夕海




















急に、不安になる時がある









そういう時は、ただ傍にいて欲しい

















































武田領から、真田幸村を連れ去った。
と言っても、事が済めばちゃんと帰すつもりである。







最初はあれこれと喚いていた幸村だったが、宥め梳かすと次第に大人しくなった。
元親の馬の上で、唇を尖らせたまま、落ちないようにと己を連れ出した男にしがみ付く。
しがみ付くその手に、彼の二槍はない。

いつも戦場でしか見ていない身体が、直ぐ間近にある。
鍛え抜かれていたと思っていたそれは、まだまだ未発達なものであると、元親は初めて知った。
確かに無駄な肉はついておらず、鍛えられているのだが、如何せん、細い。
これが主君である信玄公と並んでいると、余計に細く見えてしまう。
抱き締めて力を篭めれば、それだけで折れてしまいそうにも思える。
勿論、其処まで軟弱な男ではないのだが。



帰ったら佐助が煩いなぁ、とか。
お館様に合わす顔がない、とか。

腕の中で、幸村がぶつぶつと呟いている。
雰囲気も何もあったものではない。
けれど、無理もない。
そういう幸村を好いてしまったのだから。


惚れた弱みだ。
最初から、元親に勝ち目なんてなかったのだ。







朝から飛ばしていているので、馬が少し疲れ始めている。
それでも背中に乗る主の意思に答えようというのか、健気に足を動かす。
帰ったら十分に休ませてやらねばなるまい。

腕の中の存在も、一体何処まで行くのか不安になるのだろうか。
時折見上げてきて、何か言いたそうな顔をする。



幸村を掻っ攫って信濃を後にしたのが、昨日、空が白み始めた頃だ。
一晩通しで走るのは大変だろうと、一晩、野宿をした。

その時逃げ出そうとしなかったのは、自惚れてもいいことなのだろうか。
単に幸村が度を越した天然である事も考えられる。


……言葉にはせず、自惚れておくとしよう、今だけは。










「……あの、元親殿」
「なんだ?」
「なんだ…と、言うか、その」






何処に、と小さな声で問われて。











「いいもん見せてやろうと思ってな」










それだけ言うと、はぁ、と未だ当惑する声が返された。







































気付けば、腕の中の存在は眠ってしまっていた。
不安定な走る馬上で、なんとも器用なものだ。
それでも元親の身体にしがみ付く腕には、しっかりと力が篭っている。

幾ら今が戦時でないとはいえ、これは無防備すぎるのではないか。
それとも、相手が相手だとして諦めているのか……はたまた、気を許しているのか。



そんな幸村に小さく笑って、元親はようやく馬を止めた。
力が入ったままの手を解かせ、落ちないように幸村の身体を安定させて、元親は馬から降りた。
適当にあった柵に手綱を結わえて、馬の顔をぽんぽんと軽く叩く。




「無理させたな。帰りは別の奴に頼むから、お前はもう休みな」





ブルルッ、と返事をするように鳴く馬。
帰りは帰りで、別の馬に無理をさせる。
ただ今日ほど、無茶な旅路にはならないだろう。

今回は急ぎだったから。



やはり目覚めぬ幸村を抱いて、元親はある方向へと歩き出す。
時刻は既に夕方となっており、陽は大きく傾いて、かなり低い位置にある。
真っ直ぐに西を向くと正面から瞳を射抜かれて、少々目の奥が痛くなった。





此処は、既に長曾我部の領内だ。
其処に武田の紅蓮の鬼がいる。
しかも、総大将に抱きかかえられて、だ。

なんとも奇妙な光景に見えるだろう。
けれど、元親はそんな事は構わなかった。






「起きろよ、幸村」






耳元で囁くと、かかった吐息がくすぐったかったのだろうか。
ぴくっと小さな反応をして、ゆっくりと瞳が開かれる。





「う、ん……んん…?」
「眩しいか?」





目覚めて急に射抜かれた事に、幸村は目を細めて眉根を寄せる。
そんな顔さえも可愛いと思う自分は、きっと末期だ。

目元を擦る幸村の仕草が、年齢以上に幼さを感じさせる。
初めて出逢った戦場では、幼い顔立ちながらも、確かな意思の強さを感じたのに、この違いはなんなのだろう。
いつも傍にいると言う忍には、もっと幼い表情をして見せるのだろうか。



