袖に時雨るは朱の涙
泣けないかわりに空が泣いて
泣けない俺にあんたが泣いて
………泣かない俺は、あんたにどんな顔をしたらいい?
ぬる、とした感触が佐助の手の全体を覆っていた。
きっと一生慣れることはないんだろうと思う。
見下ろした自分の手は赤黒い生ぬるい液体によってすべて隠されている。
別段それを気持ち悪いとか思わないのは、生来からどうも芯が冷え切っているからなのだろうか。
もう少し表情筋が判りやすく動いてくれたら、年相応の可愛げだとか、そんなものも見えるようになるのか。
でもきっと、こんな状態でこんな事を考えている時点で、きっとそんな物とは縁遠いのだ。
もうすぐ元服を迎えるけれど、佐助はそういう事を実感した覚えはない。
そもそも子ども扱いされることは滅多になかったし、それは忍として当たり前のことだ。
物心つく以前には既に呼吸術は心得るようになっており、鍛錬は日常の一つになっていた。
だから今年で幾つになったとか、そういう事はあまり聴かれることはなかった。
忍は人間ではないのだから、それもまた当然のようにも思う。
佐助とて唯一例外がない訳ではないけれど、それを少しでも離れれば、佐助の心は既に切り替わっている。
どちらが本来の佐助であるのかと聞かれれば、おそらくどちらも本来の気質のものだと言える。
割り切る性格であったから――――と言えば、納得されるだろうか。
それにしても。
随分と簡単なものなんだな、と佐助はぼんやりと思った。
ほんの少し捻っただけだ。
少し力を篭めて刃を押し付けて、横一線に引いて、掴んだ首を捻っただけ。
それでなんの抵抗もなく目の前のそれは肉塊となり、赤い噴水を撒き散らしながら地面に落ちた。
吹いている赤い液体が顔についたけれど、思うのは鬱陶しいなと言う事だけだ。
人を殺したのはこれが初めてだったけれど、生き物を殺したのまで初めてという訳ではない。
兎や鶏を締めた事もあるのだが、思えばあれらの方がもっと梃子摺ったような気もした。
………取り合えず、片付けないと駄目だよな。
目の前で湧き上がっていた噴水が収まってきたころに、佐助はようやくその考えに至った。
やけにのんびりして思考回路が回っているのは、自分でも気づかぬ内に何処かで動揺しているからだろうか。
自分はこうしていても平気だけれど、いつも自分の後ろをついて来る子供は平気ではない。
佐助と違って年相応―――以下のようにも思うけど―――だから、こんな惨事は見せられない。
それから後で風呂に入って全部流してしまわないと、こんな姿を見られたら、泣き出してしまうに決まっている。
裏庭に埋めたんじゃ、すぐ見つかるか……
あそこは地面が柔らかいから穴が掘り易いのだけど、雨上がりの日はよく泥遊びに使っている。
そんな所に埋めたらうっかり見つかってしまいそうだから、あの場所は却下。
……林なら。
然程離れた場所にある訳ではない、林。
夏になったらよく蝉取りなんかをしたりもするのだが、今は春。
季節が変わるまでになんとかすればいいか、と佐助は決めた。
地面に転がっている首のない人間の形をした入れ物は、佐助よりも随分と大きい。
けれども佐助は意に介さず、その入れ物を背負い上げた。
魂一つ抜けた入れ物は確かに重いのだが、佐助が苦になるほどではない。
長い不精にされている髪は少々鬱陶しかったが、文句を言ったところでどうせ意味はないのだ。
無表情で歩き出した佐助の後ろを、点々と真新しい赤い液体が跡をつけて行く。
あれも後で隠さなければいけない。
意外とやる事が多いんだなと思いながら、佐助はちらりと灯の消えた屋敷を見遣る。
じっと一つの部屋を見つめるけれど、其処の障子が開かれる様子はなかった。
それに少しだけ安心して、背中を向けてまた歩き出す。
………月は、雲で隠れていた。
ぽつり、と鼻先に雫が落ちた。
見上げてみれば木の枝々の隙間から空が覗き、其処からまた小さな雫が落ちてくる。
………雨か。
入れ物の入った穴を埋める手を止めて、佐助はしばしそれを見上げていた。
地面に両膝をついて穴を掘り、そして埋めていた佐助の手元は土で汚れている。
寝巻きだった筈の着物もそれは同じで、けれどそれよりも赤黒い色が闇の中でも目立った。
入れ物の入った穴は、もう少しで全てが覆い隠される所だ。
けれども、見えなくなってしまう前に、佐助は適当な石を固めて置いておいた。
