てのひら
大きくて
広くて
暖かくて
今でも未だ、覚えてる。
右手で佐助の手を握って、左手は兄・信幸の手を握って、前方には真っ直ぐに前を見て進む父の背中がある。
見慣れた家紋の六文銭の入った羽織が、父・昌幸の背中で風に揺られて翻っている。
その背中がいつも思うよりもずっと大きな気がして、幸村は何処か緊張している自分を自覚した。
そんな弟の常と違う空気に気付いたのか、信幸が安心させるように、繋いだ手に力を篭めたのが判った。
けれども、やはり周囲の空気に緊張してしまう自分を否む事は出来ない。
これからどうなってしまうのか、過ぎる不安が拭えない。
別にこれから怖い目に合ってしまう訳ではないと、それはちゃんと理解しているつもりだ。
だから、緊張してしまうのはそれとは別の意味の所にある。
怖いところに行くのではなくて、聖域と思う場所に行く―――――これを緊張するなと言うのが無理な話だ。
父と兄は既に何度も通った場所であると言っても、幸村は見るのも初めてだったのだ。
いつだって二人の話を聞いて、想像を膨らませるしかなかったのだから。
幼い頃からずっと一緒にいる佐助はと言えば、格別何を思う様子でもない。
時折強く握る手を感じる事はあるけれど、それは佐助が緊張しているからではない。
人の気配――特に幸村に関して――鋭い佐助のこと、幸村を安堵させる為だろう。
こういった幼馴染の落ち着いた態度に、幸村もいつもはほっとするものだ。
ああ、大丈夫なんだ、と。
けれど今日に限っては、何時まで経っても不安が拭えない。
「さぁ、幸、此処だよ」
上背のある兄が身を屈めて、小さな声で幸村に言った。
それを受け止めてから、幸村は改めて眼前に意識を向ける。
広い父親の背中の向こうには、鈍重そうな大きな門がある。
見張りであろう兵と父が幾らか言葉を交わすと、その扉は外開きで開かれた。
ぎぃぃ、と軋む音に身を縮ませていると、傍らで兄が笑うのが繋いだ手から伝わった。
真田家が現在暮らしている屋敷――真田屋敷と呼ばれているらしい――には、こういう鈍重な門はない。
外と隔てる壁は高いし、勿論門がない訳ではないが、開くだけで存在感を示すほどではなかったと思う。
だが開かれた門の向こう側にあったのは、城というよりも大きな館のようだった。
真田屋敷と似ている気もするが、規模はそれの比ではない。
其処から放たれる空気は威圧にも似て、けれども決して拒絶染みた色はない。
屋敷が雰囲気を放つなど妙な話で有るのだが、幸村にはそう思えたのだ。
空気に呑まれたように固まっている幸村だったが、兄の見下ろす瞳に気付いて顔を上げた。
まん丸な幸村に対して、信幸の眦はきつめの双眸と言って良いだろう。
だが口元は仄かな微笑を浮かべていて、温厚そうな人物だと見て取れる。
「そんなに緊張するものではないよ、幸」
「……あにうえ……」
「…そうは言っても、無理かも知れないね」
自分で言った事を早々に撤回してから、信幸はくすくすと笑う。
幸村は、先日六歳になったばかりだ。
己の感情の操作などまだ出来ないし、何より幸村は己の本能に忠実なところがある。
それを抑止してやるのは、現在まだ一言も言葉を発していない佐助の役目だ。
信幸が手を離してくしゃくしゃと頭を撫でてやると、幸村は猫のように片目を細めた。
手が離れてからはまた繋がれることはなく、代わりに弟は付き添っている幼馴染に隠れるように身を寄せた。
幸村は人見知りというものは殆どしないし、物怖じすることも滅多にない。
不可解なものにはやはり顔を顰めたりするのだが、此処で退いては男が廃る、という意識が何処かにあるのか、
泣きそうな顔をしながらも経ち向かって行く姿を兄はよくよく覚えている。
兄弟がそうしている間に、父が戻って来る。
