光
闇は、いつもすぐ傍にあった
だからあんたの存在は
俺にとっては、太陽か月のようなものだった
「佐助! 佐助―!」
主の呼ぶ声がして、佐助は木の上から眼下の光景を見下ろした。
少々高めのこの木は、少し鬱蒼としていて、下からこちらを見上げる事は出来そうにない。
自分がここにいる限り、主が己を見つける事は出来ないだろう。
此処が戦場であったなら、すぐさま見つけられるのだろうに。
戦場以外では、てんで鈍くて天然なのだ。
このまま佐助が姿を現さなかったら、いつまでも探し続けるのだろうか。
紅蓮を標とする少年が拾い屋敷の敷地内を歩き回っていた。
少し高めの声を大にして、赤い鉢巻を尻尾のように長い髪と一緒に揺らせている。
これが火急の用事だというなら直ぐに赴くのだが、呼ぶ声は切羽詰ったものではない。
大方、また菓子が食べたくなったとか言う自己中心的なものなのだろう。
ちなみに佐助の手元には、最近新しく開かれた甘味屋の商品がしっかりとあったりする。
偶々近くを通った時、今日明日辺りに呼ばれるような気がしたから、一先ず買って置いてみたのだ。
言われてから買いに行くよりも、二度手間にならなくて済む。
「佐助―、おらんのかー!?」
此処にいるでしょうが、と胸中でのみ呟いた。
こちらから見える位置にいると言う事は、相手側からも見える筈だ。
最も、佐助の半端でない視力だからこそ見える距離だとも言えるが。
本当に戦場では天才的で驚異的な力を発揮するのに、何故こんなにも差があるのやら。
「何処に行ったのだ……」
きょろきょろと辺りを見回す横顔は、とっくに元服を済ませているのに、随分と幼かった。
紅蓮の若武者と、この甲斐や近隣諸国に名を轟かせて久しいというのに、
戦場以外で出会った大抵の人は、第一印象で本人だとは気付かないのである。
小柄で細身だという事もあるだろうし、うっかり甘味屋で見ようものなら、判る筈もない。
甘い団子や蜜豆を何個も喰って、子供のように満足げに笑うのを見て、誰があの武田信玄の右腕だと気付くものか。
戦場で見せる眼光とは、似ても似つかない丸っこい大きな瞳。
幼い子供程ではないけれど、まだ少年の面影を残している。
誰があんな風に育てたのだか。
真田忍軍に身を置く者として、彼が幼い頃から見守ってはいるけれど、思わずにはいられない。
佐助は、彼の父親とはあまり面識はないけれど、勇猛果敢で戦上手だと聞いた事がある。
その遺伝子はしっかりと受け継がれているのだが……どうやら主の顔立ちは、母に似てしまったらしい。
笑った時に出来る笑窪や、中性的な雰囲気が、佐助の記憶に朧に残る、凛とした横顔とよく似ている。
ならば、あれは天性のものなのか。
両親の優勢遺伝子を、見事に受け継いで反映させてしまったという訳か。
ただあの天然振りだけは、それとは違う気がするけれど。
「佐助―!」
再び大声で呼び始めた主に、佐助はもういいか、と思った。
あまり放って置いては、後で何かしら文句を言われる。
見ていたとばれたら、尚更だ。
佐助は枝を蹴って、離れの屋根上に降り立った。
そのまま足音を立てる事もせず、ととっと屋根を駆ける。
屋根合いから、中庭で立ち尽くしている主の姿が見えた。
「呼んだかぃ、真田の旦那」
返事をするとほぼ同時に、佐助は主――――真田幸村の眼前に辿り着いた。
「佐助!」
ぱっと幸村の表情が明るくなる。
さて、何を言うかと思えば。
「佐助、あのな、買ってきて欲しいものがあるんだ」
「へぇ……なんだぃ?」
予想は着くけれど、と思いつつ尋ねてみれば。
「一週間前に出来た甘味屋があるだろう? あそこの団子が食べたい!」
嬉々とした表情で言う幸村に、佐助は笑みが漏れてしまう自分を自覚した。
出来たばかりだけれど評判が良くて、団子は甘くて美味しいんだとか。
一昨日報告の際に通りかかったけれど、急ぎの報告だったから、とか。
何故だか力んで話す主に、この人は幾つだったかなと思ってしまう。
佐助はクツクツと笑いながら、腰につけていた大き目の巾着袋を取り外す。
