拾弐
ぜんぶ
ゆめなんかじゃないよね
ぼくのこころにいるきみは
珍しく早起きした政宗に、小十郎は驚いた顔をして見せた。
奥州にいた頃に比べれば、この一ヶ月、政宗が起きる時間は早くなった。
けれども今日はそれどころではなく、宿の飼っている鶏が鳴くのと同時に目を覚ましたのだ。
政宗の気配を感じてか同じく目を覚ました小十郎は、もしや何処か具合が悪いのかと言い出した。
しかし政宗の包帯に覆われていない瞳は、寝起きにも関わらず爛々と輝いている。
不思議に思う小十郎をそのままにして、政宗は宿の部屋を出て、食堂へと向かう。
それなりに大きなこの宿屋は、宿に泊まらない人にも開放している食堂があった。
政宗は其処に出入りした事は殆どなかったが、今は覚えていて良かったと思う。
食堂の中をそのまま横切って、真っ直ぐ向かったのは厨房だ。
それを見た小十郎が慌てて止める声が聞こえたけれど、政宗は構わず、厨房を覗き込んだ。
朝食を希望する人の為に、厨房は陽の見えない折から稼動されている。
何せこの宿は甲斐でそれなりに名が売れているから、ぼやぼやしている暇はないのだ。
若い板前などは料理の下仕込みをしたり、厨房の掃除をしたりしなければならないから、もう一体いつ寝ていつ起きているのか。
それらをじっと見ていると、一人の板前が政宗の存在に気付いた。
「なんだ坊主、朝飯ならもうちょっと待ってくれよ」
白い歯を見せてにこやかに言われた。
けれども政宗は、ふるふると首を横に振った。
「あさめしはいい。あとでくうけど。それじゃない」
「うん?」
てっきり食事の催促とばかり思っていた板前は、不思議そうな顔をしながら政宗に歩み寄ってきた。
政宗の後ろでは、小十郎が一人で焦ってすいません、と謝っている。
政宗はきょろきょろと厨房を見回して、あるものを探す。
「どうした?」
「……あれ」
目当てのものを見つけて、政宗は真っ直ぐそれを指差した。
板前と一緒に、小十郎もその指差す先へと目をやる。
政宗が指差したのは炊かれたばかりの米。
大きな桶の上でほこほこと暖かな白い湯気を立てているそれは、見ているだけで胃を刺激する。
けれども、政宗がそれを指差したのは、決して今腹が減っているからではない。
……約束の為だ。
「あれ、ちょっとでいいからわけてほしいんだ。ゆきむらに、にぎりめし作ってやるって、やくそくしたから」
あんなに一杯あるんだから、良いだろ?
宿屋の食事の用意がどれ程大変で、少しの誤差がどんな事を招くか、流石に政宗でもまだ判らなかった。
特に今の政宗の頭の中を締めているのは、昨日約束した出来事の事だけ。
政宗の言葉に驚いたのは小十郎だ。
ずっと政宗の世話役をしている小十郎は、政宗がどういう子供であるのかよく判っている。
だから政宗がこんな事を言い出すとは思っていなかった。
“ゆきむら”という子供のことは、先日の風が強い日に聞かされてはいたけれど。
板前の方は、真っ直ぐな瞳で頼む子供に、少々困ったように笑って見せた。
まだ若いこの板前では、そういう事を気安く了承することが出来ない。
けれども厨房を仕切る料理長はまだ来そうにないし、何より政宗がそれまで待っていられるとは思えなかったのだ。
何せ見つめる子供の瞳は爛々と輝いていて、今すぐにでも約束を果たしたいと告げているようであったから。
……所詮、子供に勝るものはない。
「じゃあ、少しだぞ?」
悩んだ末の板前の言葉に、政宗の表情が明るくなる。
その表情は、長年傍仕えしている小十郎でさえ、中々見なかったものだ。
踏み台を使わせてもらって、ようやく目の当たりにした白い飯。
これで握り飯を作ったら、絶対に美味いに決まっている。
これを食べた時にあの子がどんな顔をしてくれるかと考えるだけで、政宗の胸は鼓動が高鳴った。
初めて作るんだと言うと、板前は楽しそうにそれなら教えてやろう、と言ってくれた。
