碌
ずっとこのまま
いっしょにいれたら
いいのにね
雨が弱まり、空が少しずつ晴れていく。
けれども川の流れは一向に治まる様子がなかった。
上流から流れてくる水は増えるばかりで、幸村と政宗のいる浮島も危なくなっている。
水が浮島に浸食する前に、二人は高めの木に登った。
木登りの経験の少なかった幸村は、何度も落ちそうになったが、政宗に助けられた。
二人が木に登って間もなくして、浮島の地面も水に飲まれてしまった。
危なかった、と呟く幸村に、全くだ、と政宗も漏らした。
川の流れが静まらない限り、二人はこの隔離された場所から元の場所へは戻れない。
太目の木の枝に並んで座って、一緒になって川を見詰めていた。
晴れていっている筈なのに、一向に明かりは差さない。
無理もない、時刻は既に夜中となっており、運の悪いことに今日は新月であった。
傍らの存在の顔でさえ、徐々に不明瞭になりつつある。
日暮れまでにはいつも家に帰っていたのに、これでは無理だ。
視覚が頼れないのに濁流を泳ぐなんて、出来る訳がなかった。
「……あにうえ……」
「……ちくしょう…」
まるで世界から見捨てられてしまったような感覚に陥ってしまう。
呼べば来てくれる筈でもないだろうに、幸村は兄を呼ばずにはいられなかった。
政宗の言葉は誰に向けられたわけでもない。
どうにもならない現状と、どうする事も出来ないのが悔しい。
出来る事と言えば、傍らの存在を確かめる事だけ。
月明かりはなくても影は見えたし、触れられる距離にいるから、どちらともなく手を繋いだ。
政宗が肩を寄せると、幸村はその肩に自分の頭を乗せた。
「……かえれないね」
「……そうだな」
「…おなかすいた…」
「……ちょっとまってろ」
幸村の言葉に、政宗は自分の腰に手を当てた。
いつも身につけている小さな巾着袋が其処にはある。
繋いでいる手を離して、政宗は未だに濡れている巾着の紐を解く。
逆さまにすると、小さな黒い塊が二個転がって出てきた。
危うく落としそうになったそれを追い駆けて、政宗が不安定な姿勢になる。
慌てて幸村も、そんな政宗を捕まえて支えた。
「ゆきむら、はんぶんな」
体勢を戻した政宗は、幸村の手に塊を渡す。
見た事のない、まるで石の様にも見えるそれ。
「ゆべしって、米のかし」
「……くろいよ?」
「しょーゆつかってるからだろ」
相変わらず政宗は、幸村の知らないものをよく持っている。
金平糖もそうだった。
おそるおそる食べてみると、甘い。
甘いものが好きな幸村にとっては、嬉しいものだった。
少ししかないので、味わって食べる事にする。
隣の政宗は既に飲み込んでしまったようである。
特に庇うものがなくなって、また手を繋いだ。
「ありがとう、まさむね」
「どってことねぇよ」
政宗の返事に、幸村は小さく微笑む。
先程まで己の肩口に顔を埋めていた、小さな身体はもう何処にもない。
いつも通りの、少し生意気っぽい勝気な瞳が其処にはある。
幸村よりも少しだけ大きな、繋いだ手は、頼もしさに溢れている。
「こじゅうろうがうるせぇなあ」
「兄上のかさ、どうしよう……」
「さがせばどこかにあるんじゃねえか?」
「でも、かぜがつよかったし」
「かえるとき見てみようぜ」
「うん」
望みは薄いと思うけれど、放って置く訳にも行かない。
探せるだけ探して見付かれば良し、ないのならきちんと謝ろう。
どの道、怒られるであろう予想はついているのだ。
不可抗力とはいえ、一晩家に帰らないなんてとんでもない事だ。
「……さすけ、こないかな」
「ここにいるって知ってるのか?」
「いつもここであそんでたから」
幸村の向かう場所と言ったら、此処ぐらいしか思いつかないだろう。
甘味屋に行ったのなら、こんな時間にもなれば既に店仕舞となっている筈だ。
けれど佐助が探しに来てくれたとしても、気付いてくれるかどうか。
いや、気付いて貰えたとしても、きっと佐助でもどうにもならない。
川の流れは依然として落ち着く様子はないし、政宗の事もある。
幸村より一回り大きいだけの佐助では、二人も抱えて泳ぐのは困難と言う物だ。
じゃあ小十郎はどうかな、と政宗が呟く。
それからしばらく黙った後、やっぱり無理か、と。
大人だってこんな濁流を泳いで浮島に来ようとはしないだろう。
二人は、眼前に孤立無援の状態となっていた。
水が引くのを待つしかない。
この真っ暗な場所で。
一人でなくて良かったと、幸村は心中で思った。
政宗がいてくれたから、川で溺れないで済んだし、お菓子も分けて貰えて、手を繋いで。
きっといつかなんとかなる、とそう思う事が出来る。
誰かが傍にいるというだけで、こんなにも違った気持ちになれる。
一人だったら不安で不安で仕方がなくて、泣くだけしか出来なかっただろう。
そして、父や兄や…佐助が探し出してくれるのを待つのみであった。
不意に、繋いだ手を握る政宗の手に、力が篭った。
「……まさむね?」
「おれ」
不思議に思って名を呼ぶと、直ぐに政宗は口を開いた。
「おれは、かえりたくない」
政宗の言葉に、幸村は目を見開いた。
暗闇の中でも、政宗の独眼はぎらぎらと光っていた。
けれども幸村がそれに怯えを覚える事はない。
意味が判らなかった。
「でも、おこられるんじゃ……」
「かえらなきゃ、おこられもしない」
戸惑い気味に紡いだ言葉は、中途半端に途切れてしまった。
「ずっとここにいたら……おまえといっしょにいられる」
繋いだ手を離さない、とでも言うように、握る手に力が篭る。
ささやかだけれど、はっきりとした痛みに、幸村は顔を顰めた。
