僕の視線

















キミが気付いてくれないことは



ずっと昔から知っている

















































「あにうえ、あにうえー」








久しぶりに帰ってきた歳の離れた兄の後ろをついて歩く子供。
呼ばれた兄は嬉しそうに振り返り、優しく微笑んで弟へと両腕を伸ばした。
それを見た弟はぱぁあと明るい表情になり、腕の中へと飛び込んでいく。



その様を、佐助はじっと木の上に上って見つめていた。


今朝から何故あの子供が何かとそわそわしているのかと思ったら、こんな理由だったのか。
立場上、当然ながら彼の兄は中々屋敷に帰ってくることがなく、彼はいつも佐助と二人で日々を過ごしていた。
この生活は彼がまだややと変わらぬ頃から続いており、今ではすっかり当たり前の生活になっている。

けれどそれでも、やはり兄が帰ってくることは、子供にとって特別な事らしい。








「幸、遠駆けにでも出掛けるか?」
「あにうえと?」
「そうだ。またしばし幸と話も出来なんだからな」









この距離で佐助に聞こえる声。
特に幼い子供の方は、甲高い声だから空気を良く通す。

けれども、彼らに佐助の声はきっと聞こえないだろう。
幼いながらに忍として鍛えられている佐助だからこそ、この距離で彼らの声を聞き、彼らの表情までも見る事が出来るの だ。
一種の疎外感にも似た感情が佐助の中に過ぎるけれど、佐助はそれを知らない振りをした。


これでいい。
たまにしか会えない兄弟を邪魔するなどと、無粋な真似だ。
大体、血の繋がった家族の中に、忍の己が割り込む事のほうが可笑しいのだから。









「佐助はおらぬのか?」
「はい。あさからみません」
「ふむ………」








奇妙なこともあるものだな、と兄が首を傾げている。
常に子供の傍にいるのが当たり前とされている佐助が、弟でさえ朝から見ないと言う。

……本当は、こうやって離れているだけなのだけど。








「もしや鍛錬かも知れぬな。だとしたら、邪魔するのは悪い」
「さすけはつれていってくれないのですか?」
「いいや。今回は残念だが、いつか三人で……いや、父上も含め、四人で行けたら良いな」







今回は兄弟水入らずで出掛けよう、と言う兄。
子供は少々佐助を探して辺りを見回したけれど、離れた位置でじっと見ている佐助の事に気付くことはなかった。

ずき、と何処かが痛みを上げたような気がした。


しばらく佐助を探す子供を待っていた兄だったが、「兄と二人は嫌か?」と弟に問う。
一瞬きょとんとした表情を浮かべた後で、子供はぶんぶんと勢い良く首を横に振った。
あの子供とて、兄と話をするのが嫌いな訳がないのだ。

佐助と一緒にいると、子供はどうしても佐助の隣に落ち着きたがる。
物心つく以前からそういう位置にいるから、今ではすっかり、其処が定位置だと思っているようだ。
それが滅多に傍にいられない兄や父からすれば、聊か羨ましいと思う事だろう。
彼らが佐助にそういう事を言った事はないが、音に聞こえた家の者とはいえ、やはり家族は家族なのだ。





……忍が其処に割り込む資格など、ない。
















遠くなっていく背中を、佐助は見えなくなるまで見つめていた。
























































「お館様ぁあああ! この幸村、やりましたぞぉぉぉおおおお!!!!」











まるで遠吠えのようだ。
すぐ傍でそれを聞いた佐助は、呆れた顔を浮かべながら耳を塞ぐ。


いつものように両手に握った槍を高々と天に向かって突き上げ、咆哮を上げた幸村。
決して軽傷とは言えない傷を負っている筈だが、やはり気持ちが高ぶっていると、多少の傷は傷のうちに入らないのか。
剥き出しの胸元なんかは綺麗にぱっくりイっているというのに、この元気。

きっとあの傷の手当をするときになったら、この凄まじい覇気など微塵もないのだ。
染みるだのなんだの、子供のように文句を言う様が脳裏を過ぎり、佐助は耳を塞いだままで溜息を吐く。





「この幸村が大将を討ち取りましたぞぉおおおお!!!」
「あーはいはい! 判ったから旦那、さっさと本陣に戻るよ!」





幸村の声に掻き消されないように、声を大にして佐助は言った。
幾ら勝ち鬨とは言え、忍に戦場でこんな大声を出させるなんてどうなんだ。
全く、ちっとも忍べやしない、などと思ってしまう佐助である。





「ったく、もうちょっと静かに出来ないの?」
「何を言う、勝ち鬨の声というものは、こう勇ましく大きくだな……」
「はいはい。取り合えず帰りますよ」





幸村の言葉を最後まで聞かずに、佐助はすたすたと歩き出した。
素っ気無い態度の佐助に幸村はむーっと拗ねた顔をしたが、佐助はそれを見る事はなかった。

置いて行かれては堪らない、と小走りで佐助に追いつく幸村。
背後で援護する戦時以外で、幸村が佐助の前を歩くことはあまりない。
佐助の方が歩幅が広い所為なのか、それとも幼い頃からの癖がそうさせるのかは、判らない。
けれども背中を追う足音がいつまでも続く事を、佐助は厭う事はなかった。


