空の在処
望んだ空は
手を伸ばしたら
まだ届く場所にありますか
蹴倒す勢いで、幸村は本能寺の本殿扉を開け放った。
燃える本殿の中、佇んでいる一人の武将。
対峙しているだけで全てを持って行かれそうになる、尋常ではない覇気。
最早、人のものとは到底思えなかった。
それでも、逃げる事はしない。
逃げる事は赦されない。
両手の槍を握り直し、幸村は本殿内部へと一歩踏み入れる。
煌々と周囲を照らす炎は、不思議と熱さを感じさせなかった。
これは、地獄の業火だろうか。
だからまだ生きている自分には、熱を感じないのか。
「真田の旦那」
こちらもそれを感じるのだろうか。
いつも通りの表情で、佐助が囁く。
「あんま無茶してくれるなよ」
「それは保障しかねるな」
小さく笑って応えれば、やっぱりね、と佐助は肩を竦めて。
じゃあ、と一息置いた後。
「見せてくれ。あんたが日の本一の兵だって所」
「無論!」
見慣れた己の紅蓮が、舞い上がった。
魔王を名乗っているのは、どうやら自惚れなどではないらしい。
鉄砲隊など持ってしなくとも、織田信長は強い。
一発一発が重くて、正面からまともに喰らうと、体重の軽い幸村は吹っ飛ばされる。
それでも、意地でも無様に伏したりはしなかった。
それは、佐助も同じ事。
まるで死を知らぬ幽鬼のように、二人は身体を動かす。
此処に来るまでに、かなりの力を使ったというのに、だ。
相手にしてみれば、不気味に見えるかもしれない。
けれども、伏してしまえばこちらの負けだ。
そうでなければ、負ける事はない。
幸村は距離を詰めて、本殿の床をぶち抜いて、槍を突き立てる。
槍を軸にして、そのまま廻し蹴り。
受ける為に、信長が左腕で顔を覆う。
その腕を蹴って、佐助が信長の背後に回った。
「ぬ………!」
「俺の存在、忘れて貰っちゃ困るぜ、魔王さんよ!」
二つの大型手裏剣が糸を引いて跳ぶ。
片方は銃で払われたが、もう片方は肩を掠めた。
ち、と佐助が舌打ちする。
「こちらも……」
信長の意識が佐助へと向けられた内に、幸村が懐に迫る。
「いる事を、忘れるな!!」
下からの突き上げが、信長の甲冑を割る。
二対一とはいささか卑怯と取られるかもしれないが、此処は戦場。
何を置いても、勝者が正義となる場所だ。
作戦も何もない。
攻めて攻めて、押しの一手。
後ろに護るものなどないのだから。
護るものは、全て奪われたから。
たった一人の道連れは、これから一緒に逝くのだから。
「小賢しい!!!!」
「っうあ!!」
「ぐおっ!」
信長が薙いだ剣圧に、二人そろって間逆方向に吹き飛ばされる。
背中を壁に打ちつけ、前のめりに倒れた。
しかし幸村は両手をついて、勢いを殺さずに床を蹴った。
打ち付けた瞬間に焼かれた皮膚が痛む。
何度も打ち抜かれた肩や膝が、限界を訴える。
けれども、これしきがどうしたというのか。
この程度の傷なら、今まで何度も負ってきた。
死に目を見たのも、一度や二度ではない。
生きているなら、それで十分だ。
「虫けら共が……そんなに死にたいか!!」
「あんたが死んだ後ならね! 冥土の土産に、あんたの首を貰ってくよ!」
そうだ。
佐助の言う通りだ。
自分が、自分たちが死ぬのは、まだ早い。
弔いがまだ終わっていない。
だからまだ、死ねない。
「是非もなし! ならば、骨も残らず葬り去ってやろう!」
「出来るものなら。手負いの虎は、魔王などには敗れはせぬ!」
親を失っても。
傷を負っても。
虎は、そう簡単に死にはしない。
「おのれぇぇええええ…………!!!!!」
噴出した殺気に、一瞬身が固まった。
傷口と言う傷口から、血が溢れ出す。
全身が傍立つのを、幸村ははっきりと感じた。
この気に、全てを奪われた。
愛する祖国も、慕ってくれた者も、大きなあの人も。
そう、この気に全てを奪われた。
何故か頭の芯が冷えていく。
いつもなら、きっと感情が爆発するだろう。
そんな事まで判った。
けれども、不思議と心の中は、波のない海のように静かだ。
いつだったか、何処かでこれと同じような事があった気がして、思い出してみれば、
奥州の伊達政宗と闘り合った時なのだと思い出した。
あの時とは、場も状況も全く違うけれど。
伊達政宗と刃を交えるのは、嫌いではなかった。
特訓で佐助と打ち合うのも。
お館様との殴り合いも。
でも、それも終わる。
終わりになる。
けれど。
この気に負ける事など、ない。
負けて終わる気は、ない!
