底の入り口

















闇の隣にいるのは、俺











だからアンタは、光だけ追い駆けていればいいんだ




































あれは、いつの話だっただろうか。
まだ主が十にも満たない頃だったか、それとも丁度それを満たした頃だったか。

曖昧なのは主がいつまで経っても幼いままで、代わり映えしないからなのかも知れぬ。
一応、背は伸びたし戦の腕もめきめきと頭角を現してはいるのだが、如何せん中身の変化がない。
それを本人の前で言ったら、間違いなく烈火の如く怒り出す事だろう。
それもいなす自信が佐助にはあるものだから、あまり意味を為さないだろうけれど。




とにかく、はっきりと覚えているのは、まだ自分は真田隊の長としての自覚は然程持っていなかったと言う事。
“自分が長”という概念は頭の中にあるものの、それ故に自分が何を見聞きしなければならないか、今ほど考えてはいなかった。
幾ら肩書きが重かろうと、所詮は自分も一介の子供に過ぎなかったと言う訳だ。
それによって降りかかる重みがどれほどのものか、まだまともに認識していなかった。

だがそれでも今も昔も変わらず頭の中にあったのは、主が主であるという事。
それまでただ手を煩わせてばかりだった、兄弟のように育った幼い子供を、これから主と呼ばねばならなくなった事。
他の物事が何もかも曖昧で、幼いながらに何処か手探りであったのに、其処だけはいつも確信して疑わなかった。
事実それは寸分の間違いもなかった訳だが。

ただ主の気持ちだけを置いてけぼりにして作り上げられてしまった組織図の成り立ちに、
その置いてけぼりにしてしまった子供を可哀想だと思う気持ちは、まだ残っていた。


父を失い、兄を失い、突然かかった重圧の意味も全く判らないまま、子供は主にならねばならなかった。
この戦国の世に甘えは言っていられないけれど、それでももう少し遅くても良かったんじゃないかと佐助は今でも思っている。




そう、その頃だ。








その頃、もともと感受性豊かであった子供は、更に過敏になっていた。





































父を、兄を失くして悲嘆にくれていた幼子も、幾日かすれば落ち着きを取り戻した。
まだ夜半に涙が零れるのは収まらず、朝になれば真っ赤な目をしているのだけれど、一睡も出来たなかった頃に比べればましだ。
その背に負った重みにはまだ気付いてはいないようだったが、其処まで急かす必要もないだろう。

佐助は出来る事ならその幼い肩を抱いてやりたかったけれど、自ら引いた線を、自ら越えることは出来ぬ。
まんじりとした感情を胸の中に抱いたまま、それが燻るのも無視して、佐助に赦されたのはただ見守る事とのみ。


幸い、支柱となる人物は別に存在してくれた。
支柱となり基盤となるのは、幼子の父、そして兄が仕えていた甲斐を収める武田の虎。
もとより幼子もいつかその人物に仕える事になったのだろうが、少し早い邂逅を厭う者はいなかった。
子供の縁者が部下となる真田隊の面々しか残されていなかったのだから。

部下や忍では、主の支柱になる事は出来ない。
それを側面で支える事は出来ても、直接基盤と成り得ることは出来なかった。
主の手足となり、時に命をも削り使い果たすそれらを、支柱にしてしまっては待つのは主の破滅しかない。
だから本音を言えばきっと誰よりも主を支えたかったのだろうけれど、誰も手を差し伸べる事はなかった。




偶然に偶然が重なったか、それとも必然がもたらしたものか。
そういう事は別段信心深くもないものだから如何でも良かったりしたのだけれど、佐助とて安堵したのは確か。

少しずつ動き始めた主の時間を、これからは自分が守り通さねばならない。
いつ知れず訪れるであろう死に恐れる事無く、生き残る覚悟を持ってして。







けれども、やはり幼い子供が一人で立つにはまだ早い。







月のない晩だった。

忍にとっては何よりの味方である新月の夜闇は、幼子にとって別のものを運んできた。
それは時によって悲嘆の再来であったり、暗闇による孤独だったり、静かな中に響く小さな音の緊張だったりした。
過敏になっていた幼子にとっては、無理のない話だったかも知れない。



けれど、それから何年の歳月が過ぎても、佐助は忘れられない、笑い飛ばす事すら出来ない事がある。












「さすけ、さすけ」









呼ぶ声に振り返れば、小さな主が泣きそうな顔で佐助をじっと見上げていた。


また何か怖い夢でも見た?


