判ってはいた


判ってはいたけれど




多分、こうでもしないと















守れないと思ったんだ






























幸村の右腕は、未だに完治に至らない。
しかし、感覚は戻ってきたらしかった。
動かそうとしたり、物に触れようとしたり、いい傾向だろう。


利き手が治ってきたと言う事で、訓練も兼ねて食事を自分でさせるようにした。
最初は何度も零していたが、徐々に吸い物もきちんと掬えるようになった。

だが幸村は、どうやら政宗に食べさせて貰うのが楽しみだったらしい。
自分で食べるように促した時、抗議の泣き声を上げたのは驚いた。



鞠で遊んだ時に頭をぶつけて以来、幸村は派手に泣く事が増えた。
つんざくような声でわんわんと泣くものだから、それは鼓膜に応えた。
それから夜泣きもするようになって、政宗が触れていないとすぐに涙腺が緩む。
目覚めてから泣く事をしなかったから、うっかり忘れそうになっていた。
赤子というものは、泣いて己の状態を訴えるのだと言う事を。

嫌だと泣いて、痛いと泣いて、そうやって意志を主張する。
今までにこにこ笑ってばかりいたのは何故なのかと、少し疑問に思う程になった。


泣いて、笑ってを繰り返している毎日だ。

ずっと同じ部屋にいるのだから目新しいものなどいい加減に尽きただろうに、幸村は何事か見つけて報告する。
それはどれも些細な物で、畳の端が切れていたり、壁の染みだとか、そんな事を逐一政宗に伝えるのだ。
最初はそれをどう扱って良いか判らない正宗だったが、単に褒めて欲しいのだと判ってからは、
小さく笑って頭を撫でて、よく見つけたな、と言うようになった。
そうすると、満足そうににっこり笑って、政宗に抱きつくのだ。

反対に泣く時は、自分の不満を訴える時が多かった。
政宗が構ってやらなかったり、幸村を置いて一人で部屋を出たり――――……
今までにも何度かあった事だろうに、途端に泣き出すようになった。




そんな風に、幸村は平穏な生活を送っている。




幸村がいるものだから、政宗は奥州を中々離れられなかった。
暢気に構えている暇はないのだと判っていても、幸村から目が離せない。

合戦の会議やらを終えた後は、いつも真っ直ぐに部屋に帰るようにしている。
あまり長い時間を一人にしていると、帰った途端に大声で泣かれて、更に疲労が溜まる結果になるのである。
それぐらいなら、すぐに帰ってあやしてやった方が、苦労も経るというものだった。


合戦場に行けない事実が、退屈でないと言えば、嘘になる。
何処の誰が言ったか覚えていないが、自分は戦馬鹿だと聞いた、どうやら本当らしい。
けれど、あの生と死の狭間から遠い場所にあるこのなだらかな時間も、政宗は切り捨てられなかった。






目の前で笑いかける存在が、既に捨てられなくなっている。

それがいい事なのか否なのか、政宗には判らない。












思うところがあって、政宗は幸村を部屋から連れ出した。
幸村はいつも通りの格好だったが、政宗は合戦に出る時の甲冑を着込んでいる。

はじめて見るだろう外の世界に、幸村は落ち着かない様子である。
怯える様子はないのだが、そわそわとして、政宗に引っ付いて離れない。



いつまでも部屋の中に閉じ込めておく訳にもいかないだろう。
庇護下に置くには最も安全な場所だったのだが、そろそろ外の者達が限界のようだった。
会議の度に、配下の武将達は幸村の事を口に出している。
中には無条件で政宗の庇護下にある事を不満に思った、少々事のずれた発言もあったが、
武田の武将をいつまでも放って置く訳にはいかないと思っての言葉もあった。

どうあるにせよ、なんらかの形で納得させなければならない。

しかし、記憶も精神も赤子となってしまった幸村の何を見せれば良いと言うのか。
疑り深い連中は、今の幸村を見せても、かどわかしているのだとか思うのだろう。





一番手っ取り早くて判り易い方法。

それは。













「幸、こっちだ」



何か気がかりな物でもあったか、政宗とは違う方向を見ている幸村に、そう言った。
幸村はすぐに政宗の後ろをついて歩いてくる。



砦の外に出てから、俄かに陣内が騒々しくなった。

無理もないだろう。
捕縛も何もなく、音に聞こえた武田の武将が、政宗の後ろをついて歩いているのだ。
時折幸村の手が政宗の衣服を引っ張ったりするものだから、余計に目に付いてしまう。
しかし幸村の方は、自分がそんなに目立っているなどと全く気付いていない。



