何よりも早く、一閃が奔った。
それは地に伏した幸村を抱え上げて、横へと跳ぶ。
猿飛佐助、だった。
両腕にしっかりと幸村を抱えて、地面に肩膝で姿勢を保っている。
すぐさま二人の周囲を武田の兵士が固めた。
「……さ…すけ………?」
「生きてるな、旦那」
横抱きにされた状態で、幸村は佐助を見上げる。
視界の端では、赤い甲冑が見える。
「悪ぃが、旦那に死なれちゃ困るんだ」
「ばか…言え……」
「馬鹿はそっちだ」
途切れ途切れの幸村の言葉に、佐助はきっぱりと言い切った。
口の悪い部下だな、と今更の事を思う。
くしゃ、と佐助が幸村の褐色の髪を撫でる。
これは子供をあやす時の仕草だ。
佐助は時折、幸村にこれをする事があった。
払おうとして、腕が上がらない事に気付く。
「動くなよ、痛むぜ」
「なら……離せ……」
「そいつはお断りだ。此処まで無茶してくれたのに、放って置けるか」
「……足を…引っ張…る、のは……嫌だ……」
「引っ張っちゃいねぇさ」
此処まで気張ってくれたんだ、と。
小さく笑って、佐助は言った。
「旦那のお陰で、士気が戻った。だから、旦那はもう休んでていいんだよ」
よく頑張りました、と。
佐助は幸村のさらさらとした髪を梳く。
おぉ、と声を上げて両軍が激突する。
佐助と幸村の周りを、盾を持った槍兵が固めている。
時折、槍兵がこちらを振り向いて眼が合った。
もう大丈夫です、と言って。
此処からは自分達の出番だと、言って。
その目に、信長と一騎打ちをする以前の迷いは見られない。
「幸村殿!」
「……勝頼殿?」
戦乱の中で、人一人の声は聞き取りにくい。
特に勝頼の声は少々曇り勝ちであるから、余計に聞き分け難かった。
確認するように名を呼んだ後、傍に誰かが来て膝をついた。
佐助に抱えられたままでゆっくりと首を巡らせると、やはり其処にいたのは武田勝頼。
信玄と親子らしいが、あまり似ていない。
けれども信玄への忠義心は、幸村に劣らない。
だからか、妙に息の合う事がよくあった。
「ご無事で、何よりです」
「何を……こんな、躯では……」
「御命が無事ならば、それで」
「勝頼の旦那、あんまり喋らせたら傷に響く」
勝頼に対して幸村が何事か言う前に、佐助が割って入った。
それから、一拍の間を置いて。
「幸村殿は、お逃げ下さい」
「な…………!?」
思いも寄らなかった勝頼の言葉に、幸村は目を見開いた。
元々大きめの瞳だったのが、零れ落ちんばかりに見える。
幸村は勝頼に詰め寄ろうとしたが、佐助に押さえられた。
いつもならそれを振り解く程度の力はあるのだが、如何せん、満身創痍だ。
軽く力を篭められただけで、幸村は佐助を動かす事も出来なかった。
直ぐ近くで戦の声がするというのに、一体何を言い出すのか。
信玄がいない今、幸村は大将首だ。
此処で戦場を離れるなど、幸村は出来る筈もなかった。
しかし、幸村の胸中など何処吹く風で、佐助は幸村を抱き上げた。
「佐助っ!!」
「はいはい、暴れない。落ちると痛ぇぜ?」
「佐助殿、後は宜しくお頼み申す」
「了解。しっかと拝命賜ったぜ」
「勝頼殿、何を……!」
幸村の呼ぶ声を聞かぬまま、勝頼は二人に背を向ける。
そして佐助も、くるりと踵を返した。
向いた方向は、武田軍の後陣。
幸村は慌てて勝頼のいる方へと左腕を上げたが、届く筈も無い。
「佐助、下ろせ!」
「駄目だ」
「何故!? 足手まといと言うなら、捨て置け!」
「なんだ、意外と元気だな……」
「巫戯蹴るな!!」
「あんまり暴れると、後が辛いぜ。ほら、行くぞ!」
激昂で痛みを忘れたように叫ぶ幸村。
だが佐助はそれを聞き流しながら、地面を蹴った。
佐助は敵味方の入り乱れた中に出来た空間に、一端足を下ろし、また跳躍する。
すぐ傍を矢が飛んでいったが、当たる前に地面に落下して行った。
次に足場にしたのは地面でなく、敵軍の兵士。
肩を踏んで、その勢いを殺さずにまた跳躍。
時折振動が幸村の躯に痛みを招いたが、かなり無茶な移動をしているにも関わらず、
佐助は飄々とした顔で、幸村を落とすような危なげな様は一つも見せなかった。
