真っ白な赤子、だから
次に彩られる色は、鮮やかで明るい色がいいと
じっと、間近で見つめあう。
距離は殆ど無いに等しい。
幸村は、じっと逸らす事無く政宗の瞳を見つめていた。
その見つめる眼は何処までも純粋で透明感が強く、けれども少し茫洋としている。
見た目以上にぼんやりとしている赤子であった。
政宗は顎に手を当てて、その見つめる眼をじぃと見つめ返している。
かれこれ何分こうしているのかは判らないが、短いようでもあるし、長いようでもあった。
傍らで呆れた表情をしている忍ならば自分達より正確に時間を把握しているだろうが、尋ねてみるのも面倒臭い。
襟巻の下で「飽きないねぇ…」と呟いたように思うのは、多分、政宗の空耳ではないだろう。
政宗には忍が持つような聴覚はないが、観察眼なら負けずズバ抜けている(それでも忍と比べては天と地ほど差はあろうが)。
だからこういうパターンになった時、佐助が呆れた風に呟く台詞も、この数ヶ月で覚えてしまった。
さて見詰め合う二人が何をしているのか言ったら、別段なんの事も無い。
幸村は自分の興味が惹かれたものに取り付かれているだけで、政宗はやや子を相手にしていただけのこと。
強いて言うなら是は睨めっこにでもなったのかね、と、じっと見つめる幸村を見ながら思う。
こんな年になってまで、睨めっこなんて。
そう思ったらくすりと笑いが漏れて、しっかりそれを聞き止めた幸村の頭がぴくっと動き、
「まさむね、まけ!」
「って、ホントに睨めっこになってたのかよ」
どういう経緯でこの体勢になったのか、政宗もよく覚えていない。
ただ仕掛けた形になったのは幸村の方で、政宗はそれを押し返そうとはしなかった。
取り合えず好きにさせる、というのが政宗の常の姿勢である。
睨めっこに勝って上機嫌になった幸村は、きゃらきゃら声を上げて笑っている。
それに口元を緩め、政宗はくしゃくしゃと幸村の癖っ毛の目立つ頭を撫でた。
またそれに、赤子は嬉しそうに笑う。
赤子、赤子と称したけれど、幸村の体躯は立派に元服を終えたものだった。
小柄であるので歳相応に見られぬのは昔からだったと佐助は言うが、それでも十五はとうに越えただろう。
立ち上がってみれば、頭の位置は政宗の目線の高さよりも頭一つ半低い程度。
少年と呼ぶにも、既に通り越した歳であった。
けれども政宗にとっては今の幸村は赤子同然で、幸村も政宗を親を追い駆けるように慕ってくる。
激動の日々の全てを忘れ去り、真っ白になって、もう一度人生をやり直していると言っても良い。
何せ政宗がこの赤子と対面した時、本当に、彼は何もかもを忘れ去っていたのだ。
生まれたての赤子のように、立ち方も、歩き方も、食事の食べ方も、言葉でさえも―――――本当に。
何よりも敬愛していた主の事、誰よりも信頼していた部下の事、そして政宗と刃を交えた日々、全てを失い生まれて来たのだ。
時間が経てば、記憶が戻る可能性もあった。
けれども、それは途方も無い話で、確証も何もない。
昔暮らしていた場所に戻れば、刺激されて何事か思い出すのではないか、と抱えの老医師は言った。
しかし、幸村が“真田幸村”として生きてきた地は、既にないも同然。
唯一片鱗を残すのが、主を探してこの奥州までやってきた、嘗ての幸村率いる真田隊の長、猿飛佐助のみ。
その部下を見ても幸村が何事か思い出す傾向は無かった。
また、幸村が仕えた武田信玄が治めていた甲斐は、今は尾張の織田信長の領地。
生き残った武田の眷属も衰退を辿っていくばかりとなり、東国最強軍と言わしめた武田の騎馬隊も姿を消してしまった。
幸村が生まれ育った信州信濃の地でさえ、幼い日に見た光景が、今も残っているか危うい。
きゃらきゃら笑う子供の両脇を、佐助が捕まえた。
ひょいっと持ち上げられた幸村は、しばし何が起きたのか判らぬ顔で、座ったままの政宗を見下ろしていた。
今まで目の前にあった政宗の顔が下方にあるのが、不思議で仕方がないらしい。
そんな幸村をきちんと立たせ、振り返らせた佐助は、赤子に物事を言い聞かせるように言った。
「そんじゃあ幸、今度は俺と遊ぼうか」
「さすけと?」
「ああ。竜の――――政宗は、これから大事なお話があるらしいから」
佐助の言葉に、幸村は口をへの字にして眉根を寄せた。
不満がありありと描かれている表情だ。
その顔にこれでもかと言うほど弱い政宗は、いいじゃねえか、という言葉が出かけてどうにか飲み込んだ。
常の気安さで同席を赦されるほど、悠長な事態ではないと思い出したからだ。
立ち上がった政宗に、幸村の黒々とした大きな眼が向けられる。
佐助に掴まえられたまま、幸村は政宗に向かって手を伸ばす。
