奥州筆頭。


独眼竜。




呼ばれて久しい、その字(あざな)。





















そんな男が、一人のややに振り回されると、一体誰が思っただろう。
























「幸! 刀に触るんじゃねえ!!」





ちょっと目を離した隙に、大きな赤子は片付けていた刀を取り出していた。
抜いてはいないものの、凶器は危険物である事に変わりは無い。
事の重大さを判っていないから、政宗は尚更慌てた。

叱られた大きな赤子――――幸村はと言えば、きょとんとした顔でこちらを見ている。
手足の傷が治り、歩けるようになって以来、この赤子は本当に政宗をよく振り回す。
目に付くものはなんでも触ろうとするし、格子の無い障子窓に乗り上げた時は驚いた。
あわや落ちかけた所で、どうにか政宗が引っ張り上げる事が出来、大事無く済んだのだが。
その時にかなり叱り付けたと思うのだが、最早昨日の事は過去の事と、幸村は反省の色を見せない。

大声で泣き喚いて反論する事もしない。
叱り付けている時でさえ、構って貰えると思っているのか、にこにこ笑っている事もある。






幸村の傷は、右腕だけを残して、殆ど癒えた。

弾痕も裂傷も、微かな跡を残している程度で、もう判らない。
旧い傷はどうしても目に付くが、幸村はすっかり元気になった。
右腕の火傷の治療も良好との事である。



立たせるのに時間がかかると、歩かせるのもかなり大変だった。
支えられながら歩くのはすぐに出来る様になったのだが、手を離すと座り込んでしまっていた。

次第に政宗が手を離そうとすると、幸村の方からしがみつくようになった。
どうやら、歩行訓練も構って貰える事柄の一つと認識していたようで、
歩けるようになったら終わりだという事を知って、ささやかな抵抗を試みていたらしい。
政宗に構って貰えるなら、政宗が傍にいてくれるというのなら、何にも厭わない。
歩行訓練をしている間に、政宗はそんな一面を垣間見た気がした。

だが歩けるようになっても放って置いたりはしない、と言うと、
意味が判ったのかどうかは知らないが、以来駄々を捏ねるような事はなくなった。


歩けるようになってからは、また大変だった。
部屋から出ようとはしないものの、部屋内で色々なものを見つけては、触る。

それは活けた花であったり、飛び出た釘であったり、政宗の私物の書であったり様々だ。
安全なものと危険なものの基準が判っていないから、とにかくなんでも手を伸ばす。
政宗の兜もそうだったし、刀にも触りたがっていた。
動けなかった時にはさして興味を示さなかったのに、歩けるようになった途端にこれだ。
子育てとは大変なものなんだなと、疲れた頭で少々ずれた事を考えたりもした。




それでも。
幸、と呼んだ時、それが名前だと覚えたのだろうか。

笑う顔を見ると、どうにも口元が緩んでしまう自分がいた。













「ほら、これは駄目だ」
「う?」
「危ないから触るな」



幸村の持っていた刀を取り上げて、政宗は顔を近づけて注意する。



「めー?」



駄目、と言う言葉を幼稚な形で覚えてらしい。
頷くと、少し唇を尖らせたが、小さく頷いた。
どうやら、判ってくれたらしい。




基本的に、幸村は聞き分けが良かった。

精神的には赤子だが、脳の発達は十八歳のままなのだろう。
著しく低下していた言語理解力は、かなりの速さで発達していた。
まだ喋る事は出来ないが、政宗の言う事をちゃんと聞くようになった。





「そういや、危険物は手の届かない所に……ってのを聞いたが……」
「う?」
「………無理だよなぁ」



聞いた話を思い出しながら、政宗は幸村を見た。

隣に立つと、その身長差がよく判る。
お互いに見上げ見下ろさないと、表情が見えない。
幸村の身長は平均的だと思っていたが、やはり小さい方に属するのだろうか。


だが、赤子の本来の大きさとはどう転んでも幅が大きい。
かなり高い場所に置かないと、幸村の手はあっさりと物に届いてしまう。

政宗が腕を上に伸ばせば、幸村は届かないのだが、いつまでもそうしている訳にも行くまい。



「……目に付くところになきゃいいのか? でもこいつ、結構色んなところ勝手に開けるしな……」



やはり、自分が見ているのが一番安全だという事か。
それはそれで、構わない。
自分が傍にいられるのなら。

しかし、自分は奥州筆頭で、天下統一を目下狙っている。
そこそこ名は知れ渡っているし、お陰で合戦を仕掛けて来る者もいる。
逆も叱り、こちらから仕掛ける時だってある。
戦が始まった時、自分は先頭に立って指揮を取らねばならない訳で、そうすると幸村の傍にはいられなくなる。
この大きな、厄介な赤子を安心して預けられる人物は、毎日のように顔を突き合わしている初老の医者しかいない。
だが老体で赤子の相手を出来るような身ではなし、合戦場に行かずともこの砦内は訓練やらなんやらで生傷が絶えない。
暇もなければ体力もなかろう老人に、そんな無体な事は出来なかった。



