はくしゅん、と。
小さな声が聞こえて、佐助は振り向いた。

その先にいたのは、この奥州の寒波の中、薄着で出歩いている大きな赤子。





長く行方不明になり、つい先日ようやく再開を果たす事が出来た、己の唯一の主。
けれど中身は全くの別人――――というか、記憶喪失に精神退化という有様で、面影はあるけれど、紅蓮はもう見れない。
それでも佐助はこのそそっかしい勘のある主が放って置けなくて、奥州に残る事にした。
申し出たのは以外にも、現在この大きな赤子の保護者に当たるのだろう、奥州筆頭の独眼竜である。

長篠で武田軍と織田軍が合戦をして以来、幅を利かせているのは織田軍だったが、この伊達軍も負けていない。
確実に領土を広げており、天下統一を少しずつ形にして来ている。

だがささやかながら、独眼竜が天下統一を狙うに当たって、ささやかな障害となったのがこの赤子だった。
出身と経歴もさる事ながら、中身もてんで物事の判別能力が低い赤子である為、一人には出来ない。
筆頭が戦に出ない訳にも行かないのだが、赤子は保護者から離れるのを嫌がった。
大声で泣き喚かれたりすると、また部下の反感を買うので、奥州筆頭はしばらく戦に出なかったそうである。
だが佐助が再会を果たしてからは、伊達軍の砦に身を置く代わりに、子守を任され、赤子への不安要素も薄くなった。


幸には悪いけどな、と言って、見上げて来る赤子を見詰めた独眼は、酷く優しいものだった。





佐助は呆れて溜息を吐いて、立ち尽くしている赤子に歩み寄った。



「なんてぇカッコしてんだよ。風邪ひくぞ」
「む〜……ひくしゅっ」
「ほらほら。此処の気候は甲斐と違うんだ、そんな薄着で出るなよ」



こういう所は変わらないんだな、と。
小さく笑っていると、見上げて来る瞳がきょとんと丸くなる。

どうして笑っているのだろう、と言外に問いかけてくる瞳。
なんでもないからと頭を撫でると、赤子は嬉しそうに笑った。



「ほら、中に入れ。あいつが帰って来た時に風邪なんてひかれてちゃ、俺の命が危ねぇや」







佐助の言葉に、大きな赤子――――――真田幸村は、きょとんとして首を傾げた。















佐助が奥州筆頭の男に雇われてから、かれこれ一ヶ月。
けれど、佐助の主はただ一人である。
奥州筆頭もそれは理解しているようで、己の遠征に連れて行く事はしなかった。

元より、この大きな赤子の面倒をみる事で、互いに利害が一致した仲である。
着かず離れずの距離を保ったまま、二人の共通点は、幸村が大事だという事だけだ。
でなければ彼とウマが合う事などないだろうし、自分が奥州に身を置く理由などない。
この赤子がいなければ、自分はあの南蛮被れの男の下に仕える形になるなど、真っ平御免であった。


佐助が奥州に身を置く事になって、政宗は天下を取る為に動き出した。
幸村の事が気になって欧州から離れられなかった、天下を目指す一人の男。
配下が煩かっただろうに、それでも赤子の傍を離れられなかった男。

幸村の人を惹きつける才は、真っ白になった今でも変わらないらしい。
それを彼が自覚する事はないと言う事も。

政宗がこの地にいない間、幸村の世話は専ら佐助の役目だ。
何処へ行くにも一緒にいて――――傍にいなくても、目の届く場所にいるようにしている。
何かあったら、直ぐに傍にいけるようにと。
こういう所は、甲斐にいた頃と大して変わらないように思う。




それでも、佐助もついと傍を離れなければならない事もある。


佐助を雇う大義名分として、政宗は佐助に忍隊の長となる事を決めた。
なんの理由もなく雇うのは怪しまれるし、幸村の護衛と言うには納得しない者が多い。
甲斐は既に滅亡、行き場のなくなった腕のいい忍を奥州が拾ったという事にした。