綺麗な三角形にしたくて、政宗は板前の手元をじっと見つめている。
それを厨房口から眺めているのは小十郎だ。
彼の表情はまだまだ困惑の色を残すものの、何処か微笑んでいるようにも見えなくもない。
毎回色々と無理をしてくれる政宗であるが、こんな事は始めてだ。
立場も立場であるから、同い年の友達なんて言ったら、親戚の子供が一人ぐらいだ。
それだってこんな風に“ゆきむら”に対するように、無邪気に嬉しそうに笑った事は滅多にない。
右目を失ってから、いつも何かを諦めているようだった政宗が、年相応の子供の顔で、一つのことに一所懸命になっている。
……ずっと幼い頃に、彼の右目を、最後の希望さえも摘み取ったのは小十郎だ。
果たしてそれが正しい事だったのか、未だに小十郎には判らない。
政宗自身も望んでいた事だったとは言え、他に何かあったのではないかと思う事もあった。
だけれど、今目の前で、一所懸命に握りを作っている子供を見ていると、少しだけ報われたような気がする。
療養の為だと題目を付けて、奥州から逃げるように、政宗をこの甲斐まで連れてきた。
せめて少しでも気が紛れてくれれば、と。
――――小十郎が思っていた以上に、政宗はこの地を気に入ってくれていた。
いや、正しくはこの地にいる“ゆきむら”の事を、か。
(政宗様……良かった………)
何かの折に老成した顔をしていた幼子が、今は無邪気に笑ってくれる。
風の強い日に“ゆきむら”の話を聞かせてくれた政宗の顔を、小十郎は鮮やかに思い出す事が出来る。
その表情に感極まって思わず涙してしまい、ぽかんとしてしまった政宗の顔も。
きっと政宗は、この地で、“ゆきむら”とずっと一緒に過ごすことを望んでいる。
炊き立ての熱い米に悪戦苦闘しつつ、一所懸命形を整えて行く政宗の横顔は、本当に楽しそうだ。
この地にいれば、きっと政宗は歳相応の子供の表情でいてくれる。
朝起きて、いつも遊んでいるという川原に行って、夕暮れが沈む頃になって帰ってくるのだ。
そして一日何をして遊んだか小十郎に聞かせて、遊び疲れと話し疲れてようやく床につく。
そんな些細な幸せが続く事を、きっと疑ってはいないのだ。
でも。
小十郎の表情が一転し、唇を噛み、眉根を寄せる。
一昨日、飛脚で持ってこられた手紙を思い出した。
あれの封を切った時、全ての現実から逃れる事は出来ないのだと小十郎は知った。
「あ? くずれた……」
「俵の方が簡単じゃないかな?」
「やだ、さんかくがいい。あいつのにぎりめし、いつもさんかくだし」
「よーし、じゃあもう一頑張りしようか」
「おう!」
どうしてあんなに幼い子供を、この世は放って置いてくれないのだろう。
すっかり習慣になってしまった弁当作りに、信幸は今日も精を出していた。
毎回綺麗に平らげてくれるものだから、作っている身としても嬉しいものだ。
「作り過ぎたから」という嘘を疑うことをしない弟に、可愛い子だな、なんて兄馬鹿にもなってくる。
最近は出仕もないので、毎日屋敷の中で稽古をしたり、読書をしたりして過ごしている。
弟の御付の幼い忍は、今が一番大事な時期だから、とまだ屋敷に戻ってくる様子はない。
しかし弟はそれを特に気にしている様子はなく、昨日も一昨日も、毎日のように川原に遊びに行っているようだ。
やはり遊び相手を見つけたのだろうな、と信幸は思う。
遊び相手の事に関しては、未だに弟の口から直接語られた事はない。
だけれど、風の強い日に聞かせて貰った話は、その遊び相手の事が殆どだったように聞こえた。
最初に秘密だと行ったことさえ、ひょっとしたらもう忘れているのではないだろうか。
名前だとかは未だに教えてもらっていないけれど。
「ふむ……少々少ないか……?」
出来上がった握り飯を眺めつつ、信幸は腕を組んだ。
毎回綺麗に平らげてくれるのは嬉しいのだが、食べ盛りの子供にはひょっとして足りないのでは、と最近思うようになった