「こら、触るなって言ってるだろ」
「あーぅ」



政宗の手にあった刀に、幸村が腕を伸ばした。
それを届かない高さに掲げると、幸村も一緒になって手を伸ばす。
身長差のお陰で、幸村は背伸びしても、爪先立ちしても、刀まで届く事はなかった。



「いいか、幸。これはお前の触って良いもんじゃねぇんだ」
「……めー?」
「そうだ。危ないからな」
「…うー」



ひょっとして、遊び道具が欲しいのだろうか。
赤子が何を持ってして遊ぶのかなんて知らない。
けれど、幸村が暇を潰すようなものが部屋にないのも事実だった。

ゆっくりと言い聞かせてやれば、幸村は小さく頷いたけれど、唇を少し尖らせていた。
これは拗ねている時の顔なんだと、判った。


赤子が遊びに使って、安全そうなもの。
伴天連から仕入れた変てこなものが幾つかあったが、あれはどうだろう。
先端が尖っていたから、やっぱり危ないだろうか。

取り合えず、危ないものはなるべく部屋から出しておくとしよう。
刀はそういう訳にも行かないが、壷だとか、書を書く時の硯だとか。
落としたり割ったりしたら、踏んで怪我をするかも知れない。




………すっかり親の気分だな。





拗ねた顔をしながらも、政宗から離れようとしない幸村を見て、ぼんやりと思う。


何があったら危ないのか、何があったら安全なのか。
朝飯は何を食べさせればいいのか、魚の小骨は取らないと食べたがらないとか。
外に出たがったりはしないけれど、未だに窓枠から身を乗り出したりするとか。

気付けばいつも、この大きな赤子の事を気にかけている。
そんなつもりで連れ帰ったのではない筈なのに、自分でも驚くほど、この生活に馴染んでいる。


部屋を出る時、いつの間に覚えたのやら、手を振って“いってらっしゃい”をするようになった。
帰って来ると抱きついて、にこにこ笑って見上げて、子犬のように擦り寄ってくる。
右手を差し出すと、左手を合わせて大きさを比べるのも、よくやっている。
昨日はいきなり、足の裏を合わせてきた。
何事かと思ったが、それもやっぱり大きさを比べる為の行動だった。

毎日何かしらを覚えて、何事か仕掛けてくる。

ふと思い返してみれば、今日は何をして来るのかと、少し楽しみにしている自分がいた。
手もかかるけれど、にこにこ笑っているのを見ると、怒る気も失せてしまうのだ。
医者からは甘やかすと後が大変だと言われたが、そもそも、叱ってもそれらしい反応が無いのだ。
怒鳴るのも割りと疲れる事と知って以来、無用な労力は極力使わないようにしている。



そんな風に、大変だ、と思うのと。
悪くない、と思うのと。

子育てとは、そんなものなのだろうかと思った。




「……随分でかいややだけどな」




思った言葉が、そのまま口をついて出た。
それを聞いた幸村は、う? と呟いて首を傾げた。

なんでもねぇよ、と囁いて明るい色の髪をくしゃくしゃと撫ぜる。



「玩具が欲しいなら、明日持ってきてやるよ。お前が気に入るか判らねぇけど」
「うーぅ? うゅ〜」



頭を撫でながら顔を近づけて、出来るだけ落ち着いた声音で言った。
すると幸村は、しばしきょとんとしていたものの、にっこりと笑う。

さて、何を渡せばいいのやら、と政宗は思案に耽るのだった。














































手渡された丸い鞠を、幸村はじっと見つめている。
制圧して配下となった公家から手渡されたものだったが、華美な柄をしている。
その華美な柄が気に入ったのか、はたまた逆なのか、幸村は遊ぶ様子も無く、じっと見つめているだけだった。

一人でこんな代物でどうやって遊ぶのか、政宗には想像もつかない。
だが何もないよりは良いだろうと思ったのだ。

気に入ったか、と問いたかったが、幸村の視線はじっと鞠に向けられたままだ。
怪訝な顔をするでもない、嬉しそうな顔をするでもない、いつものようにふわふわと笑う事もしない。
なんとも微妙な反応をする幸村に、政宗は少々居心地の悪さを感じた。


転がして遊ぶかと思えば、やっぱり見ているばかりである。
ぺたんと座り込んで両足を伸ばした姿勢で、幸村は床の上に置いた鞠を見て、くるくる廻し始める。
それは遊び始めたのではなく、鞠の柄の全面を確認しているようだった。