突き出された刀を、幸村は真正面から受け止める。
全身に力を入れて踏ん張れば、床が摩擦を起こし、その場に留まってくれた。
信長の背後に迫った佐助に、銃口が突きつけられた。
避ける間など与えられず、破裂音が響く。
かろうじて身をよじる事で、佐助は腹を掠められた程度で済んだ。
しかし直後に、今度は真紅のマントが意志を持った生き物のように動く。
佐助を吹き飛ばした後に、刃を交えていた幸村の身体にもそれは叩きつけられた。
受身を取れずに衝撃を受けた幸村は、壁に身体を打ちつけ、息苦しさから咽返る。
それでも、立ち上がる。
全体重のかかる足が、悲鳴を上げている。
そんな己の足に、動け動けと叱咤した。
見れば、目の前さえも歪んで見える。
生じた隙を見逃してくれるほど、生易しい相手ではない。
何処かで、梁が落ちる派手な音がした。
もうじき、この本殿も炎に飲まれて崩れ消えるだろう。
それまで、せめて持ってくれ。
瞬間、真っ直ぐに向かってくる刃が見えた。
間に合わない。
此処で終わる訳には行かないのに。
せめて、せめて、もう少し。
動かない身体を叱咤し、幸村は強く眼を閉じた。
腹が熱くて、喉から生温い鉄の味が溢れ出して来た。
けれども、どうしてか、思ったよりもそれは深くない。
血を吐いて、ゆっくりと目を開ける。
そして其処にあった光景に、幸村は目を見開いた。
「ぼーっとすんな……あんたは…!」
貫かれた、血塗れになった背中。
その背中の紅の幾つかは、先ほど幸村が吐いたものも混じっているのだろう。
肩越しに振り返られて、口端から血を流している佐助の顔が見えた。
痛みによる苦悶と、いつもと同じ飄々とした顔とが入り混じった表情。
ガラン、と音がして、佐助の両手にあるはずの大型手裏剣が床に転がった。
空になった両手で、佐助は己を貫く刃を掴む。
信長が眉間に皺を寄せ、刀を引こうとするが、佐助はそれを赦さない。
誰が逃がすか、と佐助が小さな声で呟いて。
幸村は、槍を握り直して地を蹴った。
跳んだ軽い身体に、今度は銃口が向けられる。
放たれた弾丸は、幸村の左肩を貫き、続け様に横腹を通り過ぎていった。
それでも、向けられた牙は、刃毀れ一つなく。
弾け跳んだ、夥しい紅。
まるで、狂うように炎の中に屑折れる魔王。
己らも生かしては置くまいと。
何を今更。
幸村は、小さく笑って膝をついた。
そのまま前のめりに身体を傾けたところで、慣れた温もりがそれを拾う。
ぬるりとした感触がしたけれど、最早それさえも気にならない。
「お疲れさん」
そっと頭を上げれば、見下ろしてくる優しい瞳。
十八年間、ずっと傍にある、色。
「…天下、は…見えたか……?」
「……ああ」
見えてるよ。
今、あんたが取ったんだ。
佐助の呟きに、幸村も自然と頬が緩んだ。
床を汚す、真紅。
けれどもそれは、直ぐに炎に焼かれて判らなくなる。
「……さすけ」
「うん?」
何故だろう。
酷く眠くて、幸村は佐助の名を呼んだ。
きっと疲れているんだろう。
佐助は幼い頃のように、幸村の髪を優しい手付きで梳いた。
「ねむい」
「うん」
「ねていいか?」
「…うん」
駄目って言っても寝るんだろ、あんたは昔からそうだ、と。
独り言のように囁く佐助の言葉が、酷く柔らかくて、心地良さを誘う。
だって佐助が頭を撫でるからだ。
佐助が頭を撫でるのは、幼い頃、大抵幸村を寝付かせる時だったから、最早これは条件反射。
静かな場所で二人きりで、佐助に頭を撫でて貰って、昼寝をしたり、一緒の夢を見たりした。
……主と忍となった日から、もう赦されない事だと思ったいたのだけれど……
もう、そんな事も関係ないか。
「さすけは…どうする…?」
「どうもしないよ」
「…ここに、いる、のか…?」
「俺に…旦那のトコ以外に、行く場所はないよ」
「…里には…かえらぬ…の、か……?」
「……帰らないよ」
帰って欲しいのかと問われて、嫌だと首を横に振った。
なら聞くなと、また頭を撫でられる。
「旦那がいなきゃ、俺は生きてる意味がない」
信玄を失って、生きる意味を失った幸村と同じように。
仕える者をなくした佐助にも、生きる意味は無い。
だから。
「俺は、あんたと一緒にいるよ」
望んだ空は
まだ手の届く場所にありますか
あなたと見たいと願った空は
まだ手の届く場所にありますか
それがないなら私は此処にいたくない
あなたと並んで見る空がないなら
私は、あなたと一緒に逝こう