手放せない
手放さない
傍に
いつも
求めているのは、幼い頃からずっと見ていたあの笑顔
暗がりの中でも、佐助には目の前の人物が誰なのか、よく判った。
戦場では鬼のように強いのに、それ以外はてんで天然の人。
真面目な話をしているのに、茶菓子を食って、今度はあれが食べたいと言い出す人。
いつだって主君の後を、まるで子犬のように追い駆けていた人。
真田源二郎幸村。
佐助が仕える、真田家唯一の人。
「探したよ、旦那」
起き上がった幸村に近寄って、佐助は膝を折った。
「って言っても、あんたは覚えてないらしいけど」
記憶喪失。
全ての事を、忘れていると。
ついこの間までは、言葉も話せないような赤子だったという。
最近になってようやく、ぽつぽつと拙い言葉を発するようになったらしい。
聞いて理解する事は、出来ているようだが。
「俺は、ずっと探してた」
見上げて来る瞳は、きょとんとして丸い。
緊張感に欠けるのは、今も同じなのか。
記憶喪失と言う事は、目の前にいるのは見知らぬ人で、どう考えても不法侵入を果たしている。
それなのに騒ぎもしなければ、何事かと警戒を見せる事もしない。
不意に幼い頃の彼の姿がダブって見えて、佐助は小さく笑った。
目の前の人物を、赤子はただじっと見上げてきている。
「真田家忍頭、猿飛佐助―――――……これで俺の仕事は一つ、終わったよ」
くしゃ、とふわふわとした髪を撫ぜる。
この感触も、一体どれ程ぶりだろうか。
きちんと手入れの行き届いた髪。
自分でしたとは思えないが、となると奥州筆頭の男がやったのか。
意外と所帯臭いのかなと思いつつ、佐助は久方振りの感触に浸った。
ああ、やっぱり連れて帰りたい。
傍にいたい、守りたい。
あの頃のように。
「なぁ、旦那」
慣れた言葉で呼ぶけれど、相手はきょとんとして見上げてくるだけだ。
「本当に、全部忘れちまったのか?」
判っていはいたけれど、どうしてもそれを問わずにはいられなかった。
あんなに慕っていたのに。
あんなに長く一緒にいたのに。
川を流されている時に頭を打ったのかも知れない。
それで全てが消え去ってしまったというなら、仕方のない事ではあるのだけれど、
あんなに、一つ覚えのように呼んでいた名前さえも忘れてしまったなんて信じられなかった。
目の前で見上げて来る赤子からは、紅蓮の鬼と呼ばれた面影は、既にない。
きっと闘い方も忘れてしまっているんだろう。
真っ白になってしまったのだ、この存在は。
合戦しか知らなかった男が、全てをなくして。
今どんな生活を送っているのか、佐助の知る由ではない。
奥州筆頭に悪いようにはされていないだろう事は、この部屋を見てなんとなく判った。
佐助を警戒しない所を見ると、酷い事をされた、という出来事はなかったのだろう。
「俺の事だけじゃなくて、あんた自身の事も………あんたが慕った、人の事も」
いつも追い駆けてたじゃないか。
いつもついて行ってたじゃないか。
両肩を柔らかく掴むと、一瞬震えたのが判った。
瞳に怯えはなかったけれど、困惑しているのがはっきりと伝わってくる。
思い出して欲しい。
あの人の事だけでも。
死ぬ間際まで、戦しか知らぬ男の事を気にかけていた。
自分を見詰めるばかりで、狭い世界で育った子供のような存在を。
定める先がいなくなった後の、迷い子になってしまうだろう少年の事を。
「武田信玄の事まで、本当に綺麗さっぱり、忘れちまったのか?」
びくん、と。
はっきりと、肩が揺れた。
ああ、やっぱりあんたの中には根付いているんだな。
忘れたといっても、それは思い出せないだけである事だって多いのだ。
記憶は薄れて見えなくなっても、なくなる事はない。
霞がかかって形が判らないだけで、綺麗さっぱり、なくなってしまう事はないのだ。
このまま話を続けていれば、もしかしたら思い出すかも知れない。
色々と厄介が起きると判っていても、佐助は思い出して欲しかった。
自分の事もそうだけれど……慕った総大将の事を。
「覚えてるんだろ? 思い出せないだけで。
あんたが慕った人は、そう簡単に消えていいもんじゃない筈だ。
今のあんたがどれだけのモンを知って、抱えているか、俺は判らない。
真っ白になっちまったって事は、其処から人生やり直したって本当は構わないんだ。
あんたは戦しか知らなかったから……今度は全然違う道を歩いたっていい筈だ。
だけど頼むから、思い出して欲しいんだ」
あんたの為に死んでいった奴が、いるって事を。
戦の中で、武将を庇って死んだ者は少なくない。
まだ若い彼を死なせまいとした者も。
そんな人達がいた事ぐらいは、思い出して欲しいのだ。
けれど。
「ふっ…え………」
じわ、と目尻に浮かぶ涙。
駄目なのか。
覚えていても、思い出せないのか。
困惑した様子で、目の前の大きな赤子は首を横に振った。
まるで駄々を捏ねるようにして、佐助の手を振り払う。
振り払われた手が、じんと痛くなった。
確かこんな痛みを、前にも感じた事があった。
「旦那……―――――――」
泣くところじゃないだろう、と思った。
一番泣きたいだろう時でさえ、意地でも涙を見せなかったくせに。
最後の最後まで涙の片鱗も見せずに、押し殺していたくせに。
真っ白になってしまうと、こうも簡単に涙腺は緩むものなんだろうか。
こんな些細な事で―――本人がどう思っているかは判らないけれど―――泣いてしまうものなんだろうか。
もっと早くにこうであれば良かったのに、どうして今なんだろう。
声を上げて、泣いて泣いて、喉が引き攣る位に泣いてもいい瞬間があった筈なのに。
押し殺したまま、その感情も一緒に、真っ白に塗り潰してしまったのだろうか。
無理やり連れ出せたらいいのに。
思ったけれど、佐助は手を伸ばす事が出来なかった。
いつも前を向いて、笑っていた主は、目の前にはいない。
全てを真っ白にしてしまった赤子は、泣きじゃくっているだけだ。
その腕を強引に取って引っ張るという行為は、何故か躊躇われた。
ギリ、と佐助は下唇を噛んだ。
「ふっ……うぁああぁああああん!」
その泣き声が、響いたほぼ直後に。
「ガキを泣かせるなんてな、クールじゃないねぇ」
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