戦は、劣勢を極めていた。
反旗を翻した徳川軍を追って長篠まで進軍したが、武田軍は追い詰められていた。
東国最強の武田の騎馬軍を、織田の新型銃が次々に討ち取っていく。
正面切って距離を詰めねばならないだけに、自分達は的になるばかりである。
また武田信玄が先日病死した事も相俟ってだろうか。
戸惑いが未だ拭えずにいる兵もいるらしく、指示が回り切らない。
真田幸村は武田勝頼と共に前線に立っていたが、兵士達がついて来られない。
数では勝っているとしても、これではどうにもならない。
お館様がいれば。
そう思わずにはいられない。
けれど、どんなに願っても我が師は帰って来ないのだ。
ともすれば屑折れそうになる躯を奮い立たせ、幸村は馬上から槍を振るった。
大将の首さえ取れば。
頭を潰せば、自軍の士気が上がる。
敵は混乱に陥り、その間に総攻撃すればいい。
けれど、頭の中で描く戦局と、現実は全く違う方向へと進んでいる。
小さく舌打ちした、直後に声がした。
「真田の旦那、危ねぇぜ!!」
馬上にいる筈なのに、頭上から声がした。
それから真横に刀を振り被った徳川軍がいた事に気付く。
馬で逃げるには間に合わない。
しまった、と思う暇など与えられる訳も無い。
だが身を引き裂くような痛みは全く来ない。
頭上から降り注いだ手裏剣が徳川軍の兵の喉に深々と突き刺さっていた。
「恩に着る、佐助!」
「あいよ」
少し離れた場所にあった木の上。
直属の部下である忍、猿飛佐助が立っていた。
短い感謝の言葉の後、佐助は片手を上げて返事をし、姿を消した。
何を呆けているのだ。
此処は戦場。
一瞬の油断が命取りになる。
幸村は一度深く息を吸い込み、馬に鞭打つと同時に喝と共に吐き出した。
尊敬する師であり、主君である武田信玄の上洛は叶わなかった。
彼の為に、天下統一を目論む彼の為に幸村は槍を振るってきた。
天下を取るべきは我が主たった一人だと信じて。
けれど、病魔が全てを奪い去った。
それでも武田軍は止まらない。
主がなくなったとて、天下統一の夢はまだ生きている。
志半ばで倒れた主の無念は、幸村には計り知れないものだろう。
唯一判るのは、主の願いを最後まで叶える事が出来なかった自分の弱さが悔しいと言う事。
天下を取った後の、主君の姿を見れなかった無念。
だからこそ幸村は、進軍を止めなかった。
ここで徳川・織田の連合軍を打ち破れば、天下統一への道は一気に縮まる。
止まる訳には行かないのだ――――いなくなった主君の為にも。
「退けぇえええええぇぇぇ!!!!!!!!」
道を塞ぐ敵軍に咆哮を上げて突っ込んでいく。
大なる無理をしてでも、大将の首さえ取れれば。
此処で自分が死んでも、武田の軍はまだ残る。
終わる訳には行かないのだ。
「我が名は真田源二郎幸村! 命惜しくば、道を開けよ!!」
幸村の名は、武田信玄並びに武田の騎馬隊と同じくして知れ渡られていた。
若干15歳にして武田信玄の右腕となり、双槍術を使いこなす日の本一の兵。
炎を纏い、前線にて乱舞の如く戦う男。
槍を振り上げれば、炎が天を焦がす。
敵軍の兵士が怯んだ隙に、幸村は馬を奔らせる。
しかし道が開かれた瞬間―――――――幸村は、馬を止めた。
まるで花道。
右と左に、綺麗に分かれた両軍。
その花道の反対側に、聞こえの高い織田信長が立っていた。
全身から汗が噴出してくる。
対峙しているだけで、彼の力量がはっきりと伝わって来る。
尾張のうつけとはよく言ったものだ。
まるで戦う為だけに生まれてきたような存在。
禍々しさを感じるのは、自分が気圧されているという事だろうか。
「……幸村殿」
「…勝頼殿か…」
気付けば周囲の戦の音は消え、静まり返り、視線はこちら一点に向けられていた。
これは、決闘でもしろという事なのだろうか。
(……上等だ)
大将自ら、首を差し出している。
この戦局、これ以上の好機は無い。
「勝頼殿、お下がり下さい」
「しかし幸村殿、これはどう考えても罠ですぞ」
「……だが、今という好機も二度とない」
罠であっても、この程度の事で武田軍は敗れはしない。
その意味も篭めて、勝頼に視線を寄越す。
信玄と共に数々の戦を乗り越えてきたのだ。
今になってそう簡単に敗れる筈が無い。
幸村は馬上から降り、両手の槍を握り直した。
両者の距離は、訳3間。
織田は鉄砲ではなく、筒の長い片手持ちの新式銃を使うと聞いた。
距離を詰めなければ、撃ち殺される。
風が吹いて、幸村の長い髪と織田の羽織が流れて踊る。
幸村は双槍を掲げ、回転させる。
風を切る音が何度か聞こえた後、ごぉ、と烈火の燃える音。
織田の軍勢がざわめいたのが聞こえ、武田軍から歓声が上がる。
ある種の異能である幸村の発火能力は、武田軍に取って戦神の象徴であった。
逆に言えば、敵軍からすれば未知の脅威の能力だった。
回転を続ければ、徐々に炎が大きくなってくる。
最初は矛先だけにあった炎が、柄まで包む。
熱くは、なかった。
慣れ親しんだこの熱は、幸村の沸点にあっと言う間に達する。
此処を切り抜ければ、天下統一まであと少し。
