たまさかに見し人
染井吉野の優しい白より
八重部彼岸の淡い桃より
極楽寺桜の鮮やかな赤より
………舞う炎が綺麗だと思うことがあるなんて、一度だって思ったことはなかったんだ。
退屈だ。
陣幕の向こうで繰り広げられる戦風景を判っていながら、慶次は思った。
いや、判っているからこそ慶次は思ってしまったのだ。
好んで戦をするほど戦好きではないが、暴れたいのは確かだ。
前線では伯父の利家や妻のまつが奮闘していると情報が入り、それを聞くたびに慶次は飛び出したくて堪らない。
獲物はしっかり手元にあるし、肩に乗っている小猿も先刻から飛び跳ね、興奮している。
思うが侭に飛び出してもいいのだが、後が怖くて出来ないのだった。
伯父の方はなんと言うか判らないが、切り抜ける自身がある。
問題は、まつの方だ。
伯父もそうだが、何故だか自分はどうにも頭が上がらない。
利家の場合は惚れた弱みもあるのだろうが、家を支える夫を支える妻とは、余程強くなければ務まらないようだ。
若いながらに暴れまわり、奔放な慶次をしっかりと捕まえては、きちんと叱り付ける事の出来る数少ない人物。
幼い頃からどういう訳か、慶次は彼女にだけは勝てなかったのだ。
そのまつの怒りを買うのがどうにも恐ろしく、慶次はこうして苛々と陣幕内に落ち着いているしかないのである。
「……暇だ」
姉川の桜を見るのは嫌いではないのだけれど、それも平穏な刻であればこそ。
今は戦時であって、悠長に構えている時ではない。
「あー、くそっ!」
今頃暴れてるんだろうな、と伯父とその妻の顔を思い出しつつ、慶次はばたっと地面に横になった。
周りの兵士がその対処に困り果てているのが見えたが、お構いなし。
今相手にしているのは、東国最強軍と誉れ高い甲斐の武田軍である。
先程上った見張りの高櫓から南を見下ろした時、遠くに翻っている無数の赤旗を見つけた。
何もあれの中に一人突入するつもりでいる訳ではない。
赦されるならそれもやってみたいが。
毎日稽古を重ねた己の実力が如何ほどのものか、試してみるには実践が一番良い。
更に相手が東国最強軍と呼ばれているのなら、腕試ししない手はない、と慶次は考えていた。
特に気になるのは、噂に名高い日の本一の兵のこと。
慶次は顔さえ知らないが、いつの間にかあの噂に敏感になるほど、その人物の事が気になるようになっていた。
彼の人物は、なんでも慶次や、若くして奥州を治める伊達政宗とそう変わらぬ歳だと言う。
常に前線を張り、無茶も無謀もなんのその、紅蓮を纏って敵を蹴散らしていく。
きっと今も、前田の旗と武田の旗が交錯する場所に立っているのだろう。
其処に自分が行かずして、誰が行く。
「もう我慢出来ねぇ!」
地面に大の字になっていたと思った慶次が突然声を上げて起き上がるから、兵達がびくっと身を竦めた。
自由奔放な慶次の被害にあっているのは、何も気の知れた伯父である利家だけではない。
ぶっちゃけてしまえば、前田に仕えるまつ以外の人物はほぼ被害者であった。
「やっぱこんな所で燻ってられねぇ! 俺も出る!」
「けっ、慶次殿、今しばらくのご辛抱を…!」
「いーや、もう十分辛抱したぜ。限界だ! 出るったら出る!」
必死に止める家来達の事など聞かず、慶次は朱槍を振り翳す。
若さの所為だとは言え、有り余る力を持て余す慶次を宥められるのは、最早まつだけ。
けれどもその唯一の人物は、現在夫と共に前線へと赴いている。
抑える家来を吹っ飛ばす勢いで押し退けると、よし! と慶次は息を吐いた。
うきうきとまるで遊びに行くかのように、慶次は陣幕の外に向かって足を動かした。
その時、風を裂く音に咄嗟に身を翻したのは、殆ど本能だった。
地面に何かが突き刺さり、慶次は数歩下がると、周囲を見回した。
「慶次殿!」
「慶次殿、どうなされましたか!?」
駆け寄ってきた家来の声は聞こえたが、慶次の意識はそちらに向けられることはない。