忍隊の長として訓練もしなければならないし、周辺諸国の調査から戻った者の話も聞かなければならない。
そういう訳で、ほんの五分かそこらではあるが、幸村を一人にする時間があった。





今が丁度その時だった。






まだ名前も覚えていない――顔は一応、覚えたけれど――男の話を聞いてから。
雲行きの怪しい空を見上げながら、冷えてきたな、なんて思っていたところだった。

小さなくしゃみが聞こえてきたのは。









































幸村の手を引いて、佐助は奥州筆頭・伊達政宗の寝所へと足を進めていく。
後ろをついてくる足音は知っている物よりも随分軽い気がする。

無理もない。
以前と違って、鍛錬をしていない事もあって、幸村の体重は見て判るほどに落ちている。
もともと細身だったのが筋肉が落ちている所為で、余計に浮き彫りになっていた。
華奢であると言われても相違ないだろう。
いつも結ってある長い髪を解けば、中世的な顔立ちのお陰で、女に見えても可笑しくなかった。



「外に出る時は何か羽織って来いって行ってるでしょーが」
「……う?」
「…判る? 寒いから、何か着て来いって事」



寒波が来ていて寒いのだから、と。
幸村は首を傾げつつ、小さく頷いた。

子供体温なのか、幸村の体温は佐助よりも高かった。
熱量が高いから、寒さに対して鈍いのだろうか。





「さすけぇ」





つんつん、と幸村が佐助の服を引っ張った。
拙い名前で佐助の名を呼ぶようになったのは、最近のことだ。
名前そのものは以前から呼ぼうとしていたようだったが、まともに発音できるようになったのは、此処一週間の事。
“佐助”の“す”の音が消えてしまったり、“う”になってしまったりしていた。


うん? と言いながら振り返ってみる。
其処にはにこにこと上機嫌に笑う赤子の姿。

どうやら赤子の基本の表情は、このふわふわとした笑顔らしい。



「うー」
「おっと」



ぽすっと幸村が佐助の背中に抱きついた。
頬ずりする姿を肩越しに見下ろしながら、縮んだかな、などと在り得ない事を考える。
けれども以前の威勢の良さがないからなのか、一回り小さくなったように見える。

なんとなく、幼い日々を思い出す。
寒い日はこんな風に、暖を求めて擦り寄ってきた主。
そんな幸村に呆れながらも、佐助も一緒になって丸くなって眠った事もあった。

あの頃に触れ合った温もりと、背中に当たる温もりは、何も変わっていない。



「ほら見ろ、やっぱり寒かったんだろ?」



仕方のない主殿だ。
大きくても小さくても、やっぱり手がかかる。

こんなのだから、自分がいなければ、と思ってしまう。
これでは忍ではなく、保護者か保父のような気がするけれど。
嫌ではないから。




「うーう。むー」
「鼻が赤いぜ。さっさと中に入りましょうや」
「うにゅ……ひくしゅっ!」
「ちょっ、頼むから鼻水擦らんで下さいよ!」




背中にくっついたままでくしゃみをした幸村に、佐助は慌てる。
此処暫く天候が悪い所為で、洗濯なんてものをしていないのだ。
一張羅ではないけれど、なるべく洗濯物は増やしたくない。





「さすけぇ」
「はいはい。ほら、着いたぜ」





幸村の背中を押して、辿り着いた独眼竜の寝所に入る。




「あーくそ、やっぱ此処も寒いな…」
「うー」
「火鉢つけるからちょっと待ってな」




置いてあった火鉢に、火種を落とす。
ぽっと灯ったのを見計らったように、幸村が火鉢の横に座った。

いつも政宗と一緒に暖を取っているから、これの傍だと暖かいのだと覚えたようだ。


毎日何かしら覚えて、何か仕掛けてくる。
覚えたことを一つ一つ褒めるように頭を撫でると、嬉しそうに笑う。

己の生を一からやり直している事を、この赤子が知る由はないだろう。
知らないままで、いいと思う。
政宗が言った様に、この赤子は、戦場に立つ事はないのだから。
自分達が――――この忍が、立たせないのだから。