関係の形が変わっても、変わらぬ口調でそう言うと、主はふるふると首を横に振った。
じゃあ、と一つ一つ、此処数日で何度となく主が夜半になって言い出した事を繰り返して問うてみる。
厠に一人で行ったら外から唸り声が聞こえたり(実際は風が鳴いていただけだったのだけれど)、
部屋に戻ろうとしたら誰もいない筈の行灯が勝手に消えたり(隙間風が吹いただけだ)、
床の下から物音がしたり(これについては今でも判然としない。探ってみたが気配もなかった。動物だとは思う)。

些細な事に肩を震わせるのも、この時分ばかりは仕方がない話だった。
名家の生き残りの唯一の子供として命を狙われている事を知ったのも、この時だった。
だからそれらについて過敏になっても無理はなかったのだ。




けれど、主はどれも違うと言った。


じゃあ何?


佐助は聞いた。
なるべく、子供を安心させる為にいつもの声で。









「なにか、いる」










何分、子供だ。

軽い混乱もあったのか、それがどういう形をしているのか、そういう事は言わなかった。
否、言い表せるような形すらなかったのではないだろうかと、佐助は今になって思う。
奇妙奇天烈な形をしているとかそういう事ではなくて、形と言う概念から切り離されたものだったのではないかと。

あの時は自分もまともに頭が回らなかったから、そういう事まで思わなかった。
ただ、目の前の幼い子供が酷く哀れに見えたばかりで。




何かって、何が?


足りなかった言葉を少しずつ、順番に導き出そうと思った。


どんな形してんの?








「……わからない」







じゃ、どんな色してんの?







「……まっくろ」









聞き出せたのは、精々それだけ。
後は大きさを聞いても、動物のように鳴くのかと聞いても判らないと言っただけ。

話す度に恐怖感が蘇るのか、ついに泣き出した子供を佐助はあやした。


何もいないよ、何もいないって。ほら、目ぇあけてみな、何もいないよ。


そう言うとそっと主は目を開けて佐助を見つめた。
瞬間、その顔が強張ったのを見た時は、佐助も反射的に後ろを振り返った。
其処に何かいたという気配はなかったけれど、時折忍以上に鋭い勘を持つ主の反応を見逃す事は出来なかったのだ。
誰も気付かぬ内に何か忍び込んでいたとしても、あの時はなんの不思議もなかったのだから。

けれども佐助が振り返った先にあったのは、見慣れた屋敷の面立ちだけ。
何も其処に変わった気配もなければ、当然見慣れぬ者もいない。



だけれど、主の顔は強張ったまま。

その顔があまりにも怯えに染まっていたのが見ていられなかった。
せめて撫でるぐらいは赦されるだろうと祈りにもにた思いで手を伸ばした。

そうしたら佐助の手が主に触れるよりも先に、主が線を飛び越えてきた。
まさかそれを退ける訳にも行かず、何よりその温もりを厭う理由が自分の中になかったから、そのままそれを受け止めた。
幼い主を腕の中に抱く事になったのは、幾日振りの事だっただろうか。
記憶の中に封印したつもりだったそれと、現実のそれとは寸分も違いもなかった。



取り縋ってきた主の薄い肩はやはり震えていた。


ああ、じゃあもしかして幽霊でも見た?


幼い子供と言うのは、どういう訳かそういったものに酷く敏感だ。
生憎佐助にそういう感はなく、そういう類のものがいると言っても今一信用ならないというか、実感が湧かなかったけれど、
主が言うならそうなのだろうと主の言うことを疑った事は殆どなかったと思う。

けれども、この時主はまたしても首を横に振ったのである。
見たものは言い表せる形を持たず、ただ闇色を纏い、けれどもそれは幽霊ではないのだと。



じゃあ何? と佐助が再度問うよりも僅かに早く、主は言った。






















「なにかが、さすけのうしろにずっといる。ずっとさすけをおいまわしてる」






















佐助をそれが追い回しているのか。
佐助がそれを常に纏っていたのか。

今にして思えばそれはどちらも正解であったのだ。


主が垣間見たのは、きっと主は見なくて良かった筈のものだった。
知らずにいて良かったもの、知らないままで良かった筈のもの。
本来なら垣間見ることもなく、そんなものが存在する事さえ知らないままで良かった筈の。