鍛え抜かれていた筋肉が落ちて、幾らか柔らかな脂肪を帯びてきた手は、本当に赤子のように柔らかで暖かい。
その手を握っている間はとても穏やかな刻が感じられて、政宗はそれを決して嫌いではないのだけれど。
「じゃあ幸、また後でな」
「やーぁ」
「イイ子してろよ」
くしゃりと幸村の癖っ毛を撫でて、政宗は赤子に背を向けた。
やだやだ、まだ遊ぶ、と幸村が可愛らしい我侭を言っているのが聞こえた。
構いつけたい衝動にかられる辺り、すっかり保護者が板についてきたらしい。
しかし、今此処には、更にベテランの保護者がいる(それを言ったらその当人はこれでもかという程の渋面になるが)。
幸村を掴まえている佐助は、決して力で抑えるのではなく、それでも逃げられないようにと器用に確保していた。
「イイ子してなってさ、幸。イイ子してたら、また後で遊んでくれるって」
「いまがいい」
「今は駄目。その代わり、今度は俺が遊んでやるよ」
最近になって、伊達軍にも忍の部隊を導入するようになった。
コソコソするのは政宗の主義に反するが、やはりあればあるで便利なのだ、忍と言う者達の特性は。
折角、戦忍として彼の武田軍で多いに活躍した男がいるのだから、使わない手はなかった。
それでもまだまだ若輩も多く、統率は取れない。
政宗では未だ扱いきれぬ為、それらを統べる物事は殆ど佐助に一任してある。
故に佐助も本来ならば多勢の身であって、子供に構いつけている暇はない筈だ。
しかし余程要領が良いのか、それとも単に染み付いた庇護意識か――――上手い具合に、佐助は幸村の遊び相手をしていた。
政宗にとって、それは歓迎すべき事なのだが――――……近頃無性に腹が立つ気がするのは、果たして気の所為か、否か。
がしがしと自分の頭を掻いて、政宗は子供を相手にする時だけ結んでいる後ろ髪を解く。
無精に垂らしていると、何故だか幸村はそれを掴みたがるのだ。
加減などあったものではないから、最近は幸村の相手をする時だけ、結ぶようになった。
それを解くと、もう構うのはお終いだと、幸村も学習しているらしい。
解けた結い紐を忌々しげに睨むのが可笑しかった。
「夕餉は一緒に食うからよ」
「だってさ、幸」
「うー……」
襖戸を開けて廊下に出ても、幸村はまだ政宗に向かって手を伸ばす。
佐助がその手を取って、お終いだよ、と言い聞かせている。
幸村はそれにムッとして、佐助の(忍にしては目立つ)ツンツンの髪の毛を掴んでぐいぐい引っ張り出した。
「あたたっ! ちょ、痛いって幸! 俺で憂さ晴らししないでよ」
「むー!」
「いや、ホントに痛い…!」
佐助の抗議は最もだ。
頭の中は真っ白な赤子だけれど、幸村の体躯は出来上がった形をしている。
筋力こそ落ちているだろうが、人並み外れた握力までなくなった訳ではない。
それを力の加減など知らずに目一杯使うから、下手をしたら毛根から引っこ抜かれる恐れがある。
このまま政宗がこの場を去れば、幸村の機嫌はそれはそれは宜しくない方向へと向かうだろう。
戻って来た時に赤子が笑いかけてくれる確立は、ぐっと下がってしまう。
出来れば、疲れた会議の後は、子供の笑顔に出迎えて貰いたいものだけれど。
「幸」
閉める為に襖に手をかけて、呼ぶ。
ぱっと振り返る動作が早くて、小動物を思わせた。
「後で、睨めっこの続きやろうぜ」
持っていた髪の結い紐をぽいっと投げると、幸村の手は確りとそれを受け止めた。
畳の上に足を伸ばして座り込んだ幸村は、むぅと判り易く唇を尖らせている。
それでも後で、と約束したからだろうか、もう引き止めようとはしなかった。
いい子だ、素直で純粋で、とても。
「んじゃ、頼むぜ、猿飛」
「はいはい、いってらっしゃーい」
佐助の台詞は完全に棒読みだった。
別に腹は立たない、逆の立場であれば政宗も同じ事をしただろう。
大体、頼まれようと頼まれまいと、佐助は幸村の傍にいる。
表向きの対面として、雇う側雇われた側という線引きはあるが、政宗と佐助の間柄は特に何もない。
この地に幸村という存在がいるから、佐助はこの奥州に残っているのであって、
政宗も、もしも幸村が佐助と言う存在に意識を留めなければ、去っていこうとする佐助を止めるつもりはなかった。
同志だとか言うよりも、ごくごく限定された条件化での個人的な同盟のようなものだった。
預けた結い紐を手の中に握って、幸村は今度は佐助に手を伸ばす。
手甲を身に着けていない佐助の手に、幸村のそれが重なった。
幸村はまだ臍を曲げた顔をしていたが、佐助に抱きついて遊び出す。
――――――それを数秒見つめた後、政宗は襖を閉じた。
擦れる音と、どさりと言う音と。