幸村を守るのは、己の役目だ。
昔からの。




「旦那……じゃなかった、幸、これ着ときな」




言いながら、佐助は大きめの羽織を幸村にかけてやる。
幸村の採寸とは一回り以上違うそれ。
深い藍色が誰のものであるかなど、考えなくても判る。

幸村は嬉しそうに、仔犬のようにそれに包まった。



「さすけはぁ?」
「俺はへーき。幸より頑丈だから」



これでも一応、忍なのだ。
寒さに対する訓練は出来ている。

甲斐とは違う奥州の気候には確かに少々辛いものがあるが、参ってしまう程ではない。
武田信玄に仕えていた頃から、薩摩も奥州も行き来していたから、気温の変化には慣れている。




「はいる?」
「いんや、いらね」




気遣いなのか、幸村は羽織を少し広げる。
けれど佐助はそれを断って。




「こうしてりゃ寒くねぇから」




軽い幸村の身体を少し持ち上げて、足の間に座らせた。
そのまま閉じ込めるように、腕の中に抱く。

幸村はしばしきょとんとした顔をしていたが、小さな声で笑い出した。




その笑顔を、佐助はよく知っている。






まだ幸村の兄が存命だった頃。
自分もこの主も、幼かった頃。


滅多に家に帰って来ない幸村の兄や父が、戦を追えてしばしの暇を貰った時。
幸村は諸手を上げて喜んで、二人にくっついて離れようとしなかった。

一時が終われば、また二人は戦場へと赴き、しばらく帰って来ないのだ。
最悪の場合、一生帰って来ないのである。
幼かった幸村が其処まで判っていたかは知らないけれど、
佐助がいつも――修行の時は別だけれど――一緒にいたとは言え、やはり家族の温もりは恋しいものか。
出て行く時は笑顔で手を振っていたけれど、本当は淋しかったのだと、よく知っている。


幸村の母の事は、佐助もよく覚えていない。
けれども、幸村はその事を一度も不幸だなんだと思った事はなかったと思う。

母がいなくても、父も兄もいる。
世の中には戦で家族を失い、時には命を落とす子供もいるのだ。
母のいる家庭を羨ましいとは思っても、己が不幸とは思わない。
前向きに考える幸村に、父も兄も感心していたものだった。



幸村が愛に飢える事がなかったのは、ひとえに彼らのお陰であろう。
過保護か溺愛とも言えるほどに、彼らは幸村を可愛がっていた。

幸村がくっつけば、彼らも離そうとしない。
高く掲げてあやしたり、膝の上に乗せて、書を読み聞かせてやったり。





そんな時の表情だ。

腕の中で笑う、この赤子の顔は。







愛してくれている者へ向けられる、笑顔。

まだ、失くすことを知らない、笑顔。











「さすけ」













拙い声で名を呼ばれるのも、懐かしい。



成長していく毎に先に距離を置いたのは、佐助の方だった。
いつも隣にいたけれど、少しずつ、ゆっくりと離れるようになった。

傍にいるけど、姿は見えるけど、手を伸ばせば届くけど。
決して、佐助の方から幸村に対して近付く事はしなくなって行った。
距離が零になる事はなくなった。
どんなに傍にいても、線を引いたように立っていた。


最初は嫌われてしまったと勘違いしたようだった。
いっそそうであったら、どんなに楽だっただろうか。
嫌いだから傍にいたくないと思うのなら、もどかしい気持ちにならずに済んだであろうに。
嫌いにならないで欲しいと泣いた幼い主を、触れて宥める事も出来たのに。

いつしか、幸村も佐助と距離を取るようになった。
着かず離れず、微妙な位置を保って。
その時、“主君と忍”という関係が出来上がったのだと思う。





けれど、今ぐらいはいいだろう。


全てを零からやり直している赤子に、堅苦しい戒律は必要ない。
幸村が佐助の事をどう見ているかは判らない。
多分、保護者のような感覚なのだと思う。

歪のように敷かれていた線は、赤子によって消されてしまった。
壊れたのは“主君と忍”という関係で、手に入れたのは、腕の中の温もり。




やっぱり、手放せそうにない。