「あれあれ、幸村様」
呼ばれた名前に、赤子―――――幸村は振り返る。
最近まで自分の名前は“幸”だと思っていた。
けれど、政宗と佐助以外は“幸村”と呼んで来る。
これも己の名前だと覚えたのは、ほんの数日前の事だ。
駆け寄ってきたのはよく見る顔の侍女で、名前はまだ覚えていない。
何かと世話を焼いてくれて、政宗も佐助もいない時、遊び相手もしてくれる。
この間は貝合わせを教えて貰ったし、時には書を読んでくれる事もある。
「いけませんよ、この時期にそのような格好で表に出られては」
困ったように笑いながら言う侍女であったが、幸村は首を傾げるだけだ。
毎日毎日、幸村は薄着で表に出る。
政宗や佐助がいる時は、言われてか、ちゃんと上着を着込んでくるのだけれど、今日は二人ともいない。
緋色の着流しと、目印のように自己主張する紅い鉢巻。
それだけだ。
「これをどうぞ」
「ありがとー」
侍女が自分の着ていた上着をかけてくれた。
こういう時はお礼を言うものだと、政宗に教えて貰った。
拙く紡がれた感謝の言葉に、侍女は微笑む。
人肌の温もりが残った羽織。
子供が自慢するようにくるくる回って侍女を見ると、ようお似合いで、と言われる。
それがまた嬉しくて、幸村は笑みを浮かべた。
奥州は今、寒波に見舞われている。
吹きつける風は冷たく、家屋の中でも火鉢は必須道具だ。
慣れない旅人は、此処で体調を崩してしまうことも多い。
田舎の方では冷害が起きぬようにと、様々な対策に追われている。
そんな中で、一人冷えた空気から置き去りにされたような赤子。
かつては紅蓮の炎を纏っていた、真田幸村がそうであった。
体温が人一倍高いからなのか、幸村は寒さに対して鈍感だ。
周りが気にしてやらないと、薄着のままで外に出て、夕暮れ時まで帰って来ない。
見た目は十八を迎えた若者なのだが、頭の中はまだ四歳程度の幼子と変わらない。
紅蓮の鬼は、此処には既にいなかった。
いるのは、まだ何も知らない幼い子供だけだ。
ぱたぱたと、幸村は廊下を軽い足音を立てながら走っていく。
今日も元気な赤子に、擦れ違う侍女達が笑みを浮かべる。
やはり可愛いものは強い、という事なのだろうか。
侍女達は政宗たちが危惧していたよりもずっと簡単に、赤子の存在を受け入れていた。
受け入れるどころか、あれこれ世話を焼いたり菓子をあげたり、すっかり猫可愛がりである。
長い明るい色の髪を結っているのも、もとは侍女が持っていたものだ。
緋色の着物も、ほとんどが侍女から譲ってもらったもの。
着ていて全く違和感がないのが不思議だ。
幸村はある一室に辿り着くと、そろっと戸を開けた。
「おや、幸村様」
そう言って幸村を迎え入れたのは、小十郎。
政宗の側役である。
幸村と顔を合わせたばかりの頃は眉間に皺を寄せている事が多かったのだが、
今では躊躇いもなく笑顔を向けてくれる。
警戒されると、子供も警戒するもので、幸村も中々小十郎に懐かなかった。
けれど何時空気が変わったのかは判らないが、気付けば政宗、佐助に次いで、幸村に好かれている。
小十郎のすぐ傍に膝をついて収まると、白と黒の石が置かれた四角い台があった。
「なにしてる?」
「碁です」
お相手がいないので、二人分、と。
これが中々難しくて、と笑う。
「以前は殿のお相手もよくしていたのですが」
殿。
それは、政宗の事だ。
「あそび?」
「そうですね。…幸村様には、少々難しいかも知れませんが、やってみますか?」
「んー……そとであそぼ」
言って幸村は、小十郎の着物の裾を引っ張った。
予想していた反応だったか、小十郎は小さく笑い、幸村の頭を撫でる。
くすぐったさに、幸村は笑った。
小十郎が立ち上がると、幸村も立ち上がって廊下へと出る。
「何をするんですか?」
「おにごっこ!」
幸村の言葉に、小十郎は少々驚いた顔を見せた。
これまでにも小十郎が彼の遊び相手をした事はあったが、鬼ごっこはした事がなかった。
地面に小石で絵を描くのを見ているだけだったり、蹴鞠をしたり、それぐらいだ。
政宗や佐助とだって、鬼ごっこをした事はない。
恐らく、知らなかったのだろう。
この砦内で幸村と一緒に遊びまわるような人物は、滅多にいない。
幸村が心を許している者が限られている事もある。
政宗や佐助は、あまり動き回る遊びを教えない。
二人が日頃疲れていて、幸村の体力について行けないからだろうか。
けれども、今日の遊び相手は小十郎で、とくに何かしていた訳でもない。
「まちで、みた! やりたい!」
「では、鬼を決めましょうか」
「ゆきがやる!」
主張する幸村に、ではそのように、と譲る。
「十数えてから、私を追い駆けるんですよ」
小十郎の言葉に頷いて、幸村は数を数え始める。
鬼が、鬼ごっこか、と小十郎は思ったが。
その鬼はもういないのだと言う事に、少しだけ淋しくなった。
いつだったか見た紅は、とても綺麗だったから。