父はちらほらと見かけられる人々と挨拶か話をしていたのだが、それも一段落ついたようだ。
悠々とした長男と、常と変わらぬ寡黙な少年と、緊張して強張った面持ちの次男。
佐助の影に隠れようとしている次男に何を思ったのかは、当人にしかわからない。
ただ悪い感情は彼の仲にはないだろう、と佐助は勝手に予想をつけていた。
何せ昌幸の、幸村に対しての態度と言ったら。
兄に対してはやはり、年齢もあろうが、一個の成人男子として辛辣な言葉を向けることもあると言うのに、
その黒々とした瞳は、幸村に向けられた瞬間に暖かな色を持ち、臆面もなく幸村を猫可愛がりする程だ。
幸村が何をした所で、例えばささやかな子供の悪戯を仕掛けても、彼が一度でも怒った所を佐助は見た事が無い。
ひょっとしたら佐助が既にそういう役目を担っているから、その点に関して気にならないのかも知れない。
昌幸や信幸が、次男に対して厳しい事を言うと言ったら、槍の稽古の時ぐらいしかない。
それだって終わってしまえば、すぐに甘やかしてしまう程だ。
佐助の影に隠れた幸村は、落ち着かない様子だ。
傍らにはいつも一緒の佐助がいて、兄もいて、父もいる。
それだけで幸村は嬉しそうに笑うのに、今だけはそれも出来ないようだ。
すっかり棒立ち状態の佐助と、それに隠れる次男に歩み寄った昌幸は、安心させるように口元に笑みを浮かべた。
きちんとそれは幸村にも見えたようだが、見上げる瞳は緊張を拭えた様子はない。
「今から、わしらはお館様の所に参る」
「……おやかたさまに……?」
昌幸の言葉に瞠目したのは、幸村だけではなかった。
基本的に表情が変わらない佐助の瞳までもが、僅かに瞳孔が開いたように光った。
お館様、とは甲斐を納める武田信玄公の事だ。
真田家は昌幸の父・隆幸の代から武田家に仕えている。
幼い幸村は、未だ彼の人に逢った事がない。
戦の度の戦歴や、人となりだけは兄と父の話で聞いているが、顔は知らなかった。
武勇の話は幸村だけでなく、佐助もよく聞かされていた。
幸村の中で知らず知らずに内に、彼の人物が神格化されている事を佐助は知っている。
そんな人物に、今から逢いに行く。
今までただでさえ緊張していた幸村だ。
昌幸の言葉を聞いた瞬間に、ぎゅっと佐助の手を握る手に力が篭った。
「どう、して……」
「突然で説明も出来なんだな。いや、先日の宴の折にお前の話をしたのだが、その時、見てみたいと仰せられてな」
「お前はまだ幼い故に少々我らも考えたのだが、お館様に押されたのだよ」
先日の宴、とは勝ち戦の祝杯の事だろう。
その日の幸村が何をしていたかと言えば、相変わらず佐助と一緒に布団を並べて眠っていただけだ。
兄と父がその日は帰れない事は今までの経験で判っていたし、そういう宴の場が思うより大事だと言う事も判っていた。
本音を言えば嬉しい日は家族で過ごしたかったけれど、我侭を言って困らせたくはなかった。
結局兄と父が帰ってきたのは夜明け頃だった。
幸村は自分が目覚めて一番に佐助を揺り起こし、二人に勝ち戦の祝いの言葉を述べた。
二人はそんな可愛い事をしてくれる次男を抱き締めて、久方振りの家族揃っての団欒を一日楽しんだのだった。
その時、幸村は昌幸が今言ったような話を聞いてはいない。
昌幸もまだ幼過ぎる幸村を連れて行って失礼がないかと気兼ねして、迷っていたのだ。
また信幸も同じ心境であったから、親子二人揃って渋っていたのである。
信玄公もしばらくは待ってくれたのだが、何せ稀代の真田家の次男坊である。
一度は顔を見て見たいものだとは、まぁ、当たり前の事かも知れない。
少々強引に押される事となって、二人はようやく、幸村を連れて信玄公の屋敷にやって来たのだ。
説明を省いたのは、幸村が緊張して強張ってしまうのを、今しばらく引き伸ばしてやりたかったからかも知れない。
