四
つないだ手をはなさないで
ふれるぬくもりをはなさないで
どうかつなぎあったままで
一瞬のうちに呼吸が奪われて、目もなんだか痛くなった。
何がどうなったのか判らない。
ただ手を握っているのが、政宗の手なんだと言う事だけが確かだった。
政宗、と名前を呼ぼうとしたら、口の中に大量の何かが入り込んできた。
じゃりじゃりしていて、不味くて気持ちが悪い。
吐き出したかったけれど、口を開けばまた同じように入り込んでくるものがある。
身体にかかる負荷の位置が、上下左右にぐるぐる回る。
兄の馬に乗せてもらった時だって酔わなかったのに、これには酔いそうだった。
父が久しぶりに帰ってきた時、高い高いと一緒にぐるぐる廻されて目が回ったけど、これはそれの比ではない。
目が開けられないから、目を廻す事はないだろうけど、あちこちに小さなものが当たって痛い。
視覚で確認する事が出来ないから、尚更どうなっているのかが判らなくて怖かった。
繋がれた手のひらしか、頼るものがない。
強くそれを握ったら、もっと強い力で握り返された。
聴覚がゴボゴボと不透明な音を拾っている。
それから時々、どぉお、と大きな音が聞こえてきた。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い!!
そう思っていたら、何かが幸村をぎゅっと抱き締めた。
繋がれた手がそのままだったから、政宗なんだと判った。
無我夢中で、その腕にしがみ付く。
ぐん、と頭から大きな負荷がかかった。
それに引き摺られそうな気がして、政宗の腕が離れていかないように祈る。
息苦しい。
口の中に入ったままのじゃりじゃりを、早く吐き出したい。
早く息をしたいけど、口を開けない。
ぐ、と一瞬、今まで以上の負荷がかかった直後。
「―――――――っぶはぁっ!!!」
「ぷはっ!!」
政宗の盛大な声が聞こえたのを合図に、幸村も口の中のじゃりじゃりを吐き出した。
やっと息苦しさがなくなって、酸素が肺へと送り込まれていく。
「ゆきむら、つかまってろ……!」
げほげほと咽返る幸村に対して、政宗はそれだけを言った。
言われたままに、幸村は政宗の肩に縋りついた。
うっすらと目を開けると、少し離れた場所に見慣れた土手があった。
その上には、ぽつんと二つの大き目の傘が転がっている。
どうしてあんな所に、と思ったけれど、近くから聞こえる水を跳ねる音にようやく思い出す。
突然の強風に煽られて、政宗まで巻き込んで、川に落ちてしまったという事を。
着物に染み込んだ水が重くて鬱陶しかった。
長い髪が、速い川の流れに流されて、引っ張られているようで痛い。
「ちくしょう…ながされる……!」
抑えたような声がすぐ近くから聞こえる。
政宗が必死になって水を掻き分けていた。
けれど幼い腕でどれほど進めようか、瞬く間に流され、深場に戻される。
当然足がつく筈もないから、不安定な状態がずっと続いている。
自分たちが立っていた場所だった筈の傘が、どんどん小さくなって行く。
この川が何処まで続いているのか、いつも遊びに来ている幸村も知らなかった。
誰かがいたら、助けてと言えるのに。
こんな大雨の中を誰かが歩いているとも思えないし、いたとしても、大人だってこんな川には飛び込まないだろう。
それでも藁にも縋る思いで、誰か、と願わずにはいられなかった。
悪いことをしたら罰が当たるんだよ、と。
いつだったか、兄と何処かの寺に参拝に行った時に言われた気がする。
良い行いをすれば、いつかご褒美が貰える。
悪い行いをすれば、遠からず天罰が与えられる。
悪いことなんて、していない。
政宗との約束も破ってない。
ひょっとして、兄に無理を行ったからなのだろうか。
心配する兄に我侭を言って、こんな雨の日に外に出して貰ったから?
