だいじょうぶだよ


きみがどんなすがたになったとしても









つないだこの手は、はなさないから






































雨が降り続けている。
朝からずっとだ。



地面は既に水浸しで、ぼんやりしていると泥に滑ってしまう。
そんな日に幸村は、傘を差していつものように川原へと向かっていた。

佐助は相変わらず修行が続いているらしく、しばらく顔を見ていない。
一人で家を出て行くことに兄は良い顔をしなかったけれど、何も言わずに送り出してくれた。
弟が毎日楽しみにしている事を、邪魔したくはなかったのだろう。
川岸まで近付かないことを約束にして、笑顔で見送り出してくれたのである。

普段は聞き分けの良い弟が、珍しく、事の次第を判っていながら我侭を言ってくれたのだ。
不安はあるものの、妨げになることを言ってはいけないと思った結果だった。



跳ねる泥で、足元が既に汚れている。
時々派手に水溜りの水を跳ねさせてしまい、着物の裾も泥がついてしまった。

怒られるかな、とも思ったけれど、気にしない事にした。
我侭を言って外に出してもらったのだから、これぐらいは覚悟せねばなるまい。




こんな雨の日だから、ひょっとしたら政宗は来ていないかも知れない。

でも、昨日の別れ際に「また明日」と約束したから。
行くだけ行って、いなかったら少しの間待って、それから帰ればいい。
明日晴れてくれれば、きっとまた逢えると思うし。

約束を反故にしたくなかった。
兄や父も、出来ない約束はするな、約束したならちゃんと守れと何度も言っていた。
今日川原に行かなかったら、その二つの言葉を同時に破る事になるのだ。
それは裏切る事と同じ行為で、自分の望む所ではない。




川原に近付いていくと、少し大きな流れの音が聞こえてきた。
この大雨だ、川の水位は増していて当然だろう。

足を滑らせて、落ちたりしていなければいいのだけれど。
幸村よりも少し活発な感がある政宗は、川の深い場所に進んで歩いて行ってしまう。
今の所それで溺れた事はないのだが、今日ばかりは危ないと思う。







けれど、幸村の心配はそっちの気で。


政宗は、川原の土手上に立ち尽くしていた。









「まさむねー!」
「おう、ゆきむら!」




幸村の呼ぶ声に、政宗は振り返って応えた。


政宗の差している、小さな身体には少し大きめの傘。
それは幸村と同じ事だった。

兄が大きな方が濡れないからと、いつも自分が使っている傘を貸してくれたのだ。
大きい分だけ少し重いのだけど、気遣ってくれたのが嬉しかった。



「でかいな、ゆきむらのカサ」
「まさむねのもおっきいよ」
「こじゅうろうがさ…うるさくて」



濡れたら風邪を引くから、と。
愚痴のように呟いた横顔は、拗ねているものだった。



「わたしは兄上がおかししてくださったんだ」
「へー。おれはきょーだいなんていねぇからな」



いつも一緒にいる小十郎は従者みたいなものなんだと、昨日聞いた。
それを聞いた時、佐助も同じようなものなのだと思い出した。
毎日一緒にいるから兄弟のように感じていたけれど。

従者と言うのは、口煩いものなのだろうか。
小十郎も何かと煩いらしいし、佐助もそうだ。


まぁ、今はそれよりも。



「いいにいちゃんだな」
「はい。じまんの兄上です」
「いいな、ゆきむらは。おれはそんなの、いちどもない」
「でも、そのカサは……」
「こじゅうろうは、にいちゃんじゃねぇからな」



幸村が右側に立っているので、政宗がどんな表情をしているのかは判らなかった。
政宗の右目は包帯に覆われている。
故に、さまざまな感情を映し出す筈の瞳が見えないのである。

ただ雨の音を割って聞こえてきた声は、何処か淋しさを含んでいた。




「おれ、こっちの目な」
「うん」
「見えないっていったけど」




嘘じゃないんだけどさ、と。
まるで、禁忌を破るように政宗はゆっくりと語り始める。











「ないんだよ……こっちの、目」












病で、潰れたんだ。
もっとずっと童の頃に。


当時の事はよく覚えていないと、政宗は言った。
何せ小さかったし、人から聞いた話なのだと。
ただ右目に触れた時、確かな違和感があるから、間違いではないと思う。
未だに自分で包帯を取って見た事はないけれど、その通りだと確信している。

きっといつまでも、この包帯を取る事は出来ないと思う。




…怖いから。




でも、怖いのは、ある筈のものが其処にないのを見るのではない。
確かに、ぽっかりと空洞となった場所を見るのも怖いのだけれど。
本当に政宗が恐れているのは、それではなかった。


政宗が物心ついて間もない頃、母親からその事を詰られた事があった。
病の所為とは言え、眼球が潰れてしまった我が子を、気持ちが悪い、と言って。
殴られた事もあったし、それだけならば政宗が耐えれば済んだのだ。



政宗が医者に包帯を取り替えてもらう度に、母はその場に立ち会うことを嫌がった。
ぽっかりと空いた空洞が自分に向けられるのが嫌だったのだ。
まるで屍となってしまったような空洞が。
けれども幼かった政宗はまだそれが判らなくて、母に傍にいて欲しいと願った。
故に一度だけ、父も一緒に、包帯の取替えに同席して貰った事がある。