それを望まぬまま主が垣間見てしまったのは、生来の感受性の豊かさ故でもあったし、この時期での過敏さあってのものだった。
だってそれは随分昔から佐助が纏うようになったもので、その間主は何くれとそれに気付く様子も殆どなかったのだ。
時折、佐助を何かから気遣うような、悲しそうな顔はして見せたけれど、怯えた顔は一度もした事が無かったと思う。
主がこの事を口にしたのは後にも先にもこの一回切りで、やはりこの頃の主が酷く敏感になっていたことを教えてくれる。




何に敏感だったのか。
他でもない。

身近な者が纏う、死臭だ。










「ずっとさすけのうしろにいる。ずっとさすけをおいかけてる」









まさか本当にそんな匂いがした訳ではないだろう。
けれど失う事に酷く過敏になっていた子供は、無意識の内にそれを垣間見てしまった。
兄を失う夜に感じた夢の中で感じたそれを、現実の中で認識してしまった。


不憫だと思った。
知らなくていいことを知ってしまった子供を。

そしてそんな匂いを纏って主の傍にそれでもいたいと思う自分が浅ましいと思った。








「さすけのうしろで、ずっとさすけをおいまわしてる」








ぎゅう、と強くしがみついてくる小さな手が、熱くて優しくて、愛しかった。









「いつか、そいつがさすけをつれていきそうで、いやだ」









主の瞳から溢れ出した涙が、佐助の着物を濡らした。



本当に、この時の幼い主はよく泣いた。
感情の起伏が豊か故にもともとよく笑いよく泣く子供であったが、この時はそれに輪をかけて泣いていた。
涙腺が完全に故障して、些細な事でもすぐに泣いていたものだ。
それを宥めてやるのはいつも佐助で、ほんの数ヶ月前までは本当に赤子をあやすように抱き締めてやっていた。
線を引いた今となってはそれを自分で戒めたから、頭を撫でてやるぐらいしか出来なかったけれど。

今は主の方に線を越えられてしまって、もうこうなったら仕方ないかと佐助は思っていた。
朝になったらまた線引きは新しくなるから、今だけはそれを無視しようと思った。










大丈夫だよ、なんにもいないよ。



「いる。いまもいる。さすけのうしろにいる」



見える? 怖い?



「きらい。そいつがきらい。佐助をつれていく」



俺は何処にも行かないよ、前にも約束したじゃない」



「でも、そいつがさすけをつれていきそうでいやだ」



大丈夫だよ、俺はいなくなったりしないから。










あの時の言葉は、本当に不確定なものだった。
それでも泣きじゃくる主を宥めるには、そんな陳腐な言葉以外に何もなかったのだ。
不確定なそれを信じようと見上げてくる瞳に笑いかければ、ようやく僅かな安堵を抱くように瞳の光が和らいだ。
それに少しだけ痛みを覚えたのを、今でも佐助は知らない振りをし続けている。


主が感じ取った死臭が果たして何を示したものだったのか、それは佐助にも判らない。
それまで摘んできた名も知らぬ同業者達か、己を苛もうとしていたものか。
結局それから数年経っても佐助は生きていたから、前者であったのかも知れぬ。

前者のそれらが、佐助を連れて行こうとしていた。
主のいう事と組み合わせると、そういう事になる。
あながち外れてはいなかったな、と佐助はあれから数年経ってから思うようになった。
やはり主の勘と言うのは、時として忍以上のもので、一種の動物的な本能もあるのではないか。
だから普通なら見る事もなかったものも、そうして垣間見てしまったのだろう。






泣きじゃくる主をあやしながら、佐助は早く夜が明けてしまえと思った。
この新月の夜が終わってしまえば、主が見たという闇色の形のないそれも、朝日に溶けて消えるだろう。

























……底の国への入り口も、その時きっと閉じる筈。





























また訳判らんもの書いてごめんなさい(滝汗)

佐助の昔話、回想のつもりで書いてました。
でもやっぱ途中でごちゃまぜになってたり……
急に昔話風でシリアスまがいが書きたくなった。


“置いていけない”でちらっと書いた昔話とちょっとだけリンクしてます。
お兄ちゃんが死ぬ前日の云々の辺りだけ。

しかし、私は佐助の過去をどんだけ暗くしたいのだろうか。



底の国(そこのくに)

地の底の国。死者が行くとされた、地面の下にある国。
類:根の国、黄泉。