言霊に返す言葉
………今、少しだけ
託してみても、いいだろうか
ちょいと失礼するよ。
治療の為に押し込まれた布団に落ち着いて、読書していた元親の耳に届いた声。
不思議な事にそれが聞こえてきたのは天井で、これが未だに慣れずにいる。
しかし此処では普通に起きる現象らしいので、居候状態の元親に意見する事は出来ない。
どんなに傷に応える程に唐突であったとしても、だ。
まぁ、今日ばかりはこの声がそろそろ聞こえてくるだろうとは思っていた。
何せ事前にそういう連絡があったものだから。
暇潰しにと持って来てもらった本を閉じて、天井に目を向ける。
かたり、と一枚の天井板が外された。
ひょいっと其処から顔を出したのは、この国で忍隊の長を務めている男。
「こっちに旦那来てねぇかい?」
「……いんや。今日はまだ見てねぇぜ」
あの忍の顔を、元親はこの距離でしか見た事がない。
床と、高い天井の距離だけしか、知らない。
元親が怪我人とは言え、その警戒心は持っていて当たり前のことだ。
包帯を取り替えて薬を塗られる時だって、いつだって一対複数の姿勢を崩される事はない。
何せ織田に敗戦し、落ちぶれ同然に甲斐に逃げ込んだとは言え、やはり自分が四国を平定した事実は変わらない。
元親とて天下をと臨んでいなかった訳ではないのだから、何を仕出かすか判らないと監視されるのは当たり前だ。
それでもこうして、忍隊の長の顔を覚えるまでに、元親は此処の人間と会話するようになっていた。
手当てをしてくれる侍女の顔も声も、部屋の外に立っている見張りの者の影形も判るようになってしまった。
最も見慣れてしまった顔は、もっと別の顔だけれど。
忍隊の長は、元親の返事にそうかぃ、と呟いた後、少々不躾に部屋を見回した。
そしてある一点をしばし見つめてから、
「邪魔したな」
「そりゃあ俺の台詞だろ。邪魔させて貰ってんのはこっちだ」
「まぁ、そりゃそうだ。んじゃ、ゆっくりしてよ」
言って忍隊の長は、また天井板の裏側へと引っ込んだ。
彼が顔を出していた場所の板は戻されて、何事もなかったかのように其処を埋めている。
……あの台詞もどう受け取れば良いものだろうか。
ゆっくりする以外にないので、言葉どおりにはさせて頂くしかないのだけれど。
天井裏から気配が遠退いていくのを察しながら、元親は持っていた本を放り投げた。
読書なんて随分久方振りのものだったが、然程悪い印象はない。
だがやっぱり、元親自身、じっとしているのは好きではないと自覚がある。
外で暴れてぇなぁ。
無論、此処は自国の四国ではないし、居候の身なのでそんな真似は出来ないのだが。
だが大人しくしていなければならない時間が増えるほどに、元親の中で燻るものがある。
火縄銃の火薬の匂いや、朱天の地響き。
富嶽の轟音、立ち上る硝煙。
そして、慕う者共の幾つもの声。
それらが無いのが、酷く落ち着かない。
何時になったら、四国へ帰れるのだろうか。
既にあの地は織田の領地となったから、奪い返さぬ以外に道は無い。
けれども目の当たりにした強さは元親とて忘れた訳ではなく、不甲斐ないとは思うが、今闘り合って勝てる自身はなかった。
戦はやってみなければ判らぬものと言うけれど、こうして机上の算段で容易く結果が見えるうちには、幾度やっても無理だと思う。
火を放たれたのを覚えている―――遠くで燃え上がった、全てを灰と成す色を。