何とはなしにその音の出所を追い駆けてみると、一際高い松の木があった。
ああ積もった雪が落ちたのかと気付いて、政宗は何気なく足を止めた。
落ちた雪は、真っ白な地面の上に、その真っ白な身を埋めさせていた。
何者にも侵食されないその色は、まるでこれから染められるのを待っているかのように見える。
そしてその色がどんな意味を持つ色であれ、きっと黙って受け入れるのだろう。
白を見て、ふわふわ笑う大きな赤子を思い起こすようになったのは、いつからだろう。
手のかかる赤子を傍に置くようになってから、まだそれ程長い月日は経っていない筈だった。
拾った当初よりも随分言葉は覚えたし、舌足らずではあるけれど、きちんと喋るようにはなったけれど、
遡って思い返してみれば、まだ季節を一つ越した程度のものであったと気付いた。
だというのに、赤子はすっかり、政宗の隣に己の居場所を作っている。
其処に自分がいる事に微塵の疑問を抱くこともなく、まるでずっと昔から其処にいたかのように振る舞う。
政宗もそれを嫌と思う感情は湧かず、甘える大きな赤子を構いつけるのが日課になった。
あの赤子の色は、白だ。
まだ何にも染められていない、純粋な白。
これから染められることを待っている、白。
だから今年の冬に入ってから、雪が降る度、政宗は赤子を思い出す。
その場にいても、いなくても。
嘗ての彼を思い起こさせる色は何かと問われれば、政宗は迷う事無く答える事が出来る。
言うまでもない、真っ赤な緋色だ。
燃えるような紅蓮だ。
轟という音を立てて、天を焦がさんばかりに燃え上がる、真っ赤な炎。
緋色を纏い、時に夕焼けに似た色で弾け、その中心部は潔いほどに真っ直ぐな芯。
虎の咆哮にも似た雄叫びは、今も耳に残って離れない。
“真田幸村”は、それ程に緋色の似合う男であった。
だが、その根はやはり白であったのだろう。
他の色が混濁する隙間もなく紅でそのキャンバスは埋められていたけれど、その下地はやはり白であったに違いない。
―――――ではければ、あそこまで見事に純粋な緋色には染まらぬだろう。
真紅の纏、真紅の槍、その切っ先に真紅の炎。
暑苦しい程に緋色のみで染め抜かれた彼は、その色に相応しく真っ直ぐ過ぎた。
己の信じた道にも、己の慕った人物にも、己が定めた好敵手にも。
………だけど、あの綺麗な緋色は、もう。
「―――――――構やしねぇさ」
あの緋色が見れなくなった事は、今でも残念だけれど。
あの緋色が白に戻ってしまった事は、時折、勿体無かったと思うけれど。
今でも赤子が緋色を纏えば、ああやっぱり似合うもんだなと思うけど。
折角真っ白になったキャンバスを、また同じ色で塗り潰してしまうのも、勿体無いような気がする。
冬が過ぎたら。
雪が溶けたら。
今度は、春の花が芽吹き出す。
奥州の冬は長いから、まだまだ当分先の話にはなるけれど、それでもいつか冬は終わる。
農民達を震えさせる冷気が消えて、梅の花が咲いて、桜が咲いて、筑紫も顔を出して――――――……
寒い間に作った雪だるまが消えてしまう事には、少し顔を歪めてしまいそうな気がするけれど、
初めての春を迎えた赤子は、きっと生まれて初めて見る花々に、庭を駆け回るに違いない。
戦の気配は消えない、いつ何時でも付き纏う。
それでも、赤子が駆け回っている間は、束の間平穏だった。
最初の頃はあちこちで反感もあった赤子の存在だが、最近はそれも落ち着いてきた。
ふわふわとした笑顔は人を安心させる力があるようで、子供は無意識にそれを振りまいている。
「赤子に勝つものはない」
と老医師は快活に笑って言っていた。
それらを、守りたいと思う。
白は白のままこの冬を終えて、春になったら新しい色彩を。
緋色も悪くはない。
ないが、やはり新しい色がいい。
今度はもう少し柔らかな色で、戦など知らぬ色で。
春の息吹に似た色がいい。
――――――本当に、保護者になった気分だ。
「さて、と」
緩みきっている頬をぱしんと叩く。
この顔で軍議に行ったら、綱元と成実あたりに揶揄われそうだ。
小十郎からはしっかりしてくれと言われる気がする。
どさり、また音がした。
空は雲に覆われて、また今夜も雪が降るだろう。
真っ白な赤子によく似た、真っ白な雪。
夜になっても、その白はよく映えて、暗闇に埋もれてしまうことはない。
赤子の真っ白な心も、そうであるなら嬉しいと思う。
部屋を出る時、拗ねて結い紐を握り締めていた顔を思い出す。
早く、睨めっこの続きをしてやろう。
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第二部開始。