掻き揚げると、拭こうともせずに立ち上がる。


空が闇色に染まろうとしている。
もう直に帰らなければならない。

水の中に頭を突っ込んでから、どれほどそうしていたのだろうか。
思ったよりも長かったのかも知れない。





幸村と一緒に遊んでいる時も、時間は直ぐに流れて行く。












だったら、何も思わない間に過ぎ去ってしまえばいいのに。

























































いつものように家の門戸を開けると、夕餉の香りがした。
草履を綺麗にそろえて家へ上がると、やはり調理場から兄が顔を出した。





「兄上、ただいまもどりました」
「おかえり、幸」





迎えてくれた兄は弟に歩み寄ると、ひょいっと幸村の小さな体を抱き上げる。
突然高くなった視点が楽しくて、幸村は信幸に抱きついてくすくす笑う。
信幸は甘えてくる幸村の頭を撫でて、優しげな笑みを浮かべた。
その撫でる手が幸村はまた心地よくて好きだった。

兄が弟に見せる笑顔はいつでも優しくて温かなもので、自愛に満ちている。
けれど何処か寂しげにも見えるのは、いつまでも傍にいられないという現実を知っているからだろうか。
兄弟である筈なのに全く違う笑みを浮かべるのは、二人の気質の違いがあるからだろう。




「握り飯はどうだった? 美味かったか?」
「はい!」




幸村は空になった包みを手渡しながら、嬉しそうに返す。
あんなに沢山作ったのに見事に平らげられているとは、兄としても嬉しい限りだ。

どうにも不器用な幸村は、お世辞にも綺麗な形に作れる事は終ぞなかった。
けれど何より気持ちの篭った握り飯は、どんなに鮮やかに飾られた馳走よりも美味かっただろう。
幸村も兄の思いは知らずとも、嬉しそうに頬張っていた政宗の顔を思い出し嬉しくなる。
そして政宗の作ってきた握り飯も、美味かったことを。








(――――――…………あ……)








ふと、幸村は去り際の政宗を思い出す。


なんだか呼び止められたような気がして振り向いたら、政宗は変な顔で立ち尽くしていた。
中途半端に伸ばされた手が何を意味していたのか、幸村にはまだ判らない。
らしくもなく口元をもごもごさせていた政宗は、きっと何かを言おうとしていた。

だけど結局、政宗は何も言わなかった。
なんでもなかった、気の所為だった……彼はそう言っていたけれど。
そうしていた時の政宗の顔は、夕陽の翳りになって幸村からは見えなかった。
距離が近くなってようやく顔が見えたと思ったら、其処にあったのはいつもと変わらない顔だった。
だから本当に何もないと言うのなら、きっと本当に何もないのだろう。





けど。





幸村は多感だ。
細々した理屈で尤もらしい理由を見つける前に、在るものを在るがままに感じ取る。
こと他人の感情の機微には鋭く、些細な事もまるで自分のことのように感じる事がままあった。



二人並んで座っている時、一瞬だけ見た政宗の横顔。
其処にあったのは、確かにいつも通りの顔だった筈だ。

それなら、どうしてこんなにも胸の奥がざわつくのだろう。







いつもなら一日にあった事をあれこれと話す弟が黙っている事に、信幸は不思議に思って視線を落とす。


腕の中に抱きかかえた小さな弟は、視線を虚空に彷徨わせていた。
珍しいこともある、ひょっとして遊びに行った先で何かあったのだろうか。

愛する弟がそんな顔をしているのに、黙っていられる信幸ではない。





「幸、どうかしたのか?」
「……え」





声をかけられてようやく現実に帰ったように、幸村が顔を上げる。
幸村の目は相変わらずくりくりと大きく、まるで零れ落ちそうだった。





「少々元気がないようだぞ。然程に遊んで来たか」





微笑んで言えば、幸村はじっと信幸の顔を見つめてくる。
何かを探っているような瞳に、信幸は気付かない振りをして返事を待った。

信幸の羽織を握る小さな手に力がこもり、其処を中心にして皺の波が出来る。
幸村の瞳はいつもの爛々とした光が形を潜め、少しだけゆらゆらと揺らめいているように見えた。
別に泣いている訳でもなかったし、幸村とて泣き出したい訳ではないだろう。
けれど、見ている者からすれば幸村の表情は泣き出す一歩手前のもののようにも思える。




自分がそんな顔をしているとは気付いていない幸村は、言おうかどうしようか、迷っていた。
感じているのは本当に些細な引っ掛かりで、気の所為だと済ませてしまえば終わってしまうようなものだった。
だって政宗はいつもと変わりなかったし、また明日、と言っていつものように別れてきたのだ。


変わったことなんて、特には………








「……あにうえ」








恐る恐る口を開けば、信幸はうん? と首を傾げて見せる。









「よく、わからないです……」
「判らない?」
「……ただ……すこしだけ」








適切な言葉が見付からない。
政宗から色んな言葉を教えてもらったのに、それでも当て嵌まるものが判らなかった。


ちゃんとした形にならない、はっきりした色にもならない、ただ感じるざわめきに似たもの。
別れ際の政宗をふとした瞬間に思い出す度、言い知れない何かに教われるような気がした。

安心できる兄の腕に抱かれているはずなのに、幸村は、なんだか酷く冷えていくような気がした。
暖かい家の中で、何も凍て付くようなものなど傍にないのに。



縋るように首に腕を回して抱き付いた幸村に、信幸は瞠目した。







「…………幸?」






呼びかけても、幸村は反応しない。
それを責めることはせず、信幸は優しく弟の小さな体を抱き締めた。


















幸せな時が壊れることはないと、ずっと信じていたかった。