…それがいけなかった。

やはりどんなに酷い仕打ちを受けていても、母が恋しい気持ちは消えない。
愛して欲しくて、政宗はつい、母親の顔を見てしまった。
その、ぽっかりと空洞の出来た眼で。


その時、真っ直ぐに見た母親の顔を、今でもはっきりと覚えている。


美しい面が、瞬く間に般若のように歪んで行って。

ただ、母の顔がちゃんと見たかっただけなのに。
それだけの事が、罪になった瞬間だった。





あの日の事を思い出すから。
あの日に戻るような気がするから。

まだ、見る事が出来ない。












「目がねぇなんて、きもちわるいもんだしな」




見たくて見る奴なんかいない。

雨の中で、どうして政宗が急にそんな話を始めたのか。
幸村には判らなかったけれど、ただ黙って聞いていた。



幸村には、家族にそうされる辛さが判らない。
父も兄も、いつも幸村に優しかった。
稽古の時の厳しさは、強くあれと言葉にせず告げているものだ。
佐助も口煩いことはあるけど、一緒に遊んでくれるし、世話も焼いてくれる。


母親は、幸村を生んでから間もなく死んでしまった。
だから母に対する恋しさや温もりは知らない。

けれど、それを有り余るぐらいに包み込んでくれるものがある。
佐助と無茶をして父親にこっぴどく叱られても、それは心配してくれるから。
冷たい目で見られたことなど、一度もない。

いつも家にいない二人だけど、佐助が一緒にいてくれる。
家にいない分だけ、帰ってきた時は抱き上げて、優しく暖めてくれる。




でも。
そんな人達がいなかったら、と思うと。
泣きそうになるから。

政宗はきっと、それ以上に辛かったんだと思う。





「……わたし、は……」





辛くされれば、されるだけ。
相手が悪い訳ではないと判るから、尚更。
己の痛みの矛先は、自然と自分へと向けられる。

それでも、政宗だって好きであるべきものを失くした訳ではないのだ。





「…母上は、いない…けど、……まさむねのきもちは…しょう、じき…よく、わからない…」





あるべきものを失くした事もない。
辛く当たられた事もない。


母はいないけど。
父も兄も、いつも家にいないけど。
佐助以外の友達は出来ないけど。

幼い頃から、一人になった事はなかった。
こんな雨の日だって。





「わかんなくていいんだよ」
「わからない、けど」






何故だか喉が引き攣ったのが判った。












「わたしは、こわくない」












政宗の横顔を見て、言うと。
片方だけの目を大きく開かせた、政宗がいた。

いつも鋭い瞳をしているのに、今ばかりはその面影はない。
狼のようだと思っていた眼光は消えている。
出逢った時に怖いと思った光は、見えない。



そう、怖くない。



出逢った時は、少し怖そうに見えた。
口を真一文字に引き結んで、土手の上から見下ろしていた左だけの瞳。
まるで獲物を探しているような、動物のようにも思えた。

けれど数日一緒に遊んで、よく判っている。
眼光が鋭いのは、目尻が引き締まっているから。
口を真一文字に結ぶのは、少し不機嫌な時の癖。
それ以外の時は、幸村と遊んでいる時分は、無邪気で活発な子供。
幸村とは一つ二つ程度しか歳の違わない、まだ何も知らない子供。


怖い事なんて何もない。
気持ち悪くなんてない。








「わたしは、まさむねをきもちわるいなんて思わない」









自分の言葉が、どんな風に政宗の心に届くのか。
それを幸村が知る由はないけれど、とにかく何か伝えたかったのだ。


いつも強気な政宗が、ふと見せた弱さ。
それを恥じる事はないし、それを隠す事もない。
怯えて背を向ける必要もない。






「わたしは…わたしは、まさむねみたいに、なったことはないけど……
さすけも、兄上も、父上もいて……その、かぞくに…きらわれたこともないけど。
だから……だから…あの…えっと……こんなこと…わたしが言っても…うれしく、ない、とおもう、けど…」







政宗が、好きだよ。
どんな風になっても。

きっと。
ずっと。
絶対。





傘の柄を握った手が、微かに震えているのが判った。
どうして震えているのか判らない。

多分、政宗に跳ねつけられるのが怖いからだ。
知った風な口を利くなと、嫌われてしまうのが怖いからだ。
だからこの震えは、決して政宗が怖いからではない。
政宗に嫌われてしまうのが、怖いからだ。



嘘じゃない。
哀れみじゃない。

本当に、政宗が好きだ。
川で一緒に遊んで、魚を一緒に取って。
幸村の知らない話を、自慢気に話してくれる政宗が好きだ。
それに、こんな風に自分に弱みを見せてくれるのも、ひっくるめて。

“政宗”が、好きだ。




幸村、と。
小さな声で、名を呼ばれた。

どうしてか、視界がぐにゃぐにゃになってまともに見えない。
政宗の顔の輪郭だけが、かろうじて確認できるのみだ。


政宗の右手が、そっと瞳を覆う包帯に触れた。






ゴッ、と。
大きな、風が吹いた。





「わ……!!?」
「ゆきむら!?」






小さな身体は、それに煽られた。
ぐらりと体勢を崩して、政宗が慌てて幸村の手を取る。
しかし不安定な姿勢となった政宗も、幸村の体重を支える事が出来ず、そのまま倒れていく。














土手には、二本の傘だけが申し訳なさそうに落ちていた。