「誰か、槍持って来い」
「何を!?」



成り行きを見詰めていた兵士達に指示すると、裏返った声がした。



「いいから持って来い。二本だ」
「どのようなものを」
「どれでもいい。鈍ら以外ならな」



二本の槍。

一刀流と六爪流を扱う政宗が使用するとは思えない。
そうすると、自然と視線が行き着くのは、すぐ後ろにきょとんとした顔で立っている赤子となった。



「幸、来い」
「う?」



政宗が呼べば、幸村は首を傾げたが、言われた通りすぐ隣に立った。

配下の一人が二本の槍を持って来る。
それを奪うように取って、幸村につきつけた。





「取れ」





鷹揚のない言葉に、幸村はきょとん、と目を丸くする。






「いいか、幸。
俺は別に、お前の事が気に入らない訳じゃない。
気に入らない奴を拾って、傍に置いて、面倒見てやるほど、俺は世話好きじゃない。
だから今からする事は、お前が気に入らないからやるんじゃない」






絶対的な声音を持って告げられる言葉に、周囲はしんと静まり返る。
剣呑な色を宿した独眼に見詰められた幸村は、一体何を思うか、政宗には判らない。



槍を受け取ろうとしない――事態を判っていない――幸村に焦れて、政宗は幸村の手を取った。
右手と左手に一本ずつ持たせて、落とすな、とだけ告げる。

政宗の言葉を理解できたかどうか、恐らくそれは否だろう。
まだ単純な言葉の切れ端程度しか、幸村は覚えていない。
駄目、良い、痛い、そんな断片的な単語に頷いたりという反応しか見せない。

だが、それでもやらなければならなかった。
手放せなくなっている事実が、あるからこそ。




「泣くなよ、幸」




嫌いじゃないから、と。
囁いて、政宗は幸村を突き飛ばした。






そして奔った、蒼の光。




























「……あ?」








どうやら、状況把握が出来ていないらしい。

しかし政宗の放った剣撃は、しっかりと幸村の持った槍で受け止められていた。




「やっぱり身体の方は覚えてるのか」
「……ぅ、あ?」
「悪いが、少しの間付き合ってもらうぜ」




まん丸になった瞳が、すぐ目の前にある。
どんなに口で説明しても、幸村は理解できないままだろう。

だから説明も何もかも省いて、政宗は力で幸村を押し、蹴り飛ばした。
受身も取れずに、幸村は地面を転がる。
起き上がる事もせずに、幸村は地べたに蹲って咳き込んだ。



「政宗様、何を!?」




声を上げたのは、医者だった。




「近寄るな」
「しかし!」
「いいから黙って見てろ。悪いようにはしない」



刃を交えて置きながら、何を言っているのかと。
抗議の声が上がったが、政宗は聞かなかった。


ゆっくりとした足取りで、幸村と距離を詰める。
状況の飲み込めない幸村が、咳き込みながら政宗を見上げてきた。
呼吸を奪われた息苦しさか、それとも痛みか、別の何かか。
理由はよく判らなかったが、幸村の目尻には、確かな雫が浮かんでいる。

目の前に立ち尽くした政宗に、幸村は訳が判らないと言う顔をした。
身体は覚えていても、頭の中は真っ白な赤子同然なのだ。
今まで優しかった人の急変に、ついて来れないのだろう。



「幸、立て」




この言葉は、歩行訓練の時によく言っていたから、理解できている筈だ。


幸村は困惑の顔をしながら、ふらふらと立ち上がった。

両手の槍を手放さないのは、戦場で培った感覚がまだ生きているからだ。
でなければ、先程の蹴りを食らった時に手放しているだろう。



皮肉なものだ、と思った。

真っ白に戻った筈なのに、染み込んでしまっている戦場の掟。
獲物を手放せば、自分が食らわれるのだという誰もが知っているルール。
赤子になってしまっても、幸村は“真田幸村”だった。