最も、後でも先でも、幸村が緊張する事は変わりなかったのだが。
幸村は自分の置かれた状況がよく理解し切れないらしく、戸惑う瞳で佐助を見つめた。
大丈夫でしょ、と佐助が小さな声で囁けば、やや間を置いてから、幸村が頷いた。
それを見届けた兄がもう一度、幸村と手を繋ぐ。
昌幸が三人に背を向けて、屋敷の方へと歩き出した。
先に信幸がそれに着いていくように足を出し、手を繋いでいる幸村もそれに習う形になり、佐助もそれは同じだった
(おやかたさまに、あえる……おやかたさまに……)
ぎゅ、と幸村は繋いだ二つの手を強く握った。
広い一室のほぼ真ん中に、昌幸が正座して座っている。
幸村はその隣に正座して頭を垂れていた。
佐助はその後ろに座っていて、信幸はまたその後ろに位置している。
背中と隣から感じる気配に僅かな安堵はあるのだが、それよりも幸村は、自分の前にいる人物に意識がいった。
「それが倅か、昌幸」
「は……」
いつも厳格である父が、幸村同様に頭を下げたのが衣擦れの音で判った。
「ふむ、信幸とはまた随分違う性質のようだの」
「なれど、槍の腕は兄にも劣りませぬ」
「ようも臆面もなく言えるのう」
笑ったのが聞こえて、幸村は仄かに緊張が解ける自分を感じた。
幸村の心にある信玄公の存在は、やはり何処まで神に近いものがある。
何処か遠い人のような気がして、自分とは違うものなのだと言う思いが拭えない。
そんな人物が笑うのが聞こえたのだ、親近感のようなものが湧き上がっても無理はないかも知れない。
ふと笑い声が後ろからも聞こえて、兄のものなのだと認識するのに少々の時間を要してしまった。
「父上の言う事も間違いでは御座いません。この弟は、いつか兄、父上をも越えるやも知れません」
それは言い過ぎではないかと、幸村は思ってしまう。
だって槍で父や兄に勝った事はないし、佐助にだって敵わない。
悔しくて強くなりたいと言う思いはあるけれど、きっと何時までだって敵わないままなんだろうなと思う。
佐助によく言われるのだが、自分は自由奔放な分、単純で細かいことを考えるのが苦手らしい。
やりたいと思った事は何よりも即始めて、後の事は殆ど考えていない。
そんな自分が智略に長けた父や兄のようになれるとは、幸村は夢にも思えっていないのだ。
きっと佐助もそう思っているのにな、と思いつつ、幸村はまだ頭を垂れたままだ。
そろそろ首が痛くなってきたが、無闇に頭を上げるのは失礼に値するので耐えるしかない。
「顔を見せよ」
だから信玄公にそう言われた時、幸村は少しほっとして顔を持ち上げた。
「ほぅ………」
信玄公は顎に手を当てながら、じっと幸村を見つめている。
幸村もそれを、ただじっとして見つめ返している。
初めて見た信玄公の顔は、まるで物珍しい小動物を見つめるようだった。
実際、信玄公の幸村に対しての第一印象はそういうものだった。
「名はなんと言う」
「さなだ…げんじろう、ゆきむらです」
もう一度頭を下げながら、名を連ねる。
たったそれだけを言うだけなのに、幸村は何処かで言葉がつっかえたような気がした。
と言ってもそう思ったのは幸村だけで、思うよりもすらすらと言葉は出てきたのだが。
深呼吸を一つしてから、幸村はまた顔を上げる。
「後ろに控えるのは、忍の佐助で御座います。最も、今は倅の遊び相手のようなものですが…」
恥ずかしながら、と昌幸の言葉尻が笑ったのが、幸村にも判った。
信玄公は忍にも興味を持っている、と幸村は昌幸から聞いている。
だから今回、佐助の同行を許したのだろう。
そしていずれ幸村は信玄公に仕え、その幸村と佐助は主従関係になる。
それは自ずと佐助も信玄公に仕える事になる訳で、幾ら忍が顔を知られてはならぬとは言え、
主までもがその存在と容貌を判らぬままでは意味がないからだ。
最も、幸村はまだ、佐助と主従関係になるという感覚が判らずにいるのだが。
