胡蝶の夢


















命など惜しくはない

そう、ただ君に捧げる命がないだけで――――――











………ならば









例えば何を捧げたなら、その身はこの腕に手に入る?
































押されているとも、押しているとも言えず。
よく言えば一進一退を繰り返す戦局であるにも関わらず、半兵衛は平静と高地からその様子を眺めていた。

傍らに親友である秀吉はいない。
此処、上田に来ているのは半兵衛が率いる豊臣軍の半分もない分隊と、それを率いる半兵衛のみである。
今回の戦に秀吉が出る幕はなしと判断し、秀吉もそれに異を唱えなかった為、分隊のみでの戦闘に踏み切った。
秀吉は現在膝元である大阪城におり、半兵衛も久しくその顔を見ていなかった。

つまりそれだけ、この戦は長引いているのである。






それも、予想の範囲内。







―――――仕掛けたのは上田。
東国最強と謡われた武田信玄に仕える若き武者、彼の真田幸村が統治する城。


噂ではまだまだ若い故に後先考えず突っ走る傾向があると言うが、剛には剛の戦の仕方があると言う事か。
それとも数年前に討ち死にしたという稀代の謀略者であった父や兄の血の恩恵を、少なからずも受けているのか。
常に傍にいる懐刀である戦忍のお陰なのか、どれなのかは半兵衛にもよく判らなかった。

半兵衛もまだまだ若いと言われる年頃だろうが、真田は更にその下を行く。
奥州を統治する伊達政宗と同じ年頃であった筈だ。




それで、この強さ。
そして武田信玄への忠誠心。

無鉄砲さも、これだけ腕があれば決して無謀なだけとは言えないだろう。
引き止めるものが独りや二人では足りないだろうが、一人を持って千人分の働きをするなら申し分ない。









だから、此処へ来た。

虎の子供に、首輪をする為に。









「さぁ……そろそろ行こうかな」









見ているのにも飽きたし、このまま戦局が打開する事もないだろうと半兵衛は踏んだ。
此処で指示を出していても、相手がその通りに動いてくれる事はなさそうだ。

ならば、この手で捕らえてやるのが一番良い。



大虎は此処にはいない。
此処に在るのは、まだ未成熟な虎の子供のみ。
爪を、牙を向ける相手がどんな強大なものかさえ測る事さえ出来ない、虎の子供。

今のうちに躾けておくのが良い。
そうしなければ、いずれは判別のつかない無能なものになってしまう。










見据える先にあるのは、翻る六文銭。









































本丸前まで来て、半兵衛は眉根を潜めた。
周囲には己の率いる部隊と、それに打って出てくる真田の兵。



……押されている。



確かに、押されていると半兵衛は思った。
数だけ見ればこちらの勝ち、揃えた兵や武具もこちらが勝っていると考えていいだろう。
其処に負ける因などなかった筈だが、それでもやってみなければ判らないのがこの戦国の世。
さて何が半兵衛の計算を覆してくれるたのかと、半兵衛は其処に立ち尽くして眼前を見据えた。


東国最強と名高い赤備えの兵の数は確かに最初の頃よりも随分と減り、このまま行けば消耗戦に持ち込む事になるだろう。
その場合、数で勝る半兵衛率いる豊臣軍に負ける理由は何処にもない。

しかし、打って出る姿勢の赤備えの兵から士気が落ちる事はなく、それどころか追い込まれるほどに押し返す勢いを増す。
一歩退いては二歩押し返し、二歩退いては三歩押し返す。
僅かずつではあるが、少しずつ少しずつ、確かに赤備えの兵達は半兵衛の兵を押し戻しつつある。
あと一歩で本丸まで突破されるとなっての火事場の馬鹿力か、それとも。






―――――門の向こうに見えた一際鮮やかな紅に、半兵衛は見るもの全てを魅了する笑みを浮かべた。












「この幸村が槍、此処で折れはせぬ! 押し返せぇぇぇええええええ!!!!!」













天を突くような声が響き渡り、紅の振り上げた二槍が数多の豊臣軍の兵を討ち払った。
同時に赤備えの兵から鬨の声が上がり、びりびりと空気が振動するのが半兵衛にも伝わった。






