今までは、待ってる人間なんていなかった。
いや、突き詰めていけば誰かいたかも知れないのだが。
それでも、身近で、すぐ思いつく人物で待っている者はいなかった。
帰還すれば誰もが褒め称えて迎える。
けれどそれだけで、それ以上の者はいなかった。
けれど、今。
あの笑顔が、とても気に入っている自分がいる。
「あーぅ」
くい、と着物の裾を引っ張られた。
振り向いてみれば、にこにこと上機嫌に笑う子供がいる。
子供は布団の中に納まっていて、寝転がったままで左手を伸ばし、政宗の着物を摘んでいる。
「ぅあ、あーぅ、あう」
「……なんだ?」
「ぅ、ぅーぅ」
まるで赤ん坊と接しているようだ。
いや、違う。
赤ん坊なのだ。
此処にいる、数えて十八を迎えるだろう青年は。
満身創痍で倒れているのを拾って、連れ帰って一週間で幸村は目を覚ました。
その時から、既に幸村の様子は可笑しくなっていた。
敵であるはずの政宗の顔を見てもとくに反応はしないし、きょとんとした顔をしているだけ。
揶揄って子供扱いしてみても、以前はよく見た、反論らしき激昂もなかった。
どの道傷の経過を調べなければならなかった為、医者を呼んでみれば、とんでもない事を宣告された。
記憶喪失。
精神退化。
頭部に傷があったから、それが原因かも知れない。
頭は人間にとって色々と大事な部分だから、其処に傷をつけられると問題が生じる事も多いだろう。
幸村は、見事にそれらに該当してしまったという事だ。
ひょっとしたら、何か精神的な問題もあったのかも知れないが、その辺りは幸村本人しか知らないだろう。
だがその本人は、そっくり丸きり言葉も話せないような赤ん坊になってしまっていた。
とにかく、何が楽しいのか知らないが、赤ん坊はいつもにこにこと笑っている。
少なくとも、政宗が傍にいる時は笑っている顔しか見ていない。
なんだか、ふわふわしているようにも見える。
頭の弱い子供と言うのは、こういうものなんだと聞いた事がある。
あまりも何度も裾を引っ張るものだから、構って欲しいのだろうと勝手に判断した。
気紛れに手を伸ばして、幸村の鼻先をぴしっと指で弾いた。
「うぁぅ」
変な声を上げて、幸村はくすくす笑う。
右腕はまだ動かないが、左肩の治りは早かった。
まだ時折痛みが伴うようだが、ゆっくりとなら動かしても平気らしい。
「あーぅ、んぁ」
「あんまり引っ張るなよ、伸びちまう」
ぺしっと引っ張る手を叩く。
其処で手を引っ込めるかと思えば、否。
叱られるのでも、構ってもらうのと同義で認識しているらしく、やはり上機嫌に笑っている。
これがあの、天覇絶槍と謳われた真田原二郎幸村だと言うのだろうか。
顔立ちも髪型も、細身の躯も政宗の記憶どおりなのだが、表情が一致してくれない。
感情の起伏が激しい所為で、その分だけ表情も豊かだったと思う。
しかしこんなにも、ふわふわとした笑い方はしなかった筈だ。
笑い顔と言えば、主の信玄の影響とでも言うのか、豪快な方だったと記憶している。
「うーぅ」
「刀にゃ触るな」
手元に置いていた刀に、幸村の手が伸びる。
それに届く前に、政宗は刀を取り上げる。
不満げな顔を、幸村が見せることは無かった。
不思議そうな表情を見せるぐらいで、すぐに興味をなくす。
そしてまた、政宗の方へと手を伸ばして笑うのだ。
「……おめーは何考えてるんだ?」
「う?」
寝転んだ幸村の左手を掴んで、見下ろしながら問う。
返事らしい返事があるとは思っていない。
こちらの言っている事をちゃんと理解しているかすら怪しいのだ、目の前の大きな赤子は。
聞こえていない訳ではないのだろうが、言語理解力が著しく低下している。
「……包帯、替えるか」
呟いて、政宗は立ち上がった。
抱えの医者を呼ぶ為に。
「あーぁ、うー」
「お前は寝てな」
言って、政宗は襖を開けた。
幸村は自分の火傷や傷を見る度、泣きそうな顔をする。
もしかしたらぼんやりと覚えているのかも知れない。
単純に、幼心に焼け爛れた自分の腕の有様が怖いだけかも知れないが。
消毒が染みない筈はないだろうに、いつも幸村は歯を食いしばって耐えている。
正直泣き叫ばれても対応に困るだけなので、其処は助かったと思った。
