そのことばで












きっとぼくらはそこにあることをゆるされるんだ

















































「幸!!!」






駆け寄ってきた兄は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
探し回ってくれていたのか、いつも清潔な筈の袴は随分と泥を跳ねて汚れてしまっている。

びしょ濡れで未だに水が滴っている幸村を、信幸はしっかりと腕の中に掻き抱いた。




「何処に行っていたのだ、心配したのだぞ……!」
「ごめんなさい……」




幸村が謝ると、信幸はうん、と小さく頷いた。
くしゃくしゃと乱雑に頭を撫でられるのが、少し痛かった。
けれどそれだけ心配させたのだと言う事だ…自業自得だ。



あんな大雨の中、外に遊び行った上、夜半になっても帰って来ない。
行き先が川原だと判っているから、兄の不安は更に膨れ上がって行ったのだ。
ひょっとしたら川に落ちたんじゃないか、そのまま何処かに流されてしまったら。
川の氾濫がどれだけのものか判らなくても、想像が付く事だ。

いつも穏やかな川が怒り狂った時、どれほど恐ろしいものか、兄はよく知っている。
時としてそれも戦場で大きな策の一つと使われるほどなのだ。
まだ十も迎えていない幼子がどうなってしまうのか、考えるだに恐ろしい。


子の刻も過ぎて、ようやく帰ってきたと思ったら、貸した筈の傘も持っておらず、全身びしょ濡れ。
傘をなくしてしまったから帰って来れなかった、とは考え難かった。
少なくとも、夜になる前には戻って来る筈だから。




「怪我は? ないのか?」
「はい。ごしんぱい…おかけしました」
「いい。お前が…幸が無事なら……良かった…!」
「兄上……」




まるで子供のように泣き出した信幸に、幸村は胸の奥が痛むのを感じた。


兄は、幸村が帰って来ないのを自分の所為だと思っていた。
雨の中でも、外に行きたい、と珍しく我侭を言ってくれた弟を行かせてしまった。
その所為で、夜半になっても帰らず、もしかしたら、と。
行かせなければ良かった、と何度も何度も。




「さ、幸…すぐに風呂に入ろう。そんな状態では寒いだろう…?」
「……兄上といっしょにはいりとうございます」





幸村の言葉に、信幸は柔らかく微笑んだ。
























































「政宗様ぁあああ!! 一体何度申し上げれば宜しいのですか!!」






帰って来るなり怒号の一発。
覚悟はしていたが、今日はいつも以上に威力が大きかった。
慣れている筈なのに、耳の奥が痛い。


まだ若いこの男は、片倉小十郎景綱。
政宗の教育係兼世話役であった。

それ故か、少々口煩い所も多々ある。
今朝も土砂降りの中、川原に行こうとする政宗をしつこく止めていた。
結局政宗が彼の眼を盗んで外に出て行ってしまったのだが、それでもお上は責任を彼にぶつけるだろう。
なんだかんだ言いつつも政宗を幼い頃から見ているこの男は、政宗の世話をすることを気に入っていた。
少々やんちゃの過ぎる節のある政宗を、小言を言いつつ、いつも見守っている。




「このようにずぶ濡れで! 今何時とお思いですか!」
「うるせーなぁ……とりあえず、子の刻はすぎたんじゃねぇの」
「判っておるなら、早くお帰り下さい!」
「かえりたくてもかえれなかったんだよ。川におちたから」




さらっとなんでもない事のように告げた政宗だったが、小十郎はあっという間に真っ青になる。

帰って来れたのだから良いじゃないかと思う政宗だが、相手はそうも行かない。
政宗に万一の事があれば、その責任は側役の彼に降りかかるのだ。
その辺りをよく判っていないのは、歳相応の生意気振りの垣間見える所だが。


とにかく、これ以上大声を出されては宿の他の客に迷惑になる。
さっさと中に入るに限るとして、政宗は濡れたままの身体で敷居を跨いだ。




「お待ち下され、お体を拭かねば…」
「いいよ、ふろ入るから」




本当に色々と気が利くと言えば気が利く男である。
しかし、政宗にとっては小煩いだけであった。

それが、自分が彼に心配かけた分だけの自業自得のものであるとしても、大人しく甘受する気はない。
反抗期真っ只中の政宗は、いつもこんな調子であった。
小十郎も半分は諦めているのか、最後は溜息をついて、政宗の言う通りにするのだ。


共同となっている風呂場へ向かう政宗に、小十郎は召し物を持って来ると言った。
聞こえている事を手で振って知らせて、政宗は真っ直ぐ風呂場へ歩いていく。




この宿の風呂場は露天風呂となっており、天然の温泉だった。
時間に関係なく解放されているのは助かった。
幾ら政宗でも、此処まで濡れてしまって身体を温めずにいれば、明日には風邪を引いていた事だろう。

以前なら気にしなかった事だが、これからはそうは行かない。
明日になったらまた川原に行って、明後日も川原に行って、明々後日も。
ずっと一緒にいると今日約束したばかりなのだ。
早々に約束を破るなんて、嫌だ。