なるべく振動が伝わらないようにしているらしく、時折幸村を抱えなおす。
そんな面倒をするぐらいなら、その辺に捨ててくれて構わないのに。
先刻から、何度もそんな事を考えている。
主力である幸村に続いて、奇襲を得意とする佐助まで戦から抜けてしまう訳には行かないのに。
それなのに佐助は、幸村の下ろせ、戻れという声も聞かずに戦場を駆け抜ける。
さすが忍であるのか、奔って追いつく者はいなかった。
それを、見送る眼が幾つもある。
そして、その眼は消えていく。
それぞれの思いを、未だ若い少年に見せぬまま。
どれほど奔っただろうか。
戦の雄叫びが喧騒になり、雑音になり、遠くなり。
幸村は佐助に抱えられたまま、山中にいた。
降ろせと何度言っても、佐助は降ろさないとしか応えない。
仕舞いには少し黙ってろ、と主に対して有るまじき言葉を使った。
佐助が幸村に対して軽口を叩いたりするのはよくある事だったが、向けられた瞳が知っているよりも剣呑で、
幸村も一瞬息を呑み、それ以後はしばらくの間だったが口を閉じていた。
右腕の火傷の痛みは、麻痺してしまったのか、もう感じられなかった。
左肩の銃痕は駆ける振動が時折響いてきたけれど、呻く程のものはない。
肌蹴られた胸元の傷は、汗で膿んでしまったのか、もう血は出ていない。
それでも、両手の二槍は離さなかった。
まるで手に吸い付いて、躯の一部になってしまったかのよう。
この槍は信玄に与えられた槍だった。
だからかも知れない。
手放したくないのだと。
「此処まで来りゃぁ大丈夫か……」
言って、佐助が予告もなく足を止めた。
鬱蒼とした樹木の中、佐助は適当な木の根元に幸村をそっと下ろした。
痛むか、と小さく問われて、幸村は小さく首を横に振った。
それを見て少し安心したように、佐助は息を吐く。
忍の長らしからぬ感情を露にした姿に、幸村は少し驚いた。
佐助は額から落ちる汗を拭うと、幸村の座る傍にあった石に腰掛けた。
「傷薬でもありゃあ良かったな。包帯もないし…この辺は薬草なんか生えてねぇらしいし」
「………佐助………」
「もうちぃと我慢してくれや。この山抜ければ、援軍が来てる筈だから」
「……佐助」
「合流出来れば、薬もある。包帯も。腹も減ったろ? 俺も空腹なんだ」
「佐助」
「丸薬なんて正直美味くもなんともないしなぁ。あーあ、早く白い飯が食いてぇよ」
「っ……佐助!!!」
呼んでも聞こえていないかのように話をする佐助に、苛立った。
声を荒げて呼べば、それでようやく、取り留めの無い話が止まる。
「何故連れてきた! 何故戦場を離れた! 捨て置けば良かったものを!!」
「……まだ言ってんのかい」
「幾らでも言う! 佐助、何故こんなことをした!?」
「…勝頼の旦那からの命令だ。聞いたろ?」
「それで納得が行くと思っているのか!?」
淡々と離す佐助に、幸村の感情は更に煽られる。
だが佐助は、人差し指を口元に当てた。
「旦那、あんまりでかい声出すと敵に見付かるぜ。傷口も開いちまう」
静かに、と促すのは判る。
戦場をかなり離れたとは言え、山賊だっていないとも限らないのだ。
追っ手や伏兵があっても可笑しくない。
そう言われてしまえば、幸村もこれ以上声を荒げる訳にはいかなかった。
今見付かれば、佐助一人なら逃げるなり応戦するなり大した事はなかろうが、
幸村が此の場にいては真田家お抱え忍頭と言う事もあり、主を守ろうとするだろう。
そんな事になっては、間違いなく自分は佐助の足を引っ張り、最悪、彼まで命を落としてしまう。
自分の所為で敵に奇襲をかけられるのも、佐助に手間をかけさせるのも嫌だった。
幸村は唇を噛んで、佐助を睨み付けた。
此処で味方を睨んでどうなる事もないのは判っている。
ただ、そうせずにはいられなかったのだ。
「……そんな目、すんなよ」
「誰の所為だ」
「……誰の所為だろうな」
茶化すのとは違う言い方で、佐助は呟いた。
「火傷、痛むかい?」
「……さっきよりは、平気になった」
「火傷なんか久しぶりだろ? 意外ときついだろ、それ」
「……そうだな」
いつも炎を身に纏っているから、不意に忘れそうになる。