。
弟自身がよく食べるし、同い年の遊び相手であるなら、きっと相手の子もよく食べるのではないだろうか。
やはり、もう少し多く作って置いてみよう。
思いながら、信幸はまだ暖かい白米を取り出した。
と、其処へ、
「兄上!」
ととっ、と軽い足音を立て、台所に駆け行って来た子供。
幸村だ。
この子がこんな朝早くから目を覚ましているなんて、珍しいものだ。
この一ヶ月の間に、こののんびりした弟にしては早起きするようにはなったのだが、
まだ朝日が昇りきらないうちに目覚めて台所に顔を出すなんて初めてのことだ。
きっと起きて一番に此処へきたのだ。
どうにも手先が器用ではない幸村は、自分の髪を結うのも時間がかかる。
いつも御付の忍の少年にして貰っているから、いつまで経っても上達しない。
今日なんかは結ばないままで、寝巻きのままである。
「どうした、幸? すまぬが朝餉ならばもう少しかかるぞ」
握り飯を作っている横で、鍋がことことと音を立てている。
てっきりその匂いに釣られて来たのだろうか、と信幸は思ったのだ。
しかし幸村は予想に反して、ふるふると首を横に振った。
「あさげではなくて……えっと、あの……」
「うん?」
「兄上に、おねがいがあって……」
おや、と信幸は僅かに目を開く。
何かと聞き分けのいい弟だ。
御付の少年にはよく我侭を言うようだが、兄に対しては本当に出来た弟である。
会う機会も少ないからか、お願いなんてものは滅多にして来ない。
「なんだ? 幸のお願いなら、私はなんでも聞いてやるぞ」
背の低い幼い弟と目線を合わせる為にしゃがんで、信幸は言った。
ぱぁ、と幸村の表情が明るくなる。
「あの、にぎりめしの作りかたをおしえてください!」
「握り飯の?」
「はい! きょうは、わたしが作りたいのです!」
お願いします、と言う弟に、信幸の口元に笑みが浮かんだ。
ああ、きっと遊び相手と何か約束をしたんだ。
それでこんなにも張り切って、一所懸命な瞳で、爛々と輝いているのだ。
そんな弟の申し出を断れる信幸ではない。
「それならまず、台がいるな。幸ではまだ此処に届かぬし」
「もってまいります!」
「転ぶんじゃないよ」
はい、と元気の良い声。
全く、遊び相手が羨ましい。
だってあんなにも可愛い弟を、今は殆ど独り占めしているのだ。
決して幸村が兄の事を忘れている訳ではないけれど、やはりそんな思いは誤魔化せなかった。
兄と父が家に帰れず、御付の少年までもが鍛錬でいない時、弟はいつも一人だった。
名のある家柄の所為であるのか、どうにも同じ歳の友達が中々出来なかった弟。
一人で遊んでいる姿を見た事はないけれど、一人ぼっちが嫌いなあの子は、どんな思いを抱いていたのか。
仕方がないとは判ってくれているのだろうけど、やはり胸が痛むのを信幸は無視できない。
誰もいない静かな家の中に一人で、他の誰もいない川原で一人で時間を過ごして。
幾ら埋め合わせをしても足りないぐらいだ。
だけど、あの子は我侭を言わない。
物心つく以前はともかく、最近ではすっかり減ってしまったように思う。
変わりに御付の少年への些細な我侭は増えてしまったようだけれど。
それだって信幸には一つも言ってくれないから、兄として寂しいのは否めない。
普段ちっとも構ってやれないのだから、信幸の胸に去来する寂しさは、自業自得と言って良い。
本当に寂しい思いをしているのは幸村の方なのだから。
そんなあの子の隙間を埋めるように、新しい居場所を作った、幸村の遊び相手。
毎日のように川原へと駆けていく弟の後姿は、本当に楽しそうだ。
だから、自分が少し寂しい思いをするぐらい、受け止めるのが兄だ。
「兄上―!」
台を抱えて戻ってきた弟。
小さな体で、いつも全力で駆ける弟。
この笑顔が失われなければ、それだけで自分は報われるような気がした。
← ■ →