背中でブツブツと文句を言っているのが聞こえた。

幸村は佐助に聞かせているつもりはないのだろうが、何せ佐助の聴力が並ではない。
聞こえてるよ、と言って振り返ったら、慌てて何も言ってない、とか言い出すのだろう。



でも、知らない振りをする。






「しかし、また随分派手にやってくれたねぇ」
「ん? なんの事だ?」
「戦の仕方もそうだけど、怪我だよ、怪我」
「怪我?」





きょとんとした声に、足を止めないまま、肩越しに振り返る。





「胸と、腹と…あと、肩もやられたっけ」
「ああ、矢が刺さったな」
「なんでもないみたいに言うなよ」





叩き落し切れなかった矢が幸村の肩に刺さったのは、戦局が一番激しくなった時だ。
弓兵を全て薙ぎ払った後で矢を抜き、それから応急処置をして放っていた。
然程深く刺さったわけでもないし、毒矢でもなかったから、気にするほど大変なことにはなっていない。

が、やはり放っておく訳には行かないのだ。
このまま長時間治療せずに放っておけば膿んでくるし、最悪、肩は使い物にならなくなる。

なのに。
幸村ときたら、自分の怪我に対して無頓着すぎる傾向がある。






「なんでもないみたいにって……なんともないぞ?」






ほら、これだ。
呆れて溜息を吐いたのは、今日だけで何度目になるだろう。







「本陣に戻ったらまず治療ね」
「お館様への報告が……」
「治療が先」






低い声音で言えば、びくっと幸村が肩を揺らした。
この声に逆らうのは得策ではないと知り、幸村はうぅ、と唸りながら黙った。






「ったく………ああ、見えた見えた」






武田の紋が翻る旗を見つけ、佐助は歩く足を少し速める。
それは無意識にも幸村にも伝わったようで、彼も少しだけ歩く速度を速めていた。


陣の幔幕が見えてくる毎に、幸村の表情が明るくなって行く。
何せあの幔幕の向こう側には、己が尊敬して止まない人がいるのだ。
報告の為とはいえ、その者の傍に行けるだけで、幸村の心はいつだって早鐘が鳴る。
きっと隣に佐助がいなかったら、一目散に駆け出して行くに違いない。




誰にも気付かれないように、佐助は右手を握り締めた。






「頼むから、間違った報告しないでくれよ」
「何故佐助は毎回そのような事を言うのだ……」
「あんたが変な報告するからだよ」
「しておらぬ!」







高い声で反論する幸村。
勝ち鬨に上げる声とは別の意味で響く声に、佐助は耳を押さえながら、どうだか、と呟いた。



本陣に入ると、負傷兵が手当てしている風景が目に付いた。
どうやら、特攻していた幸村の部隊だけでなく、本陣の守りも少々梃子摺ったらしい。
それでも被害は少ない方ではないか、と佐助は思った。

追い込まれてまで、大将がじっとしてる訳もないからなぁ、と佐助は思う。
人は石垣―――、また己もその石垣の一つであると、あの大将はよく判っているからだ。




その本陣の奥にいる、大きな存在。
彼の姿を見つけた瞬間に、幸村は佐助の隣を通り抜けて走り出した。











「お館様――――――!」

「コラ旦那! 治療が先って言ったでしょ!」












言ったものの、幸村はまっしぐらに走っていく。
最早佐助の声など聞こえていない。






「お館様! 真田源二郎幸村、ただ今戻りました!」
「うむ。伝令は届いておる、大将を討ち取ったとな。ようやった」
「は…勿体無きお言葉……!」
















信玄の前に跪く六文銭を背負った背中。
それは佐助の隣にいた時と何も変わっていない。

……それなのにどうしてか、あの大きな存在の傍にいる時だけ、酷く遠いもののように佐助は思えた。




















「お館様、お怪我を……!?」
「む……少々油断したわい。儂とした事がな…」
「大事ありませぬか!?」
「何、この程度。蚊ほどのものよ」






慕う主君の傷を見るや否や、幸村は焦り始めた。
そんな子供のような家臣に、信玄は楽しそうに笑っている。






「それよりも、幸村よ。毎度よく働いてくれるのう」
「は…お館様の為とあらば、この幸村、まだまだ働く所存で御座います!」






信玄の言葉に、幸村の空気が変わる。
どんな表情をしているのか、背中を見つめるしか出来ない佐助には判らない。

けれど、きっと笑っているのだろう。
些細な事をほめられた幼い子供と同じように、きっと。
幸村を見つめる信玄の黒々とした目に、それは映り込んでいるのだ。



だけど佐助の目に、それが映し出されることはない。











佐助が見つめていると、幸村が知ることはない。
































だって、ずっとそうだったから。


































届かないと判っているけど、せめて赦してほしい。
こうして見つめている事だけは。