だって政宗との約束を破りたくなかったのだ。
後でどんなに怒られてもいいから、友達との約束を破りたくなかった。
「どこか…つかめる、とこ……げほ…」
自分を離せば、きっと泳いで岸まで行けるだろうに。
腰に廻された腕が、それを赦そうとしなかった。
こんなに優しいのに。
裏切れる訳がない。
「まさむね…!」
「あ…?」
「あそこ……!」
視界に入った浮島を、幸村は指差した。
其処まで泳ぐのは骨が折れる。
だが、川の流れは幸いにもそちらへと向かっていた。
「……よし……!」
ばしゃん、と幼い腕が再び水を掻いた。
荒い息を繰り返しながら、政宗は幸村を浮島へと押し上げた。
意外としっかりしている大地に下りた幸村は、すぐに政宗を引き上げにかかる。
泳ぎ疲れた政宗の身体に余力はなく、ほとんど幸村一人の力で引き上げねばならない。
水を吸った分だけ重くなった着物が、邪魔をする。
おまけにお互いの身体は当然びしょ濡れで、互いを繋ぐ手が滑りそうになる。
どうにかこうにか、悪戦苦闘しながら、幸村は政宗を引き上げる事に成功した。
濡れて泥とかした地面の上に、二人して座り込む。
「ありがとよ、ゆきむら…」
「わ、わたしも…まさむねが、いなかったら…おぼれてた…」
普段いつも遊んでいる川が、こんなにも怖いものだったなんて知らなかった。
豪雨の齎した不幸に、危うく二人は飲み込まれるところだったのだ。
牛や馬や、大人が川に流されて行方不明になり、最後には死んで発見されたという話を時折聞く事がある。
その時は可哀想だな、なんて思っていたけれど、実際にそんな目に合うと、それだけでは済まされない。
いつも透明で穏やかな筈の川は、泥を巻き込んで濁流となり、一寸先さえも見えない。
口の中に入り込んできた泥水はじゃりじゃりして美味い不味い以前の問題だったし、
息をしたいのに出来ない苦しさは半端ではなかった。
政宗がいなかったら、きっと幸村はそれらに揉まれて、帰ることが出来なかっただろう。
決して金槌でも、泳ぎが下手な訳でもないけど、こんなに速い流れの中で泳いだ事なんてなかった。
落ちた時には何が起きたか全く判らなかったし、頭の中は混乱して、何も考えられなかった。
繋がれた政宗の手に縋りつくしか、出来なかった。
「あっち、けっこうとおいんだな……」
呼吸を整えた政宗が独り言のように呟いた。
その目は、本来自分たちがいる筈の土手の方へと向けられている。
土手に戻らないと、自分も政宗も、家に帰れない。
もと居た場所は、もう見えなかった。
何度も強風が吹いてきているから、傘も飛んでしまったかも知れない。
折角兄が貸してくれたものだというのに。
「……もうおよげねぇや…」
「…………」
吹き付ける風と雨と、濡れ鼠のような自分たちの格好。
体力は既に底尽いている。
さっきから水笠も増していて、流れもまた速くなっているように見える。
「とりあえず、中にいこうよ」
「中?」
「…ここよりぬれないとおもう」
「……ああ、そうだな」
小さな浮島の中には木が何本か立っていた。
中心部分を囲うようになっており、生い茂る緑が屋根の役割を果たしてくれる。
吹き曝しの岸辺よりは、幾らかましというものであろう。
よろよろと立ち上がる政宗を支えると、政宗が小さな声で感謝を述べる。
それを言いたいのはこっちの方だった。
こんなになっても、政宗は幸村を離そうとしなかったのだ。
「あるける?」
「…たぶん」
地面を踏みしめる政宗の足が、カタカタと震えていた。
幸村は政宗の腕を取ると、自分の肩へと廻させる。
背中を支えて、ゆっくりと歩き出した。
政宗が小さく笑った後、幸村と同じように足を動かす。
ふと幸村は、政宗の右目を覆う包帯が解け掛けているのに気付いた。
あれだけ水の中で揉まれたのだから、当然ながら包帯もぐっしょりと濡れている。
このまま放って置くのはよくないだろう。
「まさむね」
「あん?」
「あとで、それわたしがまいてあげるね」
「それ……?」
「ほうたい。ほどけてる」
「あ……い、いや、いい。じぶんでやる」
首を振ってまで拒否する正宗に、幸村は唇を尖らせる。
「だいじょうぶだよ。わたしだって、兄上のケガのほうたいをまいたことぐらいあるから」
「いや…そういうことじゃないんだけどな……」
「じゃあ、わたしにやらせてよ」
「その…だから、な、あー……」
政宗の言いたい事は、なんとなく感じ取る事が出来た。
けれども幸村は、がんとして譲るつもりはない。
大きな木の根元に政宗を座らせると、解れた包帯に手をかける。
ひく、と政宗の表情が引き攣ったのが見えたけど、見なかったふりをした。
