ただもう一度、あの笑顔が見れたら。
もう一度、あの笑顔が向けられる事があったなら。
俺はもう一度、あんたの傍で生きてくよ。
「あんた、幸ちゃんの知り合いかい?」
少年が見えなくなってからも呆然と立ち尽くしていた佐助に、声がかけられた。
一瞬驚いて振り返れば、餡蜜屋の夫婦が柔和な表情をして立っている。
「……幸ちゃん?」
聞き慣れない呼び名に、佐助は眉を顰めた。
そう言った類の呼び方は、彼は嫌っていた筈だ。
まるで女のような呼び方だとか、子供扱いされているようだと言って。
けれどあの少年の顔は、確かに佐助のよく知る顔だったというのに、呼ばれても笑顔でいた。
あれはやはり他人の空似で、彼ではないのだろうか。
俄かに浮かび上がった喜びが、下降を始めているのが判った。
佐助のそんな様子には、夫婦は全く気付いていない。
「そう、幸ちゃん。いつも贔屓にして貰ってるのよ」
「甘いもんが好きでなぁ。お使いの帰りにゃよく来るんだよ」
なんだ、その行動。
彼と同じではないか。
主君への報告を終えた後、その足でいつも団子屋に通っていた、彼と。
「いつもふわふわしてるんだけど、いい子だよねぇ」
「あんたは見掛けない顔だなぁ」
「あ、ああ……長旅の途中だよ」
「旅? 何処から来たんだい?」
中年の女人が詮索好きなのは、どうやら何処も一緒らしい。
これではぐらかすと話がややこしくなり兼ねないので、甲斐、と端的に応えた。
すると夫婦はおや、と漏らす。
「甲斐って言やぁ、武田軍のいた所だね」
「ちょいと前から、織田に食い潰されていってるけどな」
「残念だねぇ。今大変な時期だろ? いいのかい、離れて」
さっきの団子屋と同じ会話だ。
縁者はもういないから、と言えば、大抵の人はこれで話を切り上げてくれる。
案の定、この餡蜜屋の夫婦も、ごめんね、と一言だけ謝って話を終えた。
縁者が武田にいないのは、嘘ではない。
忍の部下も、織田と合戦をした時に半数が命を落とし、また半数は闘えない躯になった。
真田家の筆頭主であった彼も行方を眩ましてしまい、以来、忍家も真田・武田と共に衰退を辿っている。
もともと血の繋がりのある者はとっくの昔にいなくなっていたから、
甲斐を離れる事に対しての抵抗は、全くなかったと言ってもいい。
唯一の気掛かりがあったとしたら、真田家の家だった。
彼の生家は、幼い頃になくなってしまったけれど、信玄の用意してくれた屋敷があった。
無人となれば、遠からぬ日に消えてなくなってしまうだろう事は予想がついた。
彼を見つけて連れ戻ったとしても、帰る居場所がなかったらどうすれば良いかと思った。
けれど、場所はなくても、人は生きていける。
少しだけ惜しくはあったけれど、佐助は真田家がなくなっても仕方がないと思う事にした。
もっと良い場所を見つければいい、見つけているのなら其処にいればいいとして。
甲斐に置いて来たものは、ない。
最後の命令も、まだ佐助の中にあるから。
「それより、ちょっといいか?」
話を切り上げてくれた事を皮切りに、佐助は口を開いた。
「さっきの……幸って言うのか?」
「ああ、幸ちゃんね。本人がそう言ったから」
「……本名は?」
「知らないねぇ。あんまり喋らない子だから」
「喋らない?」
それは、きっと彼にはない事だ。
煩いという程喋る訳でもなかったが、聞かれた事には素直に応える性格だ。
名前だって、大体本名で名乗っていたと思う。
やっぱり他人の空似か。
「喋らないというか、喋れないというか」
「……そりゃ、どういう事だい?」
「いやぁ、わしらもよくは知らんがな」
どうも、頭の中は赤子並みらしい、と。
大して声を潜めもしないから、周知の事実なのだろうか。
「………なんだって?」
意味が判らずに、ひっくり返った声が出た。
「まともな言葉が喋れるようになったもの、最近だって聞いたしね」
「……赤子並み? しかもよく知らないって…あいつはこの辺のじゃないのか?」
「ああ、生まれもこっちじゃないよ。記憶なくしちまってるらしいから、本人も何処だか判らないようだけど」
ちょっと待て、ちょっと待て、と。
佐助は会話を続けながら、混乱していく頭を必死に落ち着かせようとしていた。
それではまるで、期待を持てと言われているようではないか。
名前を呼んでも反応しなかったのは、記憶をなくしているからなのか。
知っている以上にふわふわして、ぼんやりしていたのは、頭の中が赤子並みだからなのか。
生まれも奥州でないと言うなら、ひょっとしたら、まさか―――――……
「ひょっとしたら、あんたが来た甲斐だったりしてねぇ」
「知り合いみたいに呼んでたもんな」
けらけらと笑いながら、冗談交じりに言った言葉だったのだろう。
しかしそれは、佐助の心にしっかりと根を貼り付けた。
思ったら、あとの行動は早い。
「あいつは、いつも何処から来てるんだ?」
月が高く上った、夜。
奥州筆頭の砦の前で、佐助はどうしたものかと腕を組んで立ち尽くしていた。
勿論、門の目の前だなんて命知らずで怪しい事はしていない。
門を見下ろせる高い木の枝に乗って、佐助は思案を巡らせていた。
餡蜜屋の夫婦から名前を聞いた時、思わず大声を上げそうになった。
やばかったと思いつつ、佐助は冷えた目で門を見つめる。
記憶喪失だと聞いた。
だからって、普通は有り得ない話だ。
音に聞こえた武田の武将を、奥州筆頭が連れ帰って養っているなんて。