そして包帯を全て巻き終えて、ようやくほっとした顔をするのだ。
「記憶の方は如何ですか?」
「どうにもならねぇさ。相変わらず、へらへらしてるだけだ」
「あーぅ、うーゆ」
「……何が言いたいかも判らねぇし」
終わった傍から政宗に構って貰いたがっている幸村に、政宗は右手を突き出す。
すると何が楽しいんだか、幸村は政宗の手に自分の手を当てた。
小柄な幸村に対して、長身の政宗の手は、一回りほど大きかった。
どうやら幸村は、こうやって大きさを比べ合わせるのが好きらしい。
「傷の経過は?」
「宜しいですよ、あれだけの傷があったのに早い方です。右腕だけは、まだかかりますが」
「あれだけ損傷が酷かったんだ、仕方ねぇだろうな」
「左肩と右足は大丈夫です。そろそろ歩行訓練でもして良いでしょう」
「……そうだな……寝たままってのは、どうにも良くねぇらしいし」
俄仕込みの医学知識を引っ張り出して言って見れば、その通りですと医者は頷いた。
「しかし……そうすると、外に連れ出さなきゃならねぇんだな」
苦虫を噛み潰したような顔で、政宗は呟いた。
その心中を、医者も察したようである。
医者は職業柄、幸村と何度も顔を突き合わしているから、危険がないと判っているのだろう。
これがかどわかしでも何でもなく、純粋に全てを忘れ去っているという事を。
だが、幸村と接触を禁じている他の者はどう思っているのか。
記憶をなくそうが、精神が赤子だろうが、幸村は武田の武将なのだ。
幸村に対して、劣情を抱いている者は少なくないだろう。
政宗がついと眼を離した隙に、何が起こるか判ったものではない。
独眼竜の傍にいる状態で襲い掛かってくるような、度胸のある奴がいるかどうかは知らないが。
危惧すべき点は、放置してはならない。
「……何も、絶対に外に連れ出さねばならぬ事はありますまい。最初はこの部屋内だけで良いですよ」
「…まぁ、そうだよな。取り合えず、どうすりゃいいんだ? 支えて歩けばいいのか?」
「最初は立つ所からでしょうな。長く横になったままですから、筋肉の衰えもあります」
「……ややを立たせるとでも思えばいいのか」
また不慣れな事をしなければならないのかと思いつつ、政宗は傍らの赤子に目をやった。
話は聞こえていただろうに、やはりまだ理解出来ていないのだろうか。
幸村はあぅ、と言って首を傾げて、やっぱりにこにこ笑っている。
そうだ、自分は赤ん坊の相手をしているのだ。
幸村の体は確かに十八歳の姿をしているけれど、頭の中は空っぽなのだ。
合戦の知識も、武田の事も、御大将の事も忘れて、真っ白になっているのだ。
言葉さえも忘れてしまっているのだから、赤ん坊である事に変わりは無い。
語りかけても、言葉らしい言葉は帰って来ない。
ただ聞こえている事を示すように手を伸ばし、その手が触れると笑うのだ。
夜泣きでもする事はないのだが、それ以外は赤子となんら大差ない。
誰か手の空いている世話役はいなかっただろうかと、政宗は思い出そうとした。
しかし、一昨日ほどから、砦内は少々慌しくなっている。
幸村のいる政宗の寝所だけが、取り残されたように時間がゆっくりと巡っていた。
手の空いている者は、恐らくおらぬだろう。
また知識のない事を一人でやるのか。
億劫な気分が拭い去れないのは、嘘ではなかった。
だが。
「政宗様がなされるのが、一番良いでしょう」
「あぁ? なんでまた? 俺はややと接した事もねぇんだぞ」
「しかし、この子は政宗様に懐いておられるようですから」
懐くなんて、犬猫じゃあるまいし。
と、思ったのだが、隣でにこにこ笑っている幸村を見て、溜息を吐いた。
丸っきり、子犬が尻尾を振っているようにも見えてしまった。
そう言えば、武田信玄を追いかけている姿も犬に見えたものだ。
まるで盲目的に慕い、口を開けば出てくる言葉は「お館様」。
信玄の言葉一つ一つに一喜一憂し、褒められようものなら舞い上がっていた。
今日日の童子でさえ、そこまで反応しないのじゃないかと思ったものだ。
つまり、幸村の犬っぷりは天性のものなのだ。
しかも、子犬で。
いつか噛みつかれやしないだろうな、と思いつつ。