炎は、全てを燃やし尽くして灰にさせ、消し去ってしまう脅威なのだと言う事を。
かつては、その炎の中で喪ったものもあるのだと言う事を。
そして今も、誰かが消えていなくなっている。
合戦に出る度に、誰かが帰って来なくなった。
同い年で仲の良かった者も、小言のように叱る者も、馬が合わなくて気に入らなかった者も、
信玄とは別に尊敬したものも、何故あんな奴がと思った者も、関係なく帰って来なくなった。
誰一人死なずに合戦が終わった試しなど、無かったのではないかと思う。
総大将を生かす為、毒矢を射られて死んだものもいるし、怯えて錯乱したまま殺された者もいる。
それを昔は酷く苦しい事だと思っていたけれど、いつしか胸のうちに封印した。
自分も敵に対して、同じ事をしているのだから、自分ばかりが膝を追って悲劇を気取りたくなかった。
帰って来なくなった者たちの分まで、命を奪った者たちの分まで、生きなければならない。
己が信じて疑わない道を、真っ直ぐに見詰めて。
なのに、自分はまだ生きている。
死んでいたって可笑しくないのに……生かされている。
「責めるなよ」
聞こえた声に、幸村は顔を上げる。
その先には、佐助。
だが佐助は、幸村を見ていなかった。
自分達が辿って来たであろう方向に目を凝らし、静かに、と口元に指を当てている。
ただならぬ様子に、幸村も口を噤み、同じ方向に目を向けた。
神経を研ぎ澄ませると、僅かに小さな足音が耳に届いた。
槍を持つ手に力を入れようとして、失敗した。
寧ろ感覚が殆どなくなっていて、持っていられるのが不思議な程になっていた。
くそ、と心の中で毒づいた直後、急に躯が浮遊感に襲われた。
突然の事に声を上げそうになって、慌てて音を喉で引っ掛けて止める。
「……ち……思ったより速いな」
小さな舌打ちの後、佐助は幸村を荷物のように肩に担いだ。
それによって空いた片手で、小刀を構える。
あまりといえばあまりの扱いに文句を言いたい幸村だったが、この場合は仕方が無い。
幸村をしっかりと抱えていては、応戦出来ない。
だから捨て置けば良かったのに、と顔を苦渋に歪める。
気配は一直線に近付いてくる。
嫌な汗が佐助の額から滲み出ていた。
「佐助、俺を置いて行け」
「そいつは命令か?」
「……そうだ」
「じゃあ聞かねぇ」
佐助の言葉に幸村は何事か言おうとしたが、それよりも早く佐助が跳んだ。
だん、と強く踏み込み、その勢いのままで佐助は木の上へと昇る。
その振動が傷に響いたが、幸村は歯を食いしばって呻き声を殺した。
きぃん、と高い金属音が響いた後、周囲には5人ばかりの忍が存在していた。
弾いたのは手裏剣だろうか。
「どうやら、真田の旦那がお目当てらしいぜ」
「……なら、佐助は早く行け。戦場に戻れ」
「そんで俺はどうすりゃいいんだい?」
「勝頼殿を守ればいい。お館様がいない今、武田の要はあの人だ」
「………そんで、俺は主を死なせなきゃいかんのか?」
俺は真田家お抱えだぜ、と。
言わなくても判るような事を佐助は呟いた。
「俺は真田家忍頭、旦那は現真田家筆頭主だ。
旦那は俺の主だ……主の命令は絶対だし、旦那の主は俺の主。
旦那が大将を守れって言うなら、何よりも優先しろって言うなら、俺はそうする。
けどな、旦那………俺も信玄の大将も、ずっと黙っちゃいたけどよ」
直ぐ傍から聞こえる声が、酷く優しいもので。
佐助、と名前を呼ぼうとした直前で。
「俺たちが一番守りたかったのは、真田幸村ただ一人だけだったんだぜ」
途端に、躯が冷たい場所に落とされた。
呼吸を奪われ、驚いてもがく。
右腕の火傷が冷えて、痛みが躯中を貫く。
川に落とされたのだ。
しかも、流れが速い川に。
「生きてくれよ、真田の旦那!
あんたを生かせってのが、大将からの命令なんだ!!
あんたのお館様からのな!!!」
佐助、と。
呼ぼうとした声が、水に飲まれた。
いつも一番最後に聞く言葉は、
「生きろ」
………それ、だった、気がする。
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