地面に突き刺さったものは手裏剣で、明らかに慶次を狙ったものだった。
きっ、と肩に乗せた小猿がある一点へ目を向ける。
動物の視力は馬鹿にならない、慶次も小猿と同じ方向へと首を巡らせた。
其処に一瞬、閃いた影。
「いーい度胸じゃねえか……」
にぃ、と慶次が口元に浮かべた笑みは、まるで悪戯を思いついた子供のようなもの。
朱槍を握る手に更に力が入り、迷いなく慶次は地面を蹴って駆け出した。
止める家来達の声など、直ぐに遠くなり、聞こえなくなり、頭の中からもなくなってしまっていた。
咲き誇る條々の隙間を縫って行く影を追い駆けるのに、慶次はそれほど苦労はしなかった。
姉川の地理は目をつ閉じて駆け回れるほど頭に入っているし、何処の方向に行けばそれ以上逃げられなくなるかも知っている。
慶次にとって姉川は庭のようなものだから、不規則に動いているように見える影が何処に向かおうとしているのか、
ある程度の予想をつけるのにも時間はかからなかった。
恐らく、あれは武田軍の忍だ。
それも、かなり強い。
慶次が戦場に出たいと躍起になって周囲への注意を怠っていたとはいえ、それでも敵意に対して鈍くはない。
先の手裏剣が明確な殺意を持っていた事は容易に想像がつく。
流石に忍に追いつくことは難しいだろうが、何処かで誰かとやりあえるかも知れない。
今だけ、飛び出す切欠をくれた、顔も知らない敵軍の忍に感謝する。
戻った利家やまつが、甥不在の陣幕を見て何を思うか。
後々考えて後悔するのだろうが、慶次は今、真っ直ぐ進んでいく。
後ろを振り返ることはしなかった。
一応、奔る周辺で弓矢が狙っていないか、それらは確認していた。
だがどうやら忍は単独行動らしく、周囲に敵らしい気配は見受けられない。
追い駆けてきているのを、多分あの忍は知っている。
放っておいているのは撒く自身があるからなのか、はたまた罠か。
撒かれた所で、慶次は何も持たず、手ぶらで陣に帰るつもりはなかった。
後者であるならいっそ丁度いい、暴れる理由になる。
さぁ、いつ仕掛けてくる?
戦場であるにも関わらず、満開に咲き誇る桜。
舞い踊る花弁の下を潜り抜けて、慶次はそろそろだろうかと心構える。
すると、それとほぼ同時に忍が一瞬、動きを止めたように見えた。
流石にそれは予期していなくて、慶次は慌てて足を止め、朱槍で防御の姿勢を取った。
だが。
「佐助―! 迷ったー!!」
………どう考えても、場を弁えない声が響き渡る。
どさ、と言う音が聞こえたと思ったら、忍が木から落ちていた。
余りにも場違いな声と台詞に、慶次も茫然自失している。
だが、落ちた忍の復活は早かった。
「だ〜ん〜な〜! あんたは本陣で大人しくしてろって言ったでしょーがぁ!」
「だって暇だったんだ! お前ばかりずるいだろう、私だってお館様の役に立ちたいのだ!」
「それなら尚更、大人しく本陣を守ってろよ!」
場違いな声と台詞の後は、場違いな喧嘩が始まってしまった。
一体誰の声だと思っていたら、脇の茂みががさがさと騒ぎ、ひょっこり幼い顔の少年が姿を見せた。
木から落ちた少々派手な装いの忍は、まるで言いつけを聞かない小さな子供を叱るような顔で怒鳴っていた。
姿を見せた少年は、見た限りでは年の頃は十代半ば、元服をしたか否か、という程度。
慶次の存在さえ気付いていない様子の少年は、忍に子供のような仕草で文句を並べ立てている。
「お館様のお傍で働きたいのだ!」
「だったら此処じゃなくて前線に行けよ!」
「佐助がこっちに行くのが見えたから」
「大将の居場所ぐらい自分で把握しといてよ!」
…ふと、慶次の脳裏に、まつの姿が横切った。
何かとふざけて悪さをする慶次を捕まえては、まるで本当の母親のように叱りつけていたまつ。
言葉遣いは相変わらず上品なものであるが、醸し出される覇気に勝てる人物はきっといないだろう。
何故今そんな事を思い出すのかと思いながら、慶次の視線は少年と忍へと向けられた。
(……俺、忘れられてんのか?)