「うむ、よい忍になるであろうな」
「……勿体無いお言葉です」
常に幸村が聞いているよりも低い声音で、佐助が信玄公に答えた。
「そして……幸村」
「はい」
返事をした声が上擦っていないかと、少し心配になった。
しかし父も兄も、信玄公も何も言わなかったから、大丈夫なのだろうと思う事にする。
何を言われるのだろうと、心臓の音が煩くなるのが判った。
けれども、信玄公は口元に笑みを浮かべて、手招きをする。
傍に寄れ、と言うのだ。
幸村は戸惑ったが、隣の父は何を言うでもなく、ただ瞳だけが促している。
なるべく音を立てないように立ち上がって、幸村は信玄公のいる上座へと歩み寄っていく。
一歩一歩、距離がなくなる度に、幸村の鼓動が跳ね上がっていた。
「此処に座れ」
言って信玄公が示したのは、信玄公の座る場所のほぼ真正面、すぐ傍であった。
其処に腰を落として手を伸ばせば、恐らく互いの手は届くであろう。
幾らなんでも恐れ多い。
たちまち再び緊張に固まるが、向けられる双眸は何処までも柔和なものだ。
兄と父の話で聞く歴戦の武士の印象とは違うけれど、幸村にはそれさえも信玄公の持つ素晴らしさだと思った。
強く、民に信頼され、そして自分のような子供にまでこうも優しく接してくれるのだ。
幸村が信玄公を益々神格化させてしまうのも無理はないだろうと、じっと様子を見ているだけの佐助は考える。
幸村はおずおずと言った様子で傍まで近寄ると、一つ礼をしてから示された場所に座った。
改めて間近で感じるその存在感に、幸村は息を呑む。
甲斐の虎だと評される意味を、今になってはっきりと感じた気がした。
この人が、父と兄が仕える御人。
いつか自分が仕える御人。
いつか、天下とる御人。
伸ばされた腕は逞しい。
年齢は、父とそう変わらなかったのではなかったか。
髪は剃られて托鉢になっているから、白いものが混じっていたかどうかは判らない。
昌幸の髪には混じり始めているから、やはり同じ位になるのだろうか。
身長は上背のある兄とどちらが高いだろう。
着物の合わせの隙間から見える胸板は初老であろうにも関わらず、逞しく盛り上がっていた。
いつかこの人の為に、自分は働く事になる。
父の傍で、兄の傍で、佐助と一緒に。
思うだけで、幸村は心が躍るのを止められない。
太く逞しい腕が、幸村の髪に触れた。
そのまま癖っ毛のある明るい色をした髪をくしゃくしゃと撫でられた。
……撫でられた。
「将来が楽しみじゃな。のう、昌幸」
そう言って笑う信玄公の顔を、幸村はじっと見つめている。
昌幸の返事は、幸村には聞こえなかった。
兄も何事か言った気がするが、幸村はそれを認識出来ないままだ。
ただ、自分を撫でる大きな手のひらの感触を、確かめるように感じているだけ。
大きい。
広い。
少しごつごつしているのは、手に出来た豆が潰れ、また皮が出来、繰り返して分厚くなったものなのだろう。
槍を握る父の手もそうであったと、幸村ははっきり思い出す事が出来る。
けれども撫でる手から感じ伝わるものは、父から感じられるものとは異なっている。
決してそれは、厭なものではなかった。
幸村はよく頭を撫でられる。
父と兄には勿論、佐助にもだ。
佐助の場合、駄々を捏ねる子供を宥めすかす場合が多いのだが。
けれどそれらの何とも違う。
大きくて広くて強くて、そして暖かい手のひら。
この手が天下を掴むのか。
幸村はなんとなく、その日が来るのはきっと遠い日ではないと思った。
それは証のない確信だった。
けれど。
この手のひらの為に働けたなら、こんなに嬉しい事はない。
真面目に駄文(え?)。
真田太平記で、6歳の幸村が信玄に頭を撫でられたって一文があったんです。
其処から捏造妄想やっほーい♪(滅!)
昌幸パパを書いたのは、これが初めてです。