幸村は、きょとんとした顔で佐助を見詰めている。
「ほら」
短く言って、佐助は巾着袋を主に手渡した。
幸村は不思議そうな顔で、巾着袋と佐助を交互に見詰める。
ごそごそと袋の紐を解いて中を覗き込んだ直後、ぱぁっと表情が明るく染まる。
きらきらと輝く瞳で見詰められて、通りがかったついでだよ、と言う。
感謝の言葉はなかったが、その代わりに満面の笑みが向けられた。
この顔に弱い。
光るような、この笑顔に。
いつもは盲目的と言って良いほどに慕う主君にしか向けられない笑顔。
感情の起伏の激しさからか、彼の表情筋はよく動く。
けれどこの光るような笑顔は、誰にでも向けられる訳ではないのだ。
笑った顔はよく見せてくれるけれど、極上のものだけは、取って置きの人物にしか見せてくれない。
それを垣間見る事が出来るのが、佐助のささやかな特権である。
大好物の甘味を、彼が求めた矢先に直ぐに手渡せる状態にある事。
そうすると、この顔が見れるのだ。
取り出した団子を、ぱくっと幸村は口に運んだ。
さて、反応は如何なものだろうか。
「美味いっ!!」
佐助に向けて、幸村は高い声で言った。
「そりゃ良かった。値段も手頃だったし、いい店だと思うぜ」
「そうか。他に何があった?」
「旦那の好きな蜜豆もあった。粒餡の饅頭もあったな。店限りのもんもあった」
「それは一度は行ってみないとな。あ、でも……」
佐助の言葉に瞳を輝かせて行った幸村だったが、途端に表情を曇らせる。
どうしたかと思った佐助も、直ぐに思い当たる節に辿り着いた。
近隣諸国で、不穏な動きが増えてきている。
国境付近では今川軍が進軍していて、越後の方にも何かしらの気配が見え隠れしている。
尾張の織田軍の動きも激しいもので、いつかは甲斐にも攻めてくるだろうと思えた。
目の前で団子を持ったままで立ち尽くしてしまった若者は、この甲斐を収める武田の武将だ。
まだ齢十八ととても若く幼いけれど、二槍を持った時の強さは計り知れないものだ。
故に武田信玄の右腕として、最も近くで勇猛な働きを見せている。
功績は他の者を圧倒させ、時折感情の昂ぶりで暴走する事はあっても、信頼を損ねる事はない。
信玄公から最も厚い信頼を寄せられる人物である。
そんな彼の事、戦ともなれば当然そちらに赴く結果になるだろう。
甘味屋になど、早々のんびり寄れる訳もない。
だから彼が甘味屋に寄るのは、大抵が戦を追え、信玄への報告を終えた後ぐらいである。
「……また買って来た方がいいか?」
「ん……そうだな。時間があればそうしてくれ」
時間はないけど、好きなものへの欲求は何処までも真っ直ぐだ。
甘味屋の店独特の雰囲気の中で食べるのも悪くない。
けれど、幸村には時間がない。
平穏な日々は、近からずなくなるだろうと判った。
あちこちが天下統一を夢見て立ち上がり、ぶつかり合っている。
甲斐がそれに参戦する事になる日は、きっと遠くないだろう。
信玄が立ち上がれば、自ずと目の前の若者も着いていく筈だ。
その日が近付いている事を気付かないほど、この主も、その主君も、世の出来事に鈍くはない。
来る日の為に備えをして置かなければ、あっという間に食い潰されてしまう。
なのに、自分一人で甘味屋でのんびり時間を過ごすわけには行かないだろう。
「そう言えば……そろそろ栗が出回る時期だな」
「栗ねぇ。じゃあ栗饅頭が出ると良いな。まだなかったけど」
「もう少し早いだろう。あと、乾栗だな」
「旦那にしちゃあ珍しいもん好きだよねぇ、その辺は」
誰のお陰とは、考えないけれど、と思いつつ。
佐助は探しておくか、と密かに決めた。
「まぁ乾栗は日持ちするしな。あれは俺も結構気に入ってるし」
「多めに買って置けよ」
はいはい、と佐助はお座なりな返事をした。
それだけでも、幸村は満足そうに笑むのである。
今夜は月が冴え冴えと輝いている。
満月であるはずなのに、突き刺さる光は随分と柔らかかった。
それでも夜道を照らすには十分で、旅人は安心して歩いていられるだろう。
