あんたが生きてりゃ











それだけで、俺は此処に在る事を赦される






































血みどろになった大型手裏剣を一度、振り下ろした。
幾つかの血の雫が飛び散り、地面に染みを作る。

ぼんやりそれを見詰めた後で、ああ、しまった、と気付いた。

中庭なんかにこんな染みを作ってしまったら、主に知られてしまう。
それだけは今は避けなければならない。
まだ幼い主に、この有様を知られてはならないのだ。



「いるか、鎌之助」




呼べば、近くの茂みで気配がした。
敵ではない。



「片付けといてくれ。全部な」



了解、と小さな声が聞こえた。








先日、今まで己が仕えていた主が相次いで討ち死にした。

仕えていたといっても、それらしい事をした事はない。
自分には期せずして子守と言う役目があったから、館を離れる事は少なかった。
亡き主達と共に戦場に立った事は、右手で数えて足りるぐらいである。
それも諜報員としてぐらいで―――それで、忍は良い事なのだろうが。


真田家の筆頭であった昌幸と、長男の信幸が先日の戦で討ち死。
そうすると順序は自ずと次男に回ってくるのだが、その次男はまだ幼い子供だった。
先日十の数を迎えたばかりで、槍の腕は子供としては上達しているものの、戦場に立てる程ではない。

しかし、やはり名門武田に仕える真田家の名は高く轟いていた。
筆頭主が討ち死にし、次期当主はまだ幼子であるとは言え、やはり氏というものは強い。
不安の種は早く潰して置こうと言うところだろう。
まだ戦のなんたるかも判らない幼子の命を狙う輩が増えてきていた。

真田家に仕える忍者として、放っておく訳には行かなかった。
幼い主を守る為に、佐助が行動を起こしたのは、昌幸らが逝って直ぐであった。



深夜の警備を増やしたのは、最近の事だ。
最初は佐助一人で片付けられる数であった密偵や暗殺が、数を増やしてきた。

血を浴びる量が増えて、同じように匂いもこびり付く。
これ以上濃くなる前に落とさなければならない。
けれども、明日になればまた同じ事を繰り返すのだろう。
そういう日々が続いている。



幼い主は、まだ何も知らない。
知らなくていいのだ。

相次いだ身内の死に、彼はまだ立ち直りきれていない。
毎日赤い瞳をして起きて来る彼に、不安を与える訳には行かない。












「ったく……そろそろ諦めて貰えんかね……」







水を浴びて血を流し、衣服を着替え、回廊を歩きながら佐助は呟いた。




数が増えては手間がかかるし、疲労も溜まる。
たまにはゆっくり眠りたいと言うのに。

いっその事、真田隊の者達に全て任せてしまおうかとも思う。
一日ぐらいさぼって休ませて貰っても罰は当たらないぐらいに仕事はしていると思う。
事実、隊の者達からも少しは休んでくれと言われたような気もするが、よく覚えていない。


だって気掛かりで仕方がないのだ。
己の手で、眼で見なければ、落ち着かない。


最近は傍を離れているだけで、酷く落ち着かない気分になる。
迷子になった子供でもあるまいし、それは不安と呼んでも良いのかも知れない。

今頃はきっと泣きつかれて眠っているであろう、幼い主。
穢れや嘘とは未だに程遠い場所にいるであろう、幼い主。
護るべき、主。


「頭」
「あ? …ああ、六郎か」
「…幸村様が……」




出された名前に、佐助の眉根が寄った。

幸村。
それが、今の主の名。
聞き馴染んだ、よく知る子供の名。




「旦那になんかあったか」
「いえ。しかし、頭をお呼びです」
「またか、あのお人は……」




先程とは違う溜息を吐きながら、それでも佐助の口元が僅かに笑みに象られる。
釣り上がっていた眼も、かすかであるが穏やかさを取り戻す。

最低限の報告だけをして、六郎は姿を消した。
佐助は気配を殺す事を止めて、長い回廊を進んでいく。
向かう先はただ一つである。











































辿り着いた部屋の中は、暗く静かであった。
その部屋の真ん中で、布団に包まって、芋虫のようになっている塊がある。
それが何であるかなど、確認せずとも判ってしまう。





「入るよ、真田の旦那」






声をかけてみれば、ぴくっと塊が動いた。
けれど、塊の中身が顔を見せる事はない。

名を呼べば、きっとすぐに見せるのだろう。
“名”を呼べば。





「もう子の刻だ。寝ないと、明日の昼間に眠くなっちまうぜ」






ぽんぽん、と塊を叩いてやる。
昼間に眠いと、団子が食えないぞ、と言う。
けれども、いつもなら反応を示すだろうに、それはなかった。




無理もない。
幼い躯には受け止めきれない事が、一気に降りかかったのだ。

父と兄の死。
真田家の家督。
そして、束ねる者としての意。

十を迎えたばかりの幼子に対して、あまりにも辛い事ばかりである。


これに加えて、自身の命が狙われているなどと知ったら、どうなるのか。
まだ見も心も幼いと言うのに、これ以上の重荷を背負うなど。
きっと彼は同情されるのは嫌いだろうけれど、あまりにも不憫だと言うものだ。