「……幸?」



名を呼ぶと、すぐにこちらを向いた。



「派手なのは気に入らねぇか?」
「……う?」



政宗の質問に、幸村は首を傾げた。



「これは、駄目か?」



判るだろうかと思いつつ問うてみると、幸村はゆるゆると首を横に振った。


「けん玉の方が良かったか……けど、あれも危なそうだしな…」
「……うーぅ、あぅ」
「あ? なんだ?」


どうしたものかと思考に耽り始めた政宗を、衣服を引っ張った手が現実に縫い留める。
当然ながら手は幸村のもので、辿って顔をみてみれば、困ったように眉尻を下げていた。

鞠を手放そうとはしないが、遊ぼうともしない。
不服に唇を尖らせることもしないが、投げて遊ぶ様子も無い。
これは、ひょっとして。



「遊び方が判らねぇのか?」
「あーぅ」



政宗の言葉に対する返事ではないだろう。
けれども幸村の声音は、はっきりと困惑の色を示していた。



「って言われても……俺だってよく知らねぇんだけどな」



公家の遊びなんて、知るはずも無い。
剣術遊びをしていた記憶はあるけど、体を動かす以外の遊びは判らない。



「蹴りゃあ良いんじゃねぇのか? 貸してみな」
「う?」
「取り上げやしねぇさ」



幸村が持っていた鞠を拾い取ると、広い室内を見回す。

奥州筆頭の寝所という事もあってか、この部屋はそれなりに広い。
書机やら何やら、物を退かせれば子供が遊ぶのにも問題は無い。



場所を適当に見繕うと、政宗は鞠をぽんと投げて浮かせた。
幸村はそれをじっと目で追っている。

浮いて落ちた鞠は、床で一度跳ね返った。
それを軽く一蹴りすると、鞠はくるんと孤を描いて幸村の方へと飛んでいった。
すると鞠をじっと見ていた幸村は、ぽこんと顔面にその鞠をぶつけてしまった。


ぷ、と政宗は思わず噴出してしまう。
幸村は顔面にぶつけてしまった衝撃の所為で、こてんと背中から畳と仲良しになった。

てっきり、受け止めるとばかり思っていた。
記憶も精神も、あの“真田幸村”とはかけ離れていても、身体は覚えているとばかり思っていたのだ。
紅蓮の二槍と呼ばれ、その強さも名と共に知れ渡られる程なのだ。
自分に対する危機に、そうでなくても顔面に当たると判れば自然と本能は防御を示す筈である。

だが幸村は、真正面から向かってきた鞠を、綺麗に顔面で受け止めてしまった。


鞠はてんてんと音を立てて、床を転がり、部屋の隅に当たって止まった。



「おい、幸?」



くく、喉で漏れる笑いを押し殺しながら、政宗は幸村に近付いた。

どうやら鼻先にもろに当たったらしく、手で押さえている。
離してみれば、其処だけがほんのりと朱色に染まっていた。


「お前……受け止めろよ、ほら、大丈夫か?」
「うーぅ………んゅ」


くしゃくしゃと頭を撫でてやると、幸村の赤みがかった瞳が向けられて。




「……えへー」




にっこり。
笑うものだから。





「どん臭ぇ奴だなぁ」
「えへ、にゃー」
「猫かお前は。ほら、ちょっと見せてみろ」
「う?」
「打ち身だけだな」



痛くない痛くない、と。
にこにこ笑っているのだから平気なのだろうが、一応言って、頭を軽く叩いてやった。

幸村は笑って、政宗の手を感受している。


政宗の手が離れると、幸村は立ち上がり、隅に転がった鞠を取りに行った。
拾い上げると、政宗がしたようにぽんと宙に投げる。
恐らく、政宗の真似をしようとしているのだろう。

宙に浮いて落ちた鞠は、畳の上をぽんと跳ねて再び浮かび上がる。
幸村の足が、それを蹴ろうとして、



空振りして。








ごんっ!!







堅い音が、した。





「ゆっ……幸っ!!?」





慌てて名を呼んだ相手は、壁にしたたかに頭を打ち付けていた。

蹴ろうとした足は見事に空振りし、意外と勢いをつけていたようで、幸村はそのまま後ろにひっくり返ってしまった。
受身を取るなど出来なくなってしまった幸村は、派手な音を立てて、後頭部を壁にぶつけてしまったのである。


ずるずるとその場に座り込んでしまった幸村は、後頭部を押さえて蹲る。
笑いも引っ込んでしまった政宗は、急いで幸村に駆け寄った。



「幸、おい大丈夫か!?」
「いぅ〜〜〜〜っ………」



目尻に涙を浮かべて、幸村は小さくなって行く。
政宗が少々強引に手を浮かせて、打ったらしい部位に自分の手を当てた。
瘤は出来ていなかったが、痛みがあるのか、幸村はびくっと肩を揺らせた。

一応冷やした方が良いだろう。
そう思った政宗だったが、幸村がしがみついて来たので、氷どころか手拭も取りに行けない。

気休めにはなるだろうかと思いつつ、政宗は幸村の頭を撫でてやる。
それからしがみついて来た幸村の背中を、赤子をあやすように擦った。




「あぅ〜〜〜っ」
「はいはい、痛かったな」
「うー、ぅぁ〜〜〜」




愚図ってくる幸村を宥めながら、政宗はくすりと笑った。

ああそうだ、こいつは今、赤ん坊なのだ。
いつもにこにこ笑っているけれど、痛ければ痛いと泣く、赤子なのだ。





















ああ、どうしよう。



こんな日常が、今はとても、愛しくて仕方がない。