だが忍である佐助に取っては、好ましくない月明かりだ。
「おーい、佐助―」
ぼんやりと空を見上げていたら、呼ぶ声がした。
昼間よりは控えめの声だったけれど、高いその声は空気を抜けてよく通る。
屋根合いから下を見下ろしてみれば、こちらに手を振っている主がいる。
いつもなら、この時間は既に眠っている頃ではなかろうか。
昨日も色々と忙しかったらしいから、一日休んだ程度で疲れは取れていないだろう。
一体なんの用なのだかと思いつつ、佐助は地面へと飛び降りた。
「なんだ? 旦那」
「いや、目が覚めてしまってから寝られなくてな。出てみたらお前の姿が見えたから」
つまりは、呼んでみただけだという事なのだろう。
「旦那はちゃんと寝ないと駄目だぜ。ただでさえボーっとしてんだ、戦にまで出ちまったら終わりだぞ」
「………怒っていいところか? 此処は」
「さぁ? そりゃ旦那が好きに判断してくれよ」
怒っていいところなのだろうけど。
佐助の言葉に、幸村はむぅ、としばし考え込む。
どうしてこんなにも鈍いのだろう。
だから放って置けなかったりするのだ。
「まぁいいか。それより、今日の団子が残ってるから、一緒に食べないか?」
「寝る前にまだ喰うのか? 牛になるぜ、旦那」
「食べた分働いているから平気だ!」
良いながら幸村は、佐助に腕を引いて屋敷に戻っていく。
この広い屋敷は、側役等は置かれていなかった。
食事は大抵外、総大将の屋敷の方で部下と一緒に取る事が多い。
この広い屋敷に帰って来てする事と言えば、何もせずに休息を取る事と、寝起き程度しかない。
一人で暮らすには大きすぎる屋敷だった。
けれど幸村は、傍に人を置こうとしない。
常に誰かに囲まれているから、眠る時ぐらいはゆっくり過ごしたいのだろう。
そんな中に、佐助だけがただ一人、介入する事を許されているのは――――少し自惚れても、いいのかと思う。
今の桐箪笥から、幸村はきちんと袋に包んだ団子を取り出した。
その合間に、佐助は茶を沸かして置く。
「俺がやったのに」
「いやいや、旦那はそっち座ってなよ。零されちゃ溜まったもんじゃないし」
「そんな間の抜けた事はしないぞ」
「……どうだかねぇ」
一月前に零した湯を足にぶっかけて、火傷しかかったのは誰なんだか。
思ったけれど、佐助は声に出さずに、クツクツと笑うだけだった。
佐助が何故笑っているのか判らないらしい幸村は、怪訝そうな顔を見せる。
ゆらゆらと揺れる行灯の光。
それだけで、お互いの顔は見える。
この仄明るい空間で、互いの顔だけが、判るのだ。
幸村が今の障子を開ける。
その向こうは中庭へと繋がっていて、行灯の火が少し邪魔なように思えた。
「今日は月が綺麗だな」
「ちぃと明る過ぎるけどな、俺には」
「やっぱり忍は新月がいいのか?」
「忍んで行くには、一番いい」
佐助の返事に、幸村はそうか、とだけ反応する。
丸っこい瞳が、空の明かりへと向けられた。
優しい風が吹いて、幸村の柔らかい髪がふわふわと揺れる。
床に置かれた団子を食べると、やっぱり甘い。
甘いものはあまり得意ではないから、茶だけでいいか、と決めた。
「でも月は夜の人々の道標になるんだろう?」
「真っ暗よりかは、明るい方がいいだろうしね」
「行灯、消しても良いか?」
「あ? ああ、俺が消すよ」
月明かりをちゃんと堪能したいのだろう幸村を見て、佐助は行灯の火を躊躇う事無く消した。
室内はふっと暗くなったが、開け放たれた場所から青白い光が差し込んでいる。
「月はいいなぁ、佐助」
「……ま、嫌いじゃないよ」
あんたの顔が、見れるから。
その言葉は飲み込んで、佐助は月を見上げる主を、じっと見つめていた。
明るい光は、全部あんただ。
あんたがいなきゃ、俺の世界は漆黒だって、
………あんたは一生、知らなくていいよ。
村の事が好きだけど、それを伝えるつもりはない佐助。
幸村はいつも真っ直ぐに前を見てるから、その背中を見ている自分の方には振り返らなくていい。
前だけ見て、突き進んでいれば良いから、気付いてくれなくても構わない。