織田を倒し、徳川を討ち、織田の臣下である羽柴の首を取る。
脅威となるのは、この三軍だった。
後が取るに足らない訳ではないが、この三軍を討てば天下取りへの終わりは見えたようなものだ。
「――――――――――――参る!!!!」
地を蹴り、奔った。
勝負は一進一退を繰り返す。
距離を詰めた幸村は自慢の槍術で織田の剣撃を防ぎ、連撃を繰り出す。
槍を受けるだけなら織田も超然としていられるのだろうが、炎が脅威となる。
一度受けて流したつもりでも、炎が掠りでもすれば火傷が出来る。
豪快な攻撃を繰り出す幸村に、織田も押されていた。
だが距離を取られると、織田のショットガンから逃げ回る羽目になる。
何処へ行こうと、その銃口が狙っている。
矢と同じように払い落とそうにも、獲物が小さ過ぎた。
最初に、右脚を撃ち抜かれた。
踏み込む時に力が入らない。
次に、左肩を撃ち抜かれた。
赤い纏の所為で紅は見えなかったが、槍が上がらない。
脇腹を撃たれて、少し派手に出血した。
こめかみを撃たれて、血が目に入って視界が悪くなった。
誰かが、もう止めてくれ、と言ったのが聞こえた。
まだ年若い幸村が一人で、血塗れになっている。
武田軍の年配の男達は、幸村を息子か孫のように接してくれた者もいた。
見ていられなくなったのだ。
だが、幸村は止まらない。
「大車輪!!」
距離を詰め、回転させた槍で織田の体を浮き上がらせる。
それを中空へ追い、槍を叩き付けた。
しかし織田の刀がそれを防ぎ、逆に力技ですっ飛ばされる。
信玄ならば受け止めきれただろうが、如何せん、幸村の躯は軽かった。
躯を地面に叩きつけられた勢いを殺されぬまま、地面を抉って擦られる。
背中が痛い。
「そろそろ下ってはどうだ」
「…黙れ……っ…」
嘲るような織田の言葉に、幸村は悪態を吐きながら起き上がる。
「天下を取るは、我が武田也!!」
しっかりと地面に立ち、槍を構えた。
「お前の主は、もうおらぬだろう」
「お館様亡き後も、武田は終わらぬ! 我らと共に、お館様の意志がある!!」
「……詭弁だな」
「抜かせ!!!」
詭弁であれ、なんであれ、幸村は本心からそう思っている。
師であり主君である武田信玄と共に、己の命と意志はある。
幼い頃から、誰に言われるでもなく、幸村は心に決めていた。
命も意志も、全て彼の為に捧げて果てるのだと。
そして己が果てるのは、信玄が天下を取った後なのだ。
それまでは何があろうと、朽ち果てる事はない。
「仕える事を知らぬ貴様には判らぬ!」
「フン……よく吼える狗だな」
「狗で結構!! 俺のたずなを握るのはお館様だけだ!」
誰になんと言われようと。
誰に何を詰られようと。
自分が主君に全てを捧げている事は事実だから。
そして、それを後悔した事など一度も無いのだから。
どれ程の牙を向けられようと、幸村は意に介さなかった。
「わしには……哀れに見えるがな」
織田の言葉に、一瞬、幸村の動きが止まった。
それを突かない手はないだろう、なのに織田は動かなかった。
幸村の手が震えていた。
それを誤魔化すように、幸村は槍を強く握り締めた。
端正な顔は般若のように歪められる。
「図星か」
「黙れ――――――――――――っっっっ!!!!!!!!」
叫びに近い咆哮が上がり、幸村が地を蹴り、爆発的に加速した。
距離を詰める間に炎が舞い上がり、幸村を包み込む。
円を描いて、炎が踊る。
それを織田はその場から動く事もせず、ただ刀で受けていた。
判っている。
判っていた。
判っているつもりだった。
どんなに願っても、どんなに望んでも、尊敬した人は帰って来ない。
幼い頃から、それは十分に判っていた。
両親を亡くした時も、戦で誰かを喪った時も、もう帰って来ないのだと知っていた。
それは対象がなんであれ同じ事で、消えた命は戻っては来ないのだ。
消えた命を追いかけて、その意志を追いかけて、奔り続けてはいたけれど。
どんなに追いかけたとて、追いつくことは有り得ないのだ。
頭では判っていても、心が拒絶する。
幼い頃から、ずっとそうだった。
帰って来るはずが無いと頭では理解しているのに、そう思えば思うほど、胸の内が悲鳴を上げる。
痛みを伴い、悲鳴を上げて、それでも止まる事は出来ないのだ。
止まれない理由が一体なんであるのか、幸村にはもう判らなかった。
逃げているようにも自分でも思えるし、己を膝突かせない為であるとも思える。
けれども、確かに自分は未だ止まれないのだ。
主がなくなったとて、武田は未だ消え去る事は無い。
彼の忘れ形見のようになってしまった今は、尚更。
そうして、槍を握る度に。
思い出すのは、初めて師と手合わせした日の事。
大人を負かすほどの槍術を早くに物にしていたが、彼にだけは敵わなかった。
畏怖していたのではなく、本当に勝てなかったのだ。
二槍となって久しい今でも、勝てないままでいる。
もう二度と―――――――手合わせする事は、ない。
そう思うと、不意に目尻から熱いものが零れそうになるのだ。
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