愛刀を肩に担ぎ頭を掻いていると、肩に乗っている小猿が不思議そうに鳴いたのが聞こえた。
目の前で繰り広げられる情景は、やはり舞い踊る桜の花弁と同様、戦場にはあまり似つかわしくない。
それにも関わらず、繰り返される会話もやっぱり戦只中のものとは思えなかった。
大将、お館様。
恐らく、敵軍の武田信玄の事だろう。
それをこうやって仰ぐと言う事は、この二人は武田軍の人間。
前田利家の甥であり、同時に前田に仕える慶次にとっては敵だ。
見た限り隙だらけだから、このまま首を取ってしまうべきなのだろうとは思うが、気が乗らない。
首を取りに来たんじゃない。
俺は腕試しがしたいんだ。
戦の中に置いて、慶次もこの場にそぐわぬ考えを持っていた。
向かってくるなら叩き切るところだが、相手はすっかり慶次の事を忘れ去っている。
なんだか興が冷めてしまったような気がして、慶次は露骨に溜息を吐く。
(……帰っかな……)
手ぶらで帰る気などないのに、そんな事まで考えてしまった。
取り合えず、すっかり自分の存在を忘れてくれている二人は放って置く事に決めた。
慶次はくるりと彼らに背中を向けて、自分の陣の方へ向かって足を一歩踏み出す。
「あ、お待ちくだされ!」
「こら、旦那!」
慌てて呼び止める声は、やはり高かった。
一体なんだと少々疲れた顔をして振り向くと、丸い大きな瞳がこちらを見ていた。
「其方は、前田の者か?」
「……だったらどうだってんだい?」
また何処までも場違いな質問をしてくれる少年だ。
此処は姉川で、前田の領地だ。
生憎所属を示す旗を慶次は持っていなかったが、それぐらいの予想は尽くだろうと思った。
しかし向けられる一対の瞳は、何処までも真剣な色をしている。
「一度、私と手合わせしてみては下さらぬか?」
「あ?」
「旦那!」
溌剌とした表情で言ってのけた少年に、慶次は間抜けな面を晒していた。
少年の手には二本の槍が一本ずつあり、それは先程まで背中に十字に負われてはいなかったか。
一体いつ構えたのか、それに何より、幼いこの表情には少々似つかわしくない台詞ではなかったか。
あれこれ思うことが多くて、慶次はなんと返事をすれば良いのか、簡単なことなのに判らなくなっている。
ただ風に揺られて流されていく花弁が、緩やかな時間の流れを表していた。
「本陣を飛び出してきたのに、流石に手ぶらで戻るのは気が引ける」
「だったらなんでほんと、大人しく待っててくれないの、あんたは!」
割り込んでくる忍の台詞や口調は、なんだか母親じみている。
ああ、だからさっきまつの顔を思い出したのかと、慶次も暢気に考えていた。
「……手合わせするには文句ないが」
「ならば、早速」
「だーんーなー! 俺の話を聞け!」
「佐助は良いぞ、先に戻れ」
「あんたみたいな間抜けな主を一人で放って戻れるか!」
そう言いつつも、どうやら忍は少年を無理やり連れ戻す気はないらしい。
適当な木上に飛び乗ると、まるで拗ねたように傍観の姿勢になった。
それにしても、この少年があの忍の主とは、少々驚いた慶次である。
両手の槍は確かに立派なものだと判ったが、それを持つには余りにも少年の顔が幼いのである。
まだ人の上に立つには早いのではないかと思えるほどに。
しかし忍びに対して先に戻れと言った時の口調は、確かに主従の空気を孕んでいたように思う。
命令することに慣れているとは言えないが、指示する事に躊躇いを持ってはいなかった。
「佐助ー、本当に戻っても構わぬのだぞ?」
「はいはい、判ってますよ」
木の上の忍に向かって言う少年だったが、忍の方は意に介さない。
これは命令違反になるのではないかと慶次は思ったが、どうやら見慣れた光景らしかった。
しばし忍を見ていた少年だったが、やがて諦めたように溜息を漏らした後、ようやく慶次に向き直る。
「言い出したのは此方なのに、お待たせしてしまいましたな」
「……や、別に良いんだけど。あんた、変わかった奴だな」
「そうでござるか?」
慶次の言葉にきょとんとする少年に、慶次は苦笑が漏れた。
なんだか楽しそうにこちらを見てくる少年は、どうやら戦う事が好きらしい。
戦馬鹿、と木の上で忍がぽつりと呟いたが、生憎それが少年の耳に届いた様子はなかった。
少年より離れている筈の慶次の耳には聞こえていたのだが、もう周りが見えていないらしい。
どうも世間知らずな感が隠せない少年を見ながら、慶次も長刀を構えた。
この時、慶次は確かに、この少年を“変わった少年”としか認識していなかった。
それを覆される事になるのは、この直後の事。
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