後日の後処理の時に場所が判らなくなってしまわないように。
墓石なんて気の利いたものを作る気はないし、そんな義理もない。
ただ無残な姿を晒されないだけ、きっとこの入れ物は良かった方なんじゃないだろうか。
返り討ちにされた暗殺者が野晒しにされ、野犬に食われるなんて、ざらな話だ。
…別にそれでも良いけど。
ただ、それだと見つかる可能性が高いから、それが嫌なだけ。
なるべくあの子供の目には見せたくない光景だから。
最後の部分に砂を入れれば、其処にはもう何も見えない。
其処に立っているのは佐助だけで、周りは風に揺れる林があるだけだ。
雨はほんの数秒の間に激しさを増し、佐助の体の泥を洗い流していく。
これなら風呂に入らなくても、と思った佐助だったが、直ぐに考えを改める。
泥や赤黒いのは消えたけれど、匂いはまだ残っているのだ。
あの子供が判るとは思えないけれど、変な所で敏感だから。
いや、それよりも。
………俺、人殺したんだな。
「さすけ」
呼ぶ声に顔を上げると、いつの間に目覚めてしまったのだろうか。
佐助より随分小さな子供が、縁側に立ち尽くしていた。
見られたりはしていない。
だから佐助は、驚く顔もせずに、微笑んだ。
「なんだよ幸、起きちまったの?」
「……佐助が、いなかったから」
全く、相変わらず佐助の気配にだけは敏感なのだ。
「…何処に行ってた?」
「厠。だったんだけど、ちょっと月夜のお散歩しててね。降られちまった」
失敗失敗、と。
おちゃらけたように佐助が言えば、幸村はじっと佐助を見つめてくる。
真っ直ぐ過ぎる瞳は一切の闇を持たずに、きっと自分とは正反対なんだと佐助は思う。
時折その真っ直ぐ過ぎる瞳に痛みを覚えたりするのだけれど、佐助は何も言わずにそれを受け止めた。
だって目をそらしたりしたら、この子供は直ぐに拗ねてしまうのだ。
草鞋を脱いで縁側に上がると、当たり前のことだが、雫が床に落ちて水溜りを作った。
明日の朝には乾いているだろうとは思うが、一応明日の掃除は念入りにした方が良いだろうか。
上から下までぐっしょりと濡れた着物の裾を絞りながら、佐助は思う。
暗闇の中だから、きっと佐助の着物の汚れがなんであるか、幸村には判らない。
突然の雨雲は空を追い隠し、一切の光を遮っているから。
「ちょっと着替えてくるから、幸は布団に戻ってなよ」
いつものように幸村の頭を撫でようとして―――――止める。
手のひらをひっくり返して、軽く小突くだけにした。
幸村はそんな佐助をじっと見つめている。
すぐ戻るから、と良いながら、佐助は幸村に背を向けた。
しかし。
歩き出そうとして、背中に当たった温もりに阻まれる。
「泣きたかったら、泣いていいぞ」
告げられた言葉に、一瞬鼓動が跳ねたのが判った。
見られていない。
気づかれていない。
だってあの時、幸村はまだ布団の中にいて、起きた気配もしなかった。
佐助と違って忍などではない幸村は、気配を隠すなんて事を得意としない。
だから幸村があの時目覚めてしまっていたなら、気付いていたという自信が佐助にはあった。
だけど背中を捕まえる幸村は、まるで全て見ていたようで。
「……何かあったら、泣いてもいいぞ。佐助が泣いたら、私が慰めてやれるから」
降りしきる雨の中で、不思議と幸村の声は消えなかった。
だけど判る、幸村の声が震えているのが。
「…泣かないよ。泣く理由がない」
「……佐助」
「泣くような事はしてない」
「でも」
幸村のように些細なことで笑うこともないし、泣くこともない。
それは道具である忍としては普通のことだ。
感情が容易く表に出てしまうようでは、忍ぶ事など出来やしない。
「佐助、嫌な事があったんだろう?」
「なんにもないよ」
「だって佐助」
そう、何もない。
何もなかった。
佐助の中で、それは揺るぐ事はない。
「佐助………」
何もなかった。
心に残ることなど、何も。
だから背中に聞こえる泣きじゃくる子供の声は、雨の所為で聞こえない振りをした。
“純粋と言う名の”で似たような幸村を書いたなぁ。
幸村は“気付いていない”でしたが、今回の佐助は“気付かない振りをしている”です(判りにくいわ)
“袖に時雨る” 衣の袖に時雨(しぐれ)が降り掛かるということで、悲しみの涙で袖が濡れる喩え。
“朱の涙” 涙が出尽くすと血が出るといわれるところから出た言葉。酷く悲しんで泣く事を言う。