地面に下ろすと、軽い砂の音がした。
しっかりとした大地の上ではない為、幸村が平行を崩す。





「おっと」
「あ…か、かたじけない」




律儀に感謝の言葉を並べる幸村に、どう致しまして、と短く返す。
支えた腕を離すと、ようやくしっかりと立つ。

そして。






「……………!」






眼前に拾った光景に、息を呑むのが判った。












夕暮れの海。
鮮やかな緋と朱が交じり合った、綺麗な空と海の境界線。


水面が揺れて、煌いている。













これが見せたかった。
否、一緒に見たかった。




幸村が駆け出して、波間に近付いていく。
器用にも足宛を外して、砂浜に転がしてしまっている。
何処まで子供なんだと思いつつ、元親も自分の足宛を外した。






「うわっ!」






波間で足元を浚われて、幸村がひっくり返った声を上げた。
細い足が軽い水音を立てて、濡れる。
転んでしまうのではないかと、元親は自然と笑みが浮かんでしまう。


信濃は内陸国で、海がない。
甲斐も同じだ。
そして幸村は信玄公の右腕である為、中々祖国を離れる事は出来ない。
海なぞ、そう簡単に行けるものではないのだろう。

四国に身を置く元親とは、反対だ。





「どうよ、幸村」
「良い所ですな!」





元親の言葉への返事は、何よりの真実であった。


波打ち際で水を蹴り上げる幸村の後姿は、とても音に聞こえた紅蓮の若武者だとは思えない。
年齢以上に幼く見える上に、細身で、時折振り向く顔は中性的なものだ。
紅い鉢巻を解いて、いつも結っている髪を流したら、きっと女子と間違えてしまう者もいるだろう。





「四国はいいですな、海があって」
「さてねぇ……どうだろうな。何処に行くにも暇がかかるぜ」
「それでも、私は羨ましいです。このような美しいものが見れるのですから」





甲斐でも、綺麗な景色はあるだろうけれど。
海に面した景色と言う物とは、少々縁遠いかも知れない。





「……その気になれば、お前も毎日見れるんだぜ」





帰って来る言葉を判っていながら、そんな事を言う。

幸村は驚いた顔をしていたが、すぐに首を横に振った。
その言葉は嬉しいけれど、自分にそれは出来ない、と。



判っていた。
幸村が仕えるのは、後にも先にも、あの大きな男だけなのだろう。





「でも…いいですなあ……それも」





あなたと一緒にるのも、と。
小さな声は、きっと聞こえていないつもりなのだろう。
高めの声はよく通るから、小波しか音のない此処では、隠せない。

けれども元親は聞こえなかった振りをした。
幸村がそれを望んでいるから。






「……叶うといいのに」






漏れた言葉は、無意識なのか。
ちらと伺った幸村の横顔は、夕闇の翳りか、酷く頼りなかった。

常に戦の中に身を置く者同士、それは叶っては行けない事なのだろうか。
想う者と傍にいたいと願うのは至極当然のことであるのに、現実は赦されない事ばかりだ。


いつか決着が着いたら、叶うのだろうか。
どちらかが勝者となり、敗者となれば、この願いは届くのだろうか。
例えば同盟を結んだとしたら、この距離は近くなるのだろうか。




けれど。
それまで、自分たちの命が果たしてあるのかどうかすら。

……この乱世では、判らないのだ。








「……幸村」








何処かで、名も知らぬ誰かが、自分たちの知らぬ所で死んでいくように。
自分たちも、何も知らぬまま、死んでしまうかも知れない。

元親は長曾我部軍の総大将。
幸村は東国最強軍の右腕。
どちらも戦の真ん中に身を置く故に、明日の保証はない。




こんな風に、綺麗な海を見る事さえも――――――もう、出来ないかも知れなくて。






だから、早く見せたかった。
一緒に見たかった。

どちらかが先に逝ってしまった時、思い出せる場所が欲しかった。
平和な空の下で逢えた時、思い出せる情景が欲しかった。












「……また、連れて来ていいか?」













変な問いかけだとは、思ったけれど。

幸村は小さく笑って、頷いた。
























また。

それは、いつだろう。






……この乱世が終わった時なら、いいのに。












































不安な時は、何も言わずに。

ただ触れられる距離にいて。