若干十五歳である佐助が真田隊の長を勤められるのは、ひとえに彼の存在によるものだと判っている。
まだ“護られる”事をよく判っていない主だ。
厳つい者に常に傍にいられては、本人の方が参ってしまうだろう。
故に幼い頃から主とともに育ち、兄弟の感覚に近い佐助が近辺の護衛を任されたのである。
気の知った者なら彼の負担も軽くなるだろう、という判断からだった。

そしてそれを機に、以前から時期頭として育てていた佐助の立場を、真田隊の長として位置させた。




以来、それまで持っていた情は捨てた。

人が何かに対して、普通に抱く手あろう感情も。
ずっと持っていた、この幼い主に向けられていた感情も。






「ほら、旦那」







仕方なしに布団を捲ってみると、長い明るめの色の髪が伺えた。

きちんと手入れすれば、ツヤのあるいい髪質だというのに。
此処しばらくの心の表れなのか、毛先が痛んでいるようにも見える。



くしゃくしゃとそれを撫ぜてやって、ようやく丸い瞳が向けられた。
決して明るくはない部屋だというのに、夜目に慣れた佐助には、
どんぐり目玉の端っこに浮かび上がっている透明な雫がはっきりと確認できた。

撫でていた手を取って、赤みがかった瞳が真っ直ぐに向けられる。



「旦那、また目ぇ擦ったでしょ? 腫れるから止めなさいって」




目尻の涙を、捉えられた手とは逆の手の指の腹で拭ってやる。

四つ五つ程度しか歳が違わないというのに、この主は酷く幼かった。
小柄なのか体付きも華奢であるし、中世的な顔立ちと大きな瞳で、時折女子と間違えられる事もある。
更に長い明るい色の髪がそれを助長させ、極めつけは当人の天然振りだ。

昔から感情の起伏が激しくて、何かのおりに泣いてしまう事は多かったのだが、
泣いていると余計にそう見えてしまうのだと、佐助は改めて認識した。


これだから、放っておけないのだ。




「氷持って来させた方がいいか? これ以上腫れると、とんでもない事になっちまうぜ」
「…………佐助」
「なんだい、真田の旦那」




呼べば、腕を掴んだままの小柄な手に力が入った。




「なんで呼ばない?」
「呼んでるじゃん」
「違う」




言いたい事が判っていない訳ではない。
この幼い主の言いたい事は、言葉にしなくたって理解できる。

けれど佐助は、それに応えるつもりはなかった。




「なんで……名前で呼ばないんだ」
「呼んでるよ、真田の旦那」
「違う!!」





跳ね起きて、幼い主は佐助に噛み付くようにしがみ付いた。
佐助の衣服を掴んで、胸に顔を埋める。

小さな肩震えているのが判った。
その肩を抱こうとして、止める。




「呼んでない! ずっと…ずっと、あの日から!」





あの日から。
彼らが帰らなくなった日から。

それまで見ない振りを続けてきた溝が、浮き上がってから。






「なんで呼ばない!? なんでそんなに…遠くにいる!?」
「……遠くなんかねぇよ。此処にいる」
「違う。遠い。ずっと…ずっと遠い。なんでだ? なんでそんなに遠いんだ?」






この主は、一体なんの答えを求めているのだろうか。
何故遠く感じるのか、何故遠くにいるのか、何故名前で呼ばなくなったのか。
きっと全部答えを聞きたくて、けれど聞くのも怖いんだろう。

それでも、今は縋るしか出来ないのだ。
支柱であったはずのものが崩れ去った今、幼子の足元はぐらついて安定しない状態が続いている。
このままでは遠くない日にそれも崩れ去り、幼子の心は壊れていってしまうだろう。
今こそ他の支柱となるものが必要であるのだろう。


けれど、自分はその支柱にはなれない。
なってはいけない。





「旦那、疲れてるんだよ。もう寝ちまいな」
「それで佐助は何処に行くんだ? 離れるのか?」






嫌だ、と言わんばかりに涙に濡れた瞳が見詰めてくる。
それに応える事は出来ないから、佐助はふいと視線を逸らした。






「離れたりしねぇよ。其処にいるから」
「嫌だ」
「旦那…」
「嫌だ!」
「旦那、頼むから」






自分に縋ったりしないで欲しい。
捨てたはずの感情がまた舞い戻ってきてしまう。
それではこの先、忍頭なんてやって行けない。

幼い主もまた、いつかは己の足だけで全てを支えなければならないのだ。
影となる者では、その支柱となる役目を果たす事は出来ない。











「旦那……」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ!!」
「頼むよ、聞き分けてくれ」










離れようとしない主に、佐助は困惑する。

不安定な心が理解出来ない訳ではない。
けれど主には、“主君と忍”という関係が判らないのだ。










「………頼むよ」










こっちだって苦しいんだ。


届くはずなのに、手を伸ばす事も赦されない。
抱き締められる距離なのに。

護られる事は赦されるのに。
それ以外の事は、赦されない。
その涙を止める事も。





その時。







「佐助」

「……才蔵?」







聞こえた声に返事をすれば、気配が動く。
主はしがみついたままだ。

僅かに感じる、人の気配。
感じ慣れた気配ではない事に気付けば、じっとしている暇はない。






「すまん、旦那。才蔵に呼ばれちまった」
「……嫌だ」
「我侭言いなさんな。あんた、もうガキじゃねぇんだから」






嘘だ。
子供だ。
この主は。

だからこそ、護らなければならないのだ。
牙を持つ己が。

















「佐助!!!」



































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