はらり、と何かが空から舞い降りた。
小十郎を追い駆けていた小さな足が、ふっと止まる。
それに気付いて、数歩間を置いてから小十郎も足を止め、振り返った。
つい数秒前まで後ろをついてきた幼子が、空を見上げている。
どうしたのかと思っていると、小十郎の眼前にも同じものが舞い降りてきた。
「……ああ」
そうか。
そんな時期だ。
この幼子が奥州にやって来てから、あまりにも一日が忙しくて忘れていた。
毎朝毎晩、寒波がぶつかってくるけれど、それでもこの幼子は変わらないものだから。
街から少し離れた場所にある田畑では、冷害が起きぬようにと準備に急かされているのだろう。
「こじゅーろー」
これなあに、と。
舞い降りる白いそれを手で捕まえた幸村が、両の手を合わせたままで問う。
そんな事をしてしまっては、溶けて消えてしまうだけだというのに、幼子はそれを知らない。
後で見てから残念な顔をするのだろうなと思いつつ、小十郎は笑った。
「これは雪です」
「……ゆき?」
予想していた通り、幸村は自分を指差して首を傾げる。
違いますよ、と小十郎は笑んだままで首を横に振った。
発音は違えど、読み方は同じ。
どうしてこんな白いものに自分の名前がついているのかと思ったのだろう。
けれども、これはこの幼子とは違うものだ。
「違いますよ。雪、です」
「……ゆ、き?」
微妙に違う発音で反芻した幸村に、よく出来ました、と頭を撫でた。
合っていたのだと判ると、幸村は嬉しそうに笑った。
それから手の中に閉じ込めていた白を見ようと、手を開く。
けれど暖かい体温に包まれていたそれは、とっくに水となり、幸村の手を濡らしていた。
あれ? と首を傾げた幸村に、雪は溶けてしまうものなのだと教える。
これが直に手で触れたものでなければ、もうしばらく形を保っていられたのだろうけれど。
ただでさえ高い幸村の体温では、素手では触れた瞬間に溶けて消えてしまうだろう。
「冷えますから、中に入りましょう」
「うー」
肩を押すと、幸村はいやいやと首を横に振った。
「風邪をめされますよ。殿が心配します」
「やー」
やっぱり幸村は首を横に振って、まだ遊ぶのだと言う。
そしてふっと何かに気付いたように、幸村は顔を上げて小十郎を見た。
どうしたのかと思っていると、ぽん、と幸村の手が小十郎の肩を叩く。
「こじゅーろーのおにー!」
「あ…幸村様!」
言うが早いか、幸村は小十郎の手をするりとかわして駆け出した。
流石に放って置くなんて事は出来ず、小十郎も慌てて走る。
距離を縮めて手を伸ばすと、幸村は身を翻してそれを外す。
捕まれば城内に入って、この鬼ごっこはお仕舞いになってしまう。
最後まで遊ぶつもりの幼子に、小十郎は困り顔になっていた。
ちらちらとしていただけだった雪が、少しずつ数を増やし、大きなものになっていた。
「幸ぃいい! 何やってんだ、お前はー!」
突如響いた声に、幸村の足が止まる。
その後ろで、肩で荒い息をしている小十郎もふらふらと追う事を止めた。
声のする方へと目を向ければ、戦衣のままの政宗が正門の方向に立ち尽くしている。
その数歩後ろには、呆れた顔をしている佐助もいる。
「まさむねー!」
「じゃねぇ! 小十郎、何やってんだお前も!」
「そ…そう言われましても……」
嬉々として政宗に抱き付く幸村と、ぐったりとして主の傍へ歩んでいく小十郎。
「旦那と追いかけっこかぁ。お疲れさん」
幸村の無邪気ぶりと、その世話をする大変さを知っている佐助が労いの言葉をかける。
その横で政宗は、にこにこと上機嫌に笑いかけてくる幸村に頭を痛めている。
「雪が降ってきたってのに、またお前は…! ほら、中に入るぞ!」
「そーね、そうしてよ。俺もそろそろ厳しいわ…」
「……ね…幸村様……殿も、お帰りになった事ですし…」
ちゃっかり政宗の腕の中で暖を取っている幸村に、三人が声をかける。
幸村はうーん、と少し考えるようにして、政宗の顔を見上げる。
くしゃくしゃと手甲をつけたままの手で、政宗は幼子の頭を撫でた。
「ゆき、みたい」
「部屋からでも見れる」
「むー……」
どうやら、まだ遊び足りないらしい。
こりゃあ……と佐助が小さく呟いた直後。
するっ、と幸村は政宗の腕から抜け出して。
「まさむねとさすけも、いっしょー!」
「はぁ!? おい、幸!」
「おにごっこー!」
駆け出した幸村を追って、政宗も走り出す。
「あーあ。子供は風の子ってか……」
「…まだ走るのですか……?」
「あんたは休んでろよ。交代だ、旦那の体力は底なしだからな」
前を走る二人を追い駆けて、佐助も地を蹴った。
本気で走れば、佐助ならば容易に幸村に追い付けるだろう。
それをしない辺り、扱いを心得ていると言うか。
「こら、幸! 待てって言ってるだろ!」
「おにさんこちらーっ」
「やれやれ……伊達の旦那、気長に行こうぜー」
← ■
第一部終了。