政宗は、幸村の肩を持ち上げてやった。
包帯を取り替えたばかりなのに、どうして起こすのかと思ったのだろう。
いつもなら起き上がらせるのは、包帯を取り替える時と、食事の時だけだ。
昼餉は終えたし、夕餉にはまだ早い時間。
幸村はどうするのだろうと不思議そうな顔で政宗を見上げている。
「足、動くか」
問うても返事は無い。
政宗の言葉に、不思議そうな顔で首を傾げるだけだった。
こんな状態でどうやって訓練をしろと言うのか。
足を動かして貰わなければ、立てる訳もない。
背中を支えたまま、ここからどうしてくれようと思っていると、医者が先に動いた。
布団を退かせると、記憶にあるものよりも少々痩せた足が目に付いた。
その足にも包帯は巻かれており、触れる事を躊躇わせる。
しかし医者はもう触れても然程支障がないと判っているからか、そっとその部分に触れた。
膝を曲げて足を立たせるが、立たせた状態を維持させる事が出来なかった。
医者が手を離すと、すぐにぱたんと布団に落ちてしまう。
「こりゃ、かなり手間がかかるな」
ややの相手、と思った時点で改めて思ったことを口にする。
根気ですよ、と医者が言った。
始めてから一刻。
それほどかかれば、幸村も、何をされようとしているのか判ったのか。
足を立たせて、医者がそれを支えたままにして、政宗が状態を浮かしてやる。
落ちないようにと思ってか、幸村は政宗の腕にしがみついていた。
体重が余分にかかって負荷があるのだが、文句を言った所で伝わるまい。
「もう少しだから、踏ん張れ。足に力入れろ」
「うーぅ……う〜……」
愚図っているようにも聞こえるが、それなりに必死なのだろう。
政宗の腕に噛り付いた左腕が、小刻みに震えている。
力を入れる場所が違うだろうと思ったが、緊張と感覚が掴めないのとで、硬直しているのだ。
あやすように頭を撫でてやれば、少しずつ強張りが解けて行った。
「手を離しますぞ」
「おう。ほら、こっちにしてろ」
腕の中で収まっていた躯を、政宗は腕を肩に廻して引っ張り起こした。
しかし医者が手を離すと、幸村はがくっと膝から落ちる。
それと同時に幸村が政宗の襟元を掴んだものだから、政宗まで床に転がる羽目になった。
「いちち……」
「大丈夫ですか、政宗様」
「俺は問題ねぇよ。そっちは? 急に力が抜けたようだが。なんか失敗したか?」
「いえ、筋肉が上体を支えられなかったのです。まだ無理がありましたな…」
「……ややも直ぐには立てないんだったな。仕方ねぇか……」
結構疲れたな、と思いつつ、政宗は胡坐をかいて寝転がった幸村の隣に座る。
幸村はしばし政宗を見上げていたが、またすぐにいつものように着物をつつき出した。
「繰り返していれば、直に立てるようになるでしょう」
「……そうか。今日はもういい、お前も休んでろ。ご苦労だった」
「勿体無きお言葉。では、また何かありましたらすぐにお呼び下さい。いつでも参ります」
「おう」
政宗が短く返事をして間もなく、襖が閉まる音がした。
その間に、幸村は政宗の足の上に上体を乗せていた。
重いんだが、と呟いてはみるものの、幸村はにこにこ笑って見上げて来るだけだ。
悩みがなくていいな、なんて思ってみる。
右手を突き出してやると、幸村はその手に自分の手を重ね合わせた。
やはり、政宗の方が一回り大きい。
身長だけで言っても、幸村が低い事はないが、政宗が長身のお陰で見上げ見下ろさないと顔が見えない。
今のところは幸村が横になってばかりなので、自然と見上げ見下ろす形になるのだが。
幸村のまろい頬を、つんとつついて見る。
ふにゅ、なんて意味の判らない声が漏れた。
それがなんとなく可笑しくて、つんつんとまた突いてやる。
「やーぁう」
くすぐったいのか、幸村は左手で政宗の手を払おうとする。
しかしそれは上手く行かず、ぺしぺしと力なく政宗の腕を叩くぐらいだった。
「面白いな、お前」
さっきは大変だったけど、と思いながらそんな事を呟いた。
柔らかい髪をくしゃくしゃと撫でて、まろい頬を突いて、額をぐっと押してみた。
額を押されたのが少々痛みを伴ったのだろうか、幸村はやぅ〜と眉を顰めた。