やっぱり他人の空似か、それとも武士の情けとでも言うのだろうか。
奥州筆頭の男が変わり者だというのは知っているけれど、此処までぶっ飛んだ行動をする奴だったか。
いや思い返してみれば、自分の本陣を放って置いて、敵陣に突っ込むような事をする者ではあったのだが。
幾らなんでも、一度対峙した敵の武将を連れ帰って、平穏無事でいられるとは思えない。
筆頭の男がなんと言っても、納得の行かない部下もいるだろう。
と言うか、納得の行く部下の方が滅多にいないのであろうが。
頭目が何を言っても聞かない輩は、ついと目を離した隙に何を仕出かすか判ったものじゃない。
武将がどんな状態であるにせよ、だ。
とにかく、もう一回顔を見たら、はっきりすると思うのだ。
擦れ違い様に見ただけだったから、見間違いという可能性もある。
如何な他人の空似であっても、双子がいるなんて話は聞いた事がないから、きっと見れば判るはずだ。
空には、三日月。
新月が好ましかったのだが、この際だ、顔を確認する明かりと思えばいい。
満月では明る過ぎるから、これぐらいで丁度良い。
甲斐を離れてから、装束に身を包んだのは初めてだったと思う。
忍として仕事をする事もなくなり、情報収集は街でするのが一番いい。
以前の甲斐では装束のままで街を出歩いたりも出来たけれど、今はそういう訳にも行かなかった。
装束は忍具と一緒に、旅路の道具の奥底に眠らせていて。
今日は久しぶりに、夜の帳の中に下りた。
「何処にいるか……拘束されてる訳じゃなさそうだしな…」
普通なら牢を探せば良いものだろうが、今回は勝手が違う。
お使いに出る度に餡蜜屋に寄っている、と言っていた。
三日に一度の頻度で、あの少年は街を駆け回っているらしい。
そして夕餉時になると、どんなに明るい日でも、真っ直ぐにこの砦に帰るのだという。
外を出歩けるのなら、この砦内でもそれなりに自由なのかも知れない。
だから余計に、何処を探せばいいのか見当もつかなかった。
これで外れ、とか言うのも痛いな。
そんな事を考えながら、佐助は枝を蹴って軽々と門を乗り越えた。
「やれやれ、幾つになっても手のかかる人だ」
彼の傍にいる時、よく思っていたことを、改めて思い出した。
無邪気なものだから、その幼さで周囲をよく戸惑わせたものである。
幼い頃は木に登って降りられなくなった猫を助けようとして、自分も降りられなくなったりした。
幼稚な失敗を繰り返しては、傍にいる大人や佐助を困らせた。
その度に手間をかけて彼を手助けしてやるのは、いつしか佐助の役目となっていた。
時折面倒な人だとは思ったけれど、嫌だと思えないのも確かだったのである。
そうして思うのが、手のかかる人だ、という一言だった。
見張りに気付かれないように。
明かりに照らされないように。
戦から退いて久しいが、やはり染み付いたものは抜けないらしい。
足音や気配を殺して進むのも、僅かな人の動きを全て目で追うのも、最早癖か。
時として、それは街中で平穏な時間の中でも行ってしまうのである。
「お……?」
明かりのついた離れが目に付いた。
ものものしい警戒をしている所を見ると、其処に奥州筆頭がいるようだ。
どうやら今は会議の真っ最中らしい。
少々話を伺いたい気持ちもあったが、今は探し人が先だ。
「じゃあ、天辺から行ってみるとするかね」
奥州筆頭が面倒を見ていると言っていたから、意外とその寝所にいたりするかも知れない。
そうでなくとも、彼の目の届く範囲にいるだろうと思うのだ。
でなければ、何処で誰に何をされるか、判ったものではないから。
屋根を辿って、佐助は天辺を目指す。
上の方の明かりは、すでに消されている。
誰もいないか、就寝したかのどちらかだ。
暗がりでも月明かりさえあれば、夜目になれた佐助には大した障害にはならなかった。
視覚以外に聴覚も鍛えてあるから、人の話し声がすれば直ぐに気配を殺す事が出来た。
何処かで忍が張っているかと思ったが、肩透かしのようにすんなり寝所へと着いた。
腑に落ちないような気がしながらも、罠なら罠で、その時の事だ。
そっと格子窓から部屋の中を覗き込む。
明かりの消えた室内は、暗く閉ざされていた。
そんな中に、こんもりとした塊が一つある。
此処は奥州筆頭の寝所の筈だから、その主以外が此処に無断で入り込むとは思えない。
(入れるか……?)
格子窓から離れて場所を変えると、障子窓があった。
つっかえ棒でもしていなければいいが、と思いながらひいてみると、あっさりと開かれる。
なんだか舐められているような気がして、佐助は眉根を寄せた。
寝所内を見回してみるものの、人のいる気配はない――――塊を除けば。
その塊もどうやら眠っている人間らしく、ぴくりとも動く様子はない。
「……真田の旦那」
呼んでも、返事はない。
だが、塊がぴくりと動いたのは見逃さなかった。
「う………?」
細い月明かりが、その塊を照らす。
浮かび上がったその姿は、昼間に見たものと同じ。
明るい色の長い髪と、細身の小柄な躯と、幼さを残した顔立ち。
佐助の記憶にあるままの。
「ん……あ……?」
ぼんやりとした瞳が、こちらへ向けられた。
ゆっくりと距離を詰めて、真っ直ぐに顔を見詰める。
ずっと探していた人。
やっと、見つけた。
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