あの炎の場所に、一体どれ程の人間がいたと言うのだろう。
きっとまだ生きていた者もいたのに、あの業火に全てを奪われたような気がする。
せめて、あれらの想いを汲みたい。
元親の治める四国が好きだと言った者の想いを。
……けれども今の元親には、愛用している碇槍を握る事さえ叶わぬのだ。
ああ、やっぱりじっとしているのは苦手だ。
こんな事ばかり考える。
元親は小さく嘆息し、もう眠ってしまおうと眼を閉じた。
が、しかし。
「……大丈夫でござるか?」
聞こえた声に、元親は跳ね起きる。
慌てて部屋を見回してみれば、押入れの中から覗いてくる大きな瞳。
まるで目印のように自己主張するのは、額に巻いてある紅い鉢巻。
幼い表情をしているそれは、きょろきょろと部屋を見回し、次いで天井を見てからようやく安心したようだ。
四つん這いで押入れから出て来る姿は、悪戯をして見付からないようにしている子供のようである。
真田幸村だ。
彼の名前はこの甲斐から離れた四国にも届いており、彼の真田家の次男坊であると聞き及んでいる。
歳は元親より随分下だが、槍を持てば天覇絶槍、主君・武田信玄への忠誠心は折り紙つき。
鬼が島の鬼と名乗っている元親にしてみれば、紅蓮の鬼と呼ばれる彼が気にならなかった筈がない。
……だから最初に彼を見た時、この子供が“あの”幸村だとは、思いも寄らなかったのだ。
「長曾我部殿、あまり動かぬ方が御身の為でございますよ」
「いや……あんたがいて驚いたんだけどよ…」
元親の布団の傍に落ち着いた幸村は、何故か楽しそうに笑っている。
きっと、先ほど忍が自分を探しにきたと判っているのだろう。
そう言えばあの忍は、今まで彼が隠れていた押入れの方をじっと見ていたか。
…あれは、気付いていながら見逃してやったのだろうか。
「それは相すみませぬ。何せ他に良い隠れ場所も見つからなかったもので」
「ってーか、あんた達は年がら年中隠れ鬼でもしてんのか?」
元親がこの甲斐に来てから、幸村と先程の忍の顔はよく見ている。
それは幸村が何かと元親の部屋を訪れるからで、忍はそれを追いかけて来るのである。
「別にそういう訳では……」
「俺が此処暫くの間で見たのは、あんたら二人が追いかけっこしてる所だけだぜ」
「あれは佐助の奴が勝手に私を追ってくるのです」
言って幸村は頬を膨らます。
その仕草もまた、元親も随分見慣れたものだと思う。
元服をとうに済ませている筈なのに、本当に子供のようだ。
本当にこれが、“あの”真田幸村なのだろうか。
まさか同姓同名なだけではないだろうし、身体的特徴も噂から然程外れてはいない。
小兵と聞いていたのが、思っていたよりもずっと小さかったのと、顔立ちがあまりにも幼い事を除けば、だけど。
元親が未だに彼を“あの”真田幸村だと納得出来ないのは、まだ目の前で彼の立ち回りを見た事がないからだろうか。
戦場に立って人格が変わるような者もいる訳だし、この子供もその類なのか。
「それで……あんたはまた、何をやらかしたんだ?」
「やらかした等と…棚に仕舞ってあった団子を一本失敬しただけで」
「またそれかよ……」
「佐助があんな所に隠しておるのが悪いのです」
出してくれれば、自分だってそんな事はしない。
もうどちらが正しいのだか、元親にはよく判らない。
完全に母と子じゃねぇか?
