「名前だぁ?」
突然の医者の言葉に、政宗はひっくり返った声を上げた。
目の前でまた政宗の右手と自分の左手を合わせていた幸村は、いつにない政宗に驚いた顔をする。
しかし、政宗の視線が自分に向けられていないと知ると、拗ねた顔をして手を叩き始めた。
政宗は幸村の手の衝撃を受けながら、医者の方へと目を向ける。
「なんでそんなもの考える必要があるんだ? こいつは真田幸村、何度も言ったじゃねぇか」
「それはそうですが、その子は赤子も同然。新しい名をつけ、新しい道を歩ませるのも宜しいと思います」
「ちょっと待て。なんで此処でままごと染みた事しなきゃならねぇんだ?」
「そうは申されますけれども」
喋る医者の表情が、楽しげに見えるのは気の所為だろうか。
いや、きっと気の所為ではない。
政宗よりもずっと年配である、初老を迎えたこの医者は、時折こんな顔をする。
よく見るのは、幸村が政宗に構って貰いたがっている時だ。
好かれておりますな、とか言われても、政宗にはなんと返していいか判らない。
そうして黙っていると、医者はくつくつと笑うのだ。
馬鹿にされているような気分にもなるのだが、睨み返しても効果が無い。
それもその筈、首から上は剣呑でも、下の方には幸村が懐いているので緊張感が欠片もないのである。
視線で人を射殺せるなら楽なのに、と政宗が身内相手に思う時、相手は大抵この老人だった。
年の功なのか、何故だかこの医者には勝てない。
だから。
「その赤子と接している時の政宗様は、満更でもなさそうですから」
笑顔でそんな事を言われて、反論が出来ないのはそういう理由だと無理やり結論付けた。
「だからって、なんで俺が」
「好いておる方につけて貰う方が、この子も喜ぶでしょう」
「それだけの理由で、名付け親になれってか?」
「十分でしょう」
これまた楽しそうに言われるものだから、頭が痛くなる。
「……ややも持ったことねぇってのに……」
「政宗様は御年は?」
「今年で十九だ」
「おられても可笑しくない歳だ。よい機会でしょう」
「どんな機会だ……こら、髪を引っ張るんじゃねぇ」
会話ばかりで構ってくれない政宗に不服だったのか、幸村の伸びた手が、政宗の髪を掴む。
そのままぐいぐいと引っ張るものだから、意外と痛いのである。
「幸村でいいじゃねぇか」
「悪くは御座いませんが」
「ならこのままで」
「新しい名、と言いましたでしょう?」
「……今此処で考えてつけろってか」
「早いうちが宜しいですから」
視線を医者から外さないまま、政宗は幸村の手を取った。
意外とその仕草が優しい事に、政宗自身、気付いていなかった。
“粋”を貫く男が、拾った記憶喪失の敵将に此処まで隙だらけになるなど、誰が思うものか。
それは政宗本人も同じ事だった。
その拾った敵将はと言えば、やっぱりにこにこ笑っていて、政宗を見上げている。
取られたままの左手を、何が面白いんだか、握って開いてを繰り返している。
そんな歌があったかな、と政宗はぼんやりと思い出した。
「意味が判らねぇ……あのな、俺はガキにする為にこいつを連れ帰ったんじゃねぇんだぞ」
「でしたら、何故連れ帰ったのですか?」
「そいつは……あー……っと…」
改めて聞かれると、どう応えたものかと思案する。
拾った時は色々と慌しくて、勢いのままに陣に運んで手当てをした。
そのまま目覚めず、捨て置く訳にも行かず、奥州に連れ帰ってからは自分がずっと世話をした。
目覚めるまではどうしたものかと色々悩んだものだったが、取り合えず保留としておいて。
起きて話をすれば何か変わるだろうと思えば、記憶喪失に精神退化、お陰で平行線を辿るばかり。
記憶は一向に戻る様子はないし、武田軍は織田軍との合戦で敗れて以来、衰退を辿っていると聞く。
こんな大きな赤子を引き取るような酔狂な人物はいないだろうし、
音に聞こえた真田幸村本人だと広く知れ渡す訳にもいかなかった。
今現在も、未だに幸村が政宗の傍にいる理由はと言えば、“どうにも出来ないから”だと思う。
赤子を捨て置くには少々寝覚めが悪くなるし、にこにこ笑う顔を見るとそんな気分も失せてしまう。
子供に勝るものはないというが、正にこの事ではないかと思う事もあった。
思い返してみると、いつの間にか親子のような接し方をしていた気がする。
利き腕である右腕の火傷は、治りの兆しを見せ始めたばかりだ。
だからまだ使えなくて、左肩は治ったものの、非利き腕でまともに飯が喰える筈も無い。
匙も上手く使えないので、仕方なく政宗が雛に餌をやる要領で食べさせている。
立つ練習をする時も、一度姿見でうっかり見てしまったのだが、丸きり親子だった。
何やってるんだ俺は、と思っても、当然ながら応えてくれる者はいない。
本当に、なんの為に連れ帰ってしまったのだろう。
自軍に引き込もうという考えがなかったとは言い切れない。
一度手を合わせたから、幸村の強さはよく判っている。
彼がいれば、戦場にて大きな戦力増加になるだろうと。
だが幸村の忠義心の厚さもよく知っているから、無理だろうと最初から諦めていた。
武田が大将の亡き後も、その意志をついて天下統一へと邁進していたと聞く。
まだ年若いにも関わらず、あの大群を引っ張っていったのだと。
「………政宗様?」
「…あ? ああ、悪ぃ」
考え込んでしまった政宗を、医者の声が現実に引き戻す。
視線を下に向ければ、首を傾げて見上げて来る透明な瞳。
どうかした? と問うているような顔。
「……本当に俺につけろってのか?」
「嫌なら、早く嫁を取って下さい」
「またそれかよ……」
十九を迎えている政宗に、嫁を取って子を作れと言う年配者はよくいる。
まだいいじゃないかと反論するが、総大将として良い子孫を早く、と。
少々古い考え方じゃないかと思うが、気にしない方向で無視していた。
これを口火に、また煩く言う者が増えるだろう。
奥州の女が嫌いだとか、そういう訳ではないが、今は単純に嫁を取る気にならないのだ。
どんなに言われてもそれは代わらない。
「……名前つけりゃあ、いいのか」
どんな交換条件だと思いつつ、言ってみれば、医者ははっきりと頷いた。
見下ろした先にある表情は、やっと目を向けてくれたのが嬉しいのか、またにこにこ笑い出した。
この子供は見れば笑顔ばかりで、いつでも幸せそうに見える。
一体何が面白いんだか、一度細かく問い詰めてみたくなる。
つい最近まで、この笑顔はもっと別の者に向けられていたのだろう。
こんなにふわふわとした笑い顔でなくても。
幸せそうな、笑顔。
見る者まで、包み込んでしまいそうな。
「幸で、いいだろ」
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