「若子だ! 虎の若子が来たぞ!!!」





誰かがひっくり返った声を上げるのが半兵衛の耳に入る。
みっともないね、と半兵衛は一つ冷たい溜息を吐く。






「うろたえるな。相手の思う壺だよ」
「竹中殿……!」
「とはいえ―――……」






視線の先で槍を振るう若武者を眺めながら、半兵衛はうっとりとした笑みを浮かべる。







噂に聞いていた以上に、どうやら虎の子供は力をつけているらしい。
爪を向ける相手にどれほどの力があるか知る術を持ち得ずとも、逆にその無知や無謀はこの戦国の世に置いて何よりの武器。
戦場では臆したものから先に死んでいく、それを知っている槍は迷いがなく真っ直ぐだった。

先手を取って、決して相手に出方を覗わせる隙を与えない。
何かと荒削りで時折危なっかしい動きが見えるが、それを補って余りあるのは次の攻撃へ移るまでの間。
倒れた敵の向こうで仕掛けようとした次の敵に、返す矛先で討ち払い、腕は留まる事無く次の相手を見定める。
目の前の存在を見据える瞳に躊躇いはなく、間合いを詰める瞬間も一切の淀みがない。



これは、うちの兵にも見習わせるべきだね。



吼える虎の子供は、その爪を振り下ろす事に一切の迷いと躊躇を感じさせない。
相手がどれほどの強さを持っているか、自分が勝てるか勝てないか、どの方法を用いれば確実に勝てるのか。
理屈ではない何かで全てを一瞬で見極め、先刻まで不利と陥っていた戦局をこの僅かな時間で己のものと掌握した。

これは半兵衛も計算しておらず、虎の子供を過小評価していたことを認めない訳にはいかなかった。
虎の親譲りか天性のものかは半兵衛の知るところではないが、これは良い者を見つけたと言って良い。






そして何より、

あの紅の鮮やかなことと言ったら。










「他の者では相手になりそうにないね……」






虎の子供の勢いに完全に飲まれている兵達に溜息を吐いた。
もう少し良い働きをしてくれると思ったのだけれど。
どうやら、最強の軍勢を作るにはまだまだ及ばないようだ。

その最強の軍勢の中に、これほどまでに迷いを持たない者がいたらどうだろう。
先刻まで半ば諦めた姿勢になっていた筈の赤備えの兵士達が良い例だ。
迷いのない真っ直ぐな目を見た兵士達はまるで息を吹き返したように奮戦している。
倒れても倒れても再び立ち上がり、自分達の将の声に答えようと自分達も声を上げる。


今までに何度もこういう軍勢は見てきた。
その中で、あの紅は何よりも潔い。





抜いた剣を振れば、高い金属音が響く。

兵士達の入り乱れたこの場に、その音は掻き消されるほどのものであった筈だ。
しかし。













「お初にお目にかかるよ、真田幸村君」










身を翻した紅――――真田幸村が、半兵衛を見つけた。





半兵衛は、その紅に囚われた。


瞳が、良い。
迷いのないその瞳が。

瞳孔の開いたその瞳は猫科の動物を思わせ、確かにそれは虎の子供であった。
身を守れないほどに弱い訳ではなく、独り立ちするほどに成長した訳でもない、けれど確立した“個”を己に抱く虎の子供。
親から預けられた己の縄張りを荒らされた事に、子供は確かに憤りを抱いているように見えた。
向けられる槍の切っ先は惑いを映す事無く、目の前の存在を敵だと定めた。



そう、何もかもが良い。
その瞳、その槍の切っ先、その決して折れぬと己の中に穿った一本の旗!

それらの何もかもをこの手に入れたら、どんなにか。






「仮面の男――――貴殿、竹中半兵衛殿とお見受けいたすが、如何に!」






槍を構えたままの口上は唯一つの言葉のみを欲しているに違いない。
半兵衛の答えがどちらであったとしても、この槍の切っ先が方向を変える事はないだろう。









「相違ない」
「何故、貴殿が此の上田を攻める!?」
「それは愚問だよ、幸村君」






同じように半兵衛も刀の切っ先を向ければ、幸村が僅かに姿勢を低く取った。

構わず、続ける。






「僕は最強の軍を作る為に此処にいる。武田は東国最強軍と呼ばれ、真田はその右腕……避けて通る理由はない」






今にも喉に食いついて引き裂いてしまいそうな程、張り詰められた虎の爪と牙。
退く事を知らぬ若い虎は、おそらく半兵衛の話など最初から望んではいなかっただろう。
それでも律儀に聞いてくるのは、武士としての礼儀とでも言うのか。










「その力、豊臣の為に使え」
「愚問!!!」





















――――――――瞬間、紅が奔った。