濡れて解けにくくなっている帯と悪戦苦闘する。
手の感覚も少々麻痺しているようで、思ったように動いてくれない。
そんなに冷えていたかと思いながら手を頬に当ててみると、いつもの己の体温は其処になかった。

繋いだあの手は、あったかかったのに。

濡れた所為で冷えているのだとしても、ふと過ぎった考えに少し淋しくなった。
いっその事此処まで連れて来て、一緒に風呂に入ってもよかったかな、と。
彼の方がそうも行かないのだろうけど。






頬に触れた手が、不意に瞳を覆う包帯に当たった。
川に落ちて濡れたそれは、もうすでに乾いている。
しかし、後でちゃんと新しい包帯に巻きなおさなければなるまい。

既にないも同然の眼であっても、おざなりにする訳には行かなかった。
其処から菌が入ったら、どうなるのか判ったものではないのだ。



けれど。
なんとなく、解きたくない。



この包帯は、幸村が巻き直してくれたものだ。

自分で出来ると言うのに、やらせろと言って譲らなかった彼。
きっと見れば気持ち悪いだろうと思ったのに、怖くないよと言って笑った彼。


幸村は、嘘を吐ける性格ではない。
驚くほどに真っ直ぐで、正直で、隠し事が出来ない。
一緒に過ごした日々で、それはよく判った。

だから幸村の言った事は、彼の心の真実なのだ。
怖くない、気持ち悪くない――――大好きだよ、と。





「……かぜひかないといいな…あいつ」





明日はちゃんと来るよな、と思いながら。
政宗は、浴場へと続く納戸を開ける。

明日も遊ぼう、と約束した。
だからきっと、大丈夫。
来れなくたって、明後日がある、明々後日も、その次も。





「あそぼうな、ゆきむら」






誰もいない空間で呟いた声は、意外とよく反響した。

























慣れた手付きで、小十郎が包帯を解いていく。
出来るというのに、乱暴にするから駄目だと言われてしまった。

確かに、いつも鬱陶しいからと千切る勢いで解いてしまうのだが、今日ばかりはそんな気分にならない。



解き終わった包帯をくるくると巻くと、小十郎は代えの包帯を箱から探す。

政宗は、右手で既に仕えなくなってしまった己の目に触れた。
其処にはやはり確かな違和感があって、正常な状態ではないのだと窺い知れる。




「良好のようで、私も嬉しいですぞ。此処に来て正解でしたな」
「……そうだな」




小十郎の言葉に短く返事をすると、驚いたようにこちらを見られた。
返す言葉があるとは思っていなかったのだろう。

今日は機嫌が良いからだ。
だから包帯も乱暴に解く気はなかったし、風呂にもちゃんと入ったし、
いつもなら返事をしない言葉に対して反応したのだ。




今日は、機嫌が良いから。






「小十郎」






名を呼ぶと、はい? と言う声。







「そこにすがた見、あるよな」
「御座いますが…」





それが何か、と言う言葉が終わるとほぼ同時に、政宗は立ち上がる。
小十郎の横を通り過ぎて、おそらく女性用であろう大きな姿見に向かって歩く。

行灯の明かりしかない所為で、鏡に映りこんだ己の顔は見えなかった。




「あんどん、こっちもってきてくれ」
「…政宗様?」
「早く」




急かす政宗に首を傾げつつ、小十郎は行灯を慎重に移動させる。
置かれたのは政宗の後ろだったが、政宗は自分の横を指差した。
其処に置け、という事である。

小十郎が眼を丸くしたのが、行灯の明かりに照らされた。


政宗は今、包帯をしていない。
このまま明かりを受けて鏡に映れば、何が見えるかなど考えなくても判る。

政宗はこれまでに、包帯を取った状態で自分の顔を鏡等で見た事がなかった。
小十郎も政宗の心中を察して、なるべく身辺に鏡などを置かないようにしていた。
包帯を取り替えるときなどは、絶対に姿見に顔が映らないようにして。



そんな政宗が、鏡に映った己が見えるようにしろと言う。




「……良いのですか?」
「ああ」




躊躇う事無く応えた政宗に、小十郎はそれ以上口を開こうとしなかった。
行灯を政宗の横に置いて、自分もそれと並んで座する。









照らされて。




自分の顔が、其処にある。













空洞のような瞳。
既にないに等しい、あるべきもの。

これの所為で、母は壊れてしまった。
だから政宗は、これは忌むべきものであると思っていた。




思っていた。

今日まで。


あの時まで。














『わたしは、こわくない』




『きもちわるいなんて思わない』
















『すきだよ』
























うん。
好きだよ。
俺も。

お前がそう言ってくれるのなら。
そう言ってくれるお前が、俺も好きだから。







「政宗様………」


「なぁ、小十郎」






何か言葉を探していたらしい小十郎。
それを遮るようにして、正宗は。














「わるく―――――ねぇな」




































  


小十郎、出す予定はなかったんですが、
この話にあたっては彼が一番いいかなと。
成実の方が良かったかな?