濡れて引っ付いた前髪を引っ張らないように気をつけながら、包帯を解いていく。
替えがあれば良かったのに、と思いつつも、
どうせ川に落ちてしまったのだから、持っていてもそれもズブ濡れになっていた事だろう。
贅沢は言っていられない、とにかく今はきちんと巻き直さねばなるまい。
人の頭に包帯を巻いた事はあった。
戦から帰ってきた兄の傷や、修行で怪我をした佐助の包帯の替えを手伝った事がある。
それでも、人の目を覆い隠して巻く、なんて経験は一度もなかった。
締め過ぎないようにしなければ。
でも、あんまり緩かったら直ぐに解けてしまう。
どうしたものかと考えている間に、包帯が全て解き終わった。
ぽっかりと空いた空洞が、幸村の眼前にある。
少しだけ、それに驚いた。
「……やっぱり、きもちわるいだろ」
びっくりした幸村の表情をどう捉えたのだろうか。
政宗が小さく呟いて、包帯を取ろうとする。
しかし。
「だめ、わたしがやる」
「…いいよ」
政宗の手から包帯を遠ざけて、幸村ははっきりと言い切った。
「いいからまさむねはじっとしてて」
「……ゆきむら」
「うごいたら、うまくできないから…」
拒否しようとする政宗。
譲らない幸村。
止めようとする政宗の手を無視して、幸村は包帯を巻き直し始める。
それは拙い動きではあったけれど、確かな優しさがあった。
きつ過ぎないように、緩過ぎないように、押し付けたりしないように注意を払う。
真剣な眼差しをする幸村に、政宗も大人しくならざるを得なかった。
沈黙の帳が下りて、雨と風と川流れの音に包まれる。
すっかり隔離された空間にいると言うのに、それさえ二人の頭の中にはなかった。
このままでは、夜になって帰れないのに。
今以上に川の水嵩が増せば、此処も安全ではないと言うのに。
幸村は、政宗の包帯を巻くことに必死で。
政宗は、何かに耐えるように只管唇を噛んでいた。
政宗の髪質が意外と固いという事に、幸村は初めて気が付いた。
ここ数日、毎日一緒に遊んでいたけれど、政宗の髪に触れた事はなかった。
隣同士で寝転んで空を見上げたりしていたけれど、こんなに近付いた事はなかったんじゃないかと思う。
手の届く距離にはいたけれど。
もっと、これからも一緒に遊ぶ事が出来たなら。
もっともっと、知らないことを知っていけるのだろうか。
政宗は、この瞳の療養で奥州から甲斐までやって来たという。
と、言う事は、やはりいつかは奥州に帰ってしまうのだろうか。
出来ればその日は来て欲しくないと、幸村は切に願ってしまう。
初めて出来た佐助とは違う、友達だ。
色々な話ももっと沢山聞きたいし、知らない遊びも教えて欲しい。
金平糖だって分けあって食べたいし、いつも兄が土産に買って来てくれる美味しい団子も食べさせて上げたい。
して上げたい事が山ほどあって、教えて欲しい事が山ほどある。
もしも、この浮島で二人で生きていけたなら。
政宗とずっと一緒にいられるだろうか。
そんな事は、出来ないけれど。
「………おわったよ」
「……うん」
少し不恰好ではあるけれど、無事に包帯を巻き終えた。
微笑んでそれを告げると、政宗はようやく幸村に目を向ける。
「……まさむね?」
何故か、政宗の瞳が揺れているように見えた。
ひょっとして、政宗は何も言わなかったけれど、きつく締めてしまったのだろうか。
どうしよう、と思っていたら。
急に、抱き締められた。
突然の事に、幸村は呆然とする。
触れた部分が、びしょ濡れになっている筈なのに、意外と暖かい。
人肌特有の温もりが、触れ合った場所から伝わってくる。
けれど肩が何か、じわりと熱いもので濡れた。
「まさむね、どうしたの?」
名を呼んでみても、返事はない。
正宗は幸村の肩口に顔を埋めたままだった。
泣いている。
なんとなく、それが判った。
「……きついの? ほうたい…」
違う、と正宗は首を横に振った。
「じゃあ……どこかけがしてた?」
引き上げる時、泳いでいる時……川に落ちた時。
あれ程の濁流に揉まれたのだから、流物や岩にぶつかっていても可笑しくなかった。
けれども、正宗はまた否定する。
「ねぇ、どうしたの?」
判んないよ、と言えば。
小さな声で。
「……ありがとな……」
怖がらないでくれて。
壊れないでくれて。
拒まないでくれて。
嫌わないでくれて。
ありがとう。
聞こえた言葉に、
幸村は小さく微笑んだ。
子犬のように震える少年を、
隠すように、腕の中に抱いた。
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この話はどうしても入れたかったんです。