どうしてそれさえも、真っ白に洗い流してくれなかったのだろうか。
名前も主も抱えていたものも全て、言葉さえも消し去ったのに、戦場の掟だけは残っている。
色んな色に塗った紙の上を、濃い白い絵の具で塗り潰してしまった癖に。


忘れてはいけない事だと、本能が悟ったのかも知れない。

こんな乱世だ。
忘れてしまえば、あっと言う間に己が消えてなくなる事になる。




それでも、思わずにはいられない。

全て真っ白になって、流されて、透明になれば、争いの事など忘れてしまえただろうに。
そうしたらきっと、守られていい存在になれただろうに。








「っうぁ!?」






繰り出された斬撃を、幸村の二槍が受け止めた。

ぎりぎり、と力の拮抗が音を鳴らす。
幸村の表情は、戸惑いの色のままだった。




「……っく……!」
「ぅ…ぅ……」




押し返す事も弾く事も出来ず、幸村はその場に踏ん張っている。

目尻に涙が浮かんだままだった。
それを拭ってやる事が出来たらいいのに、今この瞬間は許されない。


ギィ、と金属が擦れる音がした直後、幸村の方が弾かれた。
たたらを踏んだ幸村は、そのまま尻餅をついてしまう。
しかし頭上から大上段で振り下ろされた刀を、幸村は左手に持った槍で受け止める。




「…ふぇ………」
「泣くな」




じわり、と目尻に浮かび上がった涙。
それを一言で切り捨てて、政宗は刀を支えていた槍を蹴り上げて飛ばす。

幸村の手を離れた槍は円を描いて、離れた場所に突き刺さる。







「泣いたって、誰も助けちゃくれねぇんだ」



戦場とは、そういうものだ。
お前も知っている筈だ。

まだ、覚えているのなら。








忘れているなら、いっそ全部消えてしまえばいい。
そうでないなら、思い出してくれればいい。

中途半端な劣情も、知ってしまった温もりも、今なら未だ、引き剥がしてでも捨て去れる。
捨てきれないものだとは思っているけれど、まだ全て抱き込んでしまっている訳ではない。
此処で幸村が“幸”ではなく、“真田幸村”を取り戻してくれれば、
狂い掛けた歯車は、元の軌道に戻ってくれると思うのだ。





「お前が生きてきたのは……俺とお前が歩いてきたのは、そういう道だ――――――“真田幸村”」








やらなければ、やられる世界。
命の遣り取りが、毎日何処かで繰り返される世界。
躊躇すれば、あっという間に終わりを宣告される世界。

乱世の中で、生き抜いてきたからこそ知っている。
中途半端に牙を持ったものの辿る末路の、恐ろしさを。



政宗は二刀を鞘に収めると、六本の太刀を構えた。
いつもなら、その瞬間に聞こえる歓声が、今はない。
静まり返った空間で、ただ一人、幸村だけが泣きそうな顔をしている。

六爪流から繰り出される斬撃は、普通に構えていたのでは防御できない。




行くぜ、と小さく呟いた後で。











「MAGNAM STEP!!」










ドン、と踏み込まれた右足が、勢いを殺さぬままで地を蹴った。
稲妻を纏った突きが、直線上にいる幸村に向かって行く。

突き立てる気はなかった。
それでも、ギリギリまで政宗は失速する事はしない。



極限状態に追い込めば、何かが変わるかも知れない。
記憶を取り戻す可能性もあった。

常に生と死の狭間で生きてきたから、極限状態がどれほどの現象を引き起こすのか判っていた。
秘めていた力を爆発的に起こした者もいたし、パニックに見舞われて自我を見失う者もいた。
幸村はどちらかと言えば、前者に属するのだろう。
だからではないが、何かが起こるかも知れないと思った。


記憶が戻らなければ、“真田幸村”はもうこの世にいない。
記憶が戻れば、“幸”はこの世から消える。

どちらを自分が望んでいるのか、政宗には判らなかった。
あの綺麗な炎を二度と見る事が出来ないのは残念だと思ったし、
あのゆっくりとした穏やかな時間がなくなるのも、少しだけれど残念だと思った。
どちらに転んでも、きっと政宗の心にはぽっかりとした穴が開くだろう。

独眼竜が、随分丸くなったな…―――――そんな事を、考えた。





直後。























ごう、と炎が舞い上がった。








綺麗に舞う、紅蓮の炎が。