こちらを向いていない政宗には、それは判らなかった。
「まさ……」
「いやか?」
名を呼ぼうとしたら、それより先に政宗がこちらを向いた。
「ゆきむらは、おれといっしょにいるのはいやか?」
それは問いかけと言うよりも、確認に近い言葉だった。
問いかけの真意も判らぬまま、幸村は首を横に振る。
これは嘘偽りではない。
色々な事を教えてもらって、見せてもらって、幾ら感謝しても足りないぐらいに楽しい日々。
佐助と一緒にいる時とは少し違う、一歩前に立って手を引っ張って行ってくれる友達。
佐助はどちらかと言えば、隣よりも少し後ろにいて、何かあったら手を伸ばしてくれる。
決して前に立つ事はしないのだ、政宗とは少し違って。
「おれのこと、きもちわくるないか?」
もう一度、幸村は首を横に振った。
政宗の手は、包帯に覆われた己の右目に当てられた。
ついさっき、自分は其処にぽっかりと浮かび上がった闇を見た。
けれど、それは気持ち悪くもなんともなかった。
少し驚いたのは、見たことがなかったものを始めて見たから。
気持ち悪くも、怖くもない―――――幸村は、純粋にそう思う。
「まさむねのこと、わたしはすきだよ」
見詰めてくる尖った瞳に、幸村は笑んだ。
この言葉は、何よりも真実。
もともと嘘がつけるような性質ではない。
佐助に言わせると、馬鹿がつく程正直である、という事だ。
馬鹿と言われた時は腹が立ったが、兄に素直なのは良いことだ、と言われたのは嬉しかった。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、表裏がないぐらいに、幸村の心は真っ直ぐだった。
それは誰に対しても、逸らされることなく向けられる。
幼さ特有のその強さは、時として、刃となる事もある。
けれども、時として、幼い強さは何よりも強固なものとなるのだ。
護る為の、強さとなるのだ。
あらゆるものを、護る為の。
「まさむねといっしょにいると……すぐにじかんが来る。
かえらなきゃいけなくなって、すごくたのしいのに……もったいないっていつも思う。
もっともっと、もっとずっと、これからも、いっしょにあそびたい」
でも。
「わたしは、兄上たちのところにかえりたい」
政宗と一緒にいるのは楽しい。
知らない事を教えて貰えるのは嬉しい。
二人で少し危なっかしい事をするのも、転げまわるのも。
でも、家族の事はそれとこれとは別なのだ。
切り離せるものではない。
「兄上たちのところにかえって……まさむねのこと、はなしたい」
今はまだ、内緒にしている。
理由は、特にないけれど。
佐助が帰って来たら話そうと思っている。
ひょっとしたら、兄は薄々気付いているかも知れない。
一人遊びがあまり好きではない弟が、毎日毎日、一人で川原に行って、一人で帰って来る理由。
一人で熱中できる何かを見つけたか、若しくは一緒に遊ぶ相手を見つけたか。
いつも笑顔で見送ってくれる兄は、今どうしているだろう。
帰って来ない弟を、どう思っているのだろうか。
「今日はなにをして…はなしをして、って……ぜんぶ、言いたい」
自分が幸せであるなら、己も幸せだと兄は言った。
だから、自分が毎日幸せなのだと知らせたい。
「わたしは……かえりたい」
これだけは、政宗の言葉に添えない。
一緒にいるのは楽しいし、このままずっと二人でいるのも悪くない。
家に帰らないで、二人きりで遊んでいるのも悪くない。
けれど、その選択は出来ない。
どちらかを取る為にどちらかを切り離すなど。
「いえにかえって、兄上たちとはなしをして……あしたになったら、またここに来て。
まさむねとあそんで、いっしょに甘いものたべて、ひがくれたらかえるんだ。
それから、またあしたになったら、またここに来て、いっしょにあそぶのがいい」
それだけで、ずっと一緒にいられるじゃないか。
今の幸村の頭の中に、政宗がいつか奥州に帰ってしまうのだという事実は、なかった。
今のままでも、ずっと自分たちは一緒にいられると思っている。
こんな小さな狭い世界で、隔離された場所でなくても、この手は繋いでいられるのだ。
一度手を離してしまっても、もう一度繋ぐ事ができるのだ。
楽しい日々を繰り返して、手を繋いで、それだけで十分じゃないのか。
「だから……かえりたくないなんて、言わないで」
政宗の肩に額を乗せて、幸村は小さな声で呟いた。
繋いでいる手を、強く強く握る。
「…………ごめん」
また強く握り返されて、幸村は小さく頷いた。
政宗の気持ちが、全く判らない訳ではないのだ。
ただ、どうしても切り離せないから。
「あした……また、あそべる?」
「……おう」
もう一度、互いに強く手を握る。
川の水もかなり引いた。
時刻は判らなかったが、ひょっとしたらもう子の刻を過ぎているかも知れない。
「かえろう」
幸村の言葉に、政宗は返事をしなかった。
その代わり、木の上からするりと降りて、幸村の方を振り返る。
政宗と違って、幸村は危なっかしい様子で、なんとか地面に降りる。
ついさっきまで川に浸かっていた浮島の地面は、じっとりとした泥と化していた。
草鞋にくっついた泥が鬱陶しかったけれど、川に入れば気にならなくなる。
替わりに身を引き裂く程に冷たい水に、二人は寒くなって身を震わせる。
いつもよりも数段深くなっていた川を渡り切り、二人はまた手を繋いだ。
見知った場所を目指して、川の上流の方へと足を動かした。
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