そんな事さえ思ってしまうほどである。
実際、偶に此処で繰り広げられるお説教風景は、見ている者にそんな印象を残してしまうのだ。
「で、何時の間に此処に忍び込んだんだ?」
「長曾我部殿が寝ておられる時です。悪いとは思ったのですが…」
「…どれぐらいあの中にいたんだよ」
「多分、一刻半程ですな」
「……よくそんなに大人しくしてられたな」
しかも、押入れと言う狭い場所で、物音一つ立てないで。
あまりじっとしているのは好きではなさそうなのに、やはり叱られるのは御免という事か。
妙な所にだけ、変な才能を持つ子供とはいるものだ。
「でもやはりじっとしていると身体が痛くなります」
う〜っ、と背筋を伸ばしながら、幸村は笑いながら言った。
「長曾我部殿は如何ですかな」
「あ?」
「しばし運動もしておらぬでしょうし…」
「あー…そうだな、まぁ確かに、落ち着かねぇな」
「では!」
乗り出す姿勢になってまで、幸村は元親に詰め寄った。
其処に浮かび上がる表情は、まるで久しぶりの友人と再会したような表情。
「傷が癒えましたら、私と手合わせして頂きたい!」
真っ直ぐ見上げて来る瞳には、逆らい難い何かがある。
それは決して威圧的なものではなく、言わば幼い子供の期待に満ちた瞳と同じ。
帰って来る言葉を心待ちにし、今は少しお預けを喰らっている仔犬と同じ。
元親の傷は動けるまでには回復してはいても、愛用の碇槍は握れない。
試合のような激しい運動は勿論禁止されているし、元親とて未だ其処まで治っているとは思っていない。
今は大人しく療養するのが最適であって、どんなに落ち着かないとしても、じっとしている他はないのだ。
だけれど、治ってしまえばそれから解放されるのは当たり前のこと。
今出来なくても、治ってしまえば。
何時になってもいいから、と幸村はまた更に詰め寄った。
元親の傷が癒えた頃には、きっと天下も少しは落ち着いているのではないだろうか。
織田が勢いに乗るか、同盟を結んだと言う武田と伊達がどう出るかは、最早あまり元親には関係の無い話かも知れない。
いずれにしても乱世の終わりが少しずつ見え始めているのでは、と元親は思っている。
乱世の終わりが見えた頃にも、目の前の子供は変わらないのだろうか。
その時になっても彼は、こんな風に誘って来るのだろうか。
……その時、自分たちがどんな場所に立っていたとしても。
「……俺は織田に負けたんだぜ。あんたと闘り合える程強かねぇよ」
「それはやってみなければ判りませぬ! 第一、正直、私とてまだまだ…未熟者です」
少しだけ申し訳なさそうにして、幸村は呟いた。
「ですから、多くの兵と刃を交えたいのです」
「奥州の独眼竜はどうしたんだよ? 奥州とは同盟組んだとは聞いてるが」
「政宗殿とは、既に何度も試合うております」
…政宗殿、と来たか。
普通は名前で呼ぶ事はないのではないだろうか。
それとも、武田信玄と上杉謙信のように“宿敵”と呼ばれるような、互いを認めた間柄なのだろうか。
未熟者だと呟く幸村だけれど、あの独眼竜と同等に渡り合っていると言うのなら、それで十分過ぎる程ではないのか。
まだまだ若いのだし――元親とて、まだ二十歳を少し越した程度だが――先は長い。
「そんな慌てなくても良いだろ」
「いいえ! 私は強くなりたいのです、お館様の――――…いえ」
お館様の為に。
お館様の。
馬鹿の一つ覚えのように、幸村の口からそれが出なかった日はない。
何かと元親に会いにくる幸村だから、元親も彼のそんな面を知っている。
だけれど幸村は、今、止めた。
「お館様の為に闘う、己自身の為に!」
一国を担う者と、それを支える者とでは、背負った重みが違う。
だけれど、根底にあるのはきっと似てるんじゃないかと元親は思った。
一国を担う者は、慕う者全てを背負わなければならない。
それを支える者は、その主の背負うものも共に背負わなければならない。
互いに失いたくないものだから、互いに支えあおうとするのだと。
……自分がいた四国にも、こんな人間はきっといたんだ。
「兄貴」と呼んで慕ってくれた奴らの顔を、一つ一つ覚えるのに時間はかからなかったと思う。
若い衆が多かった元親の軍には、目の前で見つめてくる瞳と同じか、それ以下の者もいただろう。
…………守れなかった。