なんだか苛めているような気分になって、政宗は手を離すと、ぽんぽんと幸村の頭を叩いてやった。
幸村は拗ねた顔をしていたが、それだけですぐに、またにっこりと笑った。
と。
「うーぅ」
「どうした」
「む〜」
途端に幸村は、政宗を引っ張り、政宗の腹の辺りに顔を埋めた。
苛め過ぎて泣いたかと思ったが、幸村は顔を顰めてはいるものの、泣いてはいない。
何事かと思って、幸村が先刻まで顔を向けていた方向を見ると。
「……ああ、眩しいのか」
雨戸の開かれた格子窓から、差し込んでくる光があった。
時刻は夕時――――日中よりも日差しの強い時間帯だ。
明るい橙の色に染まった陽を直接見てしまったのだろう。
目が痛いのか、幸村はしきりに目元を擦っている。
あまりするなと手を掴むと、また政宗に擦り寄った。
きらきらと輝く鮮やかな橙色。
綺麗だな、と思いつつ、擦り寄ってくる幸村の髪を撫でてやる。
ゆっくりと太陽を眺めるなんて、いつ振りだろうか。
奥州を出て天下を目指している間は――今も最中なのだが――、慌しいばかりだった。
いつ何処から奇襲がかかるか判らないし、配給やら見張りへの指示やら、ゆっくり出来る筈もなかった。
合戦ともなればそれ以上で、命のやりとりが其処彼処で行われるご時勢だ。
名も知らないような足軽が死んでも、側役にいた武将が死んでも、感慨に浸る暇などなかった。
けれど幸村を連れ帰ってからは、この赤子の傍だけが、時間が止まったようだった。
いや、止まってはいないのだけれど、酷く遅く時間が進んでいるように思う。
休暇らしい休暇なんて、なかった。
奥州筆頭として、それは当たり前の代償だったのだろう。
それを、拾った赤子が癒してくれる。
知らず知らずのうちに、政宗の心のうちに確かな場所を作り上げて。
笑顔は何も判っていないからだと思うけれど、それでも。
「いいもの見せてやるよ」
そう言って、政宗は幸村を横にしたままで抱き上げた。
突然の事に幸村は突拍子な声を上げたが、浮遊感が面白いのか、きゃらきゃらと笑う。
「あぅ、あはは」
「ほらほら、じっとしてな」
ここ一週間ほどで、すっかり保護者の気分になってしまった。
落とさないようにと、政宗は幸村をしっかりと抱いてやる。
火傷の治っていない右腕が、重力に従って下へと下ろされている。
政宗は一端床にしゃがむと、右腕を取って幸村の腹上に乗せた。
左手は既に政宗の服を掴んでいるので、そのままにしてまた抱き上げて立ち上がる。
「ぅ? …むーぅ」
「こら、ちゃんと見な。綺麗なもんだぜ?」
目を射抜く眩しさから逃れようと、幸村は顔を政宗の胸に埋めた。
それをあやすように囁くと、意味が判ったとは思えないが、恐る恐る顔を浮かせた。
ほら、と顎をしゃくって指し示すと、幸村はそっとその示す方向へと目を向ける。
そこにあるのは、眩しい太陽。
目が慣れたのか、それとも呆けているのか。
幸村はぼうっとした顔で陽光を見詰めている。
「ありゃあでけぇ塊が燃えてるんだと」
「……ぅ?」
「ちょいと聞いた事があってな。小難しい事はまだよく判らねぇが」
面白い話が聞けたぜ、と言っても、幸村に判ろう筈も無い。
色々な場所を見てきた政宗に対して、幸村は、悪い言い方になると思うが、閉鎖的だった。
幸村自身、見詰めているのは主君・武田信玄一人だったし、
戦に置いて天性を極めると言われても、それ以外のことにはてんで疎かった。
政宗の使う聞きなれない伴天連の言葉に、目を廻したりもしていたか。
もしもこのまま、幸村がこの奥州にいる事になったら。
この赤子も連れて、色々な場所に言ったりするのかも知れない。
「すげぇと思わねぇか? ありゃあずっと遠くにあるもんで、星と同じで、燃えてるもんなんだってよ」
「……うぁ? あーぅ」
「でかい炎なんだよ。すげぇと思うぜ、四六時中ずっと燃えてるんだからな。炎ってのは絶えるもんだと思ってたんだが」
……もっとも。
「もっといい華咲かせる炎を、俺ぁよく知ってるけどな」
かつて炎を纏った青年は、今はなく。
透明な炎を抱いた赤子は、ただじっと、燃える橙を見つめていた。
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