………支えてやれなかった。
……最後まで導いて行けなかった。
後悔なら幾らでもある。
奪った奴らへの憎悪なら幾らでも沸き上がる。
だけど、今の自分はそれには応えられなくて。
だけど。
「……仕方ねぇなぁ……」
呟いた元親に、幸村は大きな瞳を輝かせた。
きっと今、自分は言葉どおりの表情をしているのだろう。
幸村の綺麗な瞳に映りこんでいる自分の表情から目を逸らしながら、思う。
「じゃあ、悪いがちっと手伝ってくれるか?」
「は……?」
「やっぱ少しは動かねぇと、傷の治りも悪くてよぉ」
「し、しかし…まだ癒えては」
「動けるぐらいにゃなってるよ。ほら、手ぇ貸してくれ」
戸惑う幸村に構わず、元親は利き手を差し出した。
幸村は逡巡するが、今度は逆に元親の方が彼をじっと見つめている。
元親の手を掴んだ幸村の手は、少し小さかった。
大人の男と言うには少しだけ丸いような気もするし、きっと手首を掴んだら一回りしてしまうような気がする。
これで決して軽くはない槍を片手で一本ずつ振り回すのだから、中々想像出来ないものだ。
幸村の手に捕まりながら、元親はゆっくりと起き上がる。
慌てて背中を支える幸村に小さく笑って、片足を立て、力を入れた。
「ちょいと鈍ってると思うから、少し手加減してくれよ」
立ち上がりながら言えば、幸村はこくんと頷いた。
と、其処に。
「旦那―! やっぱ此処にいたか!!!」
「うわっ、佐助!!」
ぱーんと盛大に障子戸が開き、其処に現れたのは数分前にも此処に来た忍隊の長。
幸村は先ほどまでの期待に満ちた表情は何処へやら、まるで悪戯が見付かった子供のように身を竦ませる。
忍はずかずかと部屋に入ってくると、ちらりと元親を見遣った。
しかし然程の興味はないのだろう、直ぐに視線は己の主へと戻される。
「あんたって人は何度言ったら判んの?!」
こりゃあ完全に母親の顔だな。
自覚しているのか、それとも最早諦めているのだろうか。
子供を叱る忍を眺めながら、元親はそんな事を考える。
幸村の方はと言えば、そんな忍から逃れるように元親の背中に隠れていた。
元親は随分と大柄な方だから、幸村ほどの背丈ならばすっぽりと見えなくなってしまう。
…其処にいると判っていては、意味も無い事だけど。
「はい、あんたはさっさと布団に戻る!」
「いやぁ、じっとしてんのはやっぱ性に合わねぇよ」
「居候は大人しくしててくんない、頼むから」
「長曾我部殿とはこれから手合わせするのだ!」
「却下! 旦那、この人は今怪我人なの!」
元親の影に隠れた幸村に向かって、忍は言う。
彼の言う事も間違ってはいないのだけれど、もう起き上がってしまったのだから、逆戻りする気にはならない元親だ。
此処で彼を無視したりしたら、やはり後々文句を言われたりするのだろう。
そして幸村の方も、怪我人に無理をさせた事と、先の団子の件でこってり絞られる。
だけど。
「佐助っつったっけか」
「ん? 何」
主以外に名を呼ばれるのが不満なのだろうか。
露骨に眉を顰めた佐助に構わず、元親は背中に隠れている幸村の身体を肩に担ぎ上げた。
突然のことに幸村は目を白黒させている。
「ちょっ…長曾我部殿?!」
「もうじっとしてるのも飽きたんだ。って訳で、ちょいと好きにさせて貰うぜ! そんでこいつも借りてくからなー!」
「おい、あんた……旦那―っ!!!」
叫ぶ忍の声を無視して、廊下に出た。
肩に子供を担いだままで、元親は走る。
少々傷が痛んだ気もしたけれど、無視した。
忍相手に走って逃げるなんて、直ぐに追いつかれるに決まっている。
が、それでも構わず、元親は何処でもいいから走ることにした。
「長曾我部殿っ、傷が……!」
「良いって言ってんだろ、それより暴れられるとこって何処だ?」
「あ、暴れ……??」
小さな身体は肩に担ぎ上げても、それほど重みは感じられなかった。
単に元親の力が強いからか、幸村が見た目を疑わずに軽いのか。
どちらにしても。
「手合わせ、するんだろ?」
一瞬驚いたように開いた瞳、きらきら光って。
笑った顔を見れただけで、元親はなんだかくすぐったい気分になった。
乱世乱舞での織田対長曾我部の後の話です。
四国から甲斐までは随分遠いですが、気力で元親は辿り着いたのです。
そんで幸ちゃんに懐かれました。
ジコマンです。
ハイ