耳元で囁く
ほんの少しでいいから
言葉を、ちょうだい
「さーすーけー」
小さな子供のように床にぺたんと座り込んでいる彼は、間違いなく甲斐の紅蓮の若武者だ。
けれども子供が駄々を捏ねるそのままの姿に、一体何人がその事実に気付くだろうか。
きっと自分だけは毎日見ている事なので、今更なのだが。
「旦那、ワガママ言わないの」
「いーやーだー!」
じたばたと足を暴れさせている幸村。
それを隣で立ち尽くしたまま見下ろしている佐助。
「仕方がないでしょ、仕事なんだから」
「やーだ―――――!」
言えば言うだけ、幸村は子供帰りしているようだった。
誰にでも小さな子供時代と言うのはあるものだが、大抵は、成長する間に消えていく。
しかし幸村は、未だにそれを地で行っている。
「旦那ぁ、今年で幾つだよ?」
「十八だ!」
「だよね、元服は?」
「二年前に済ましたぞ!」
「そうだよね」
もうちゃんとした大人だよねぇ、と。
幸村の頭をくしゃくしゃと撫でながら、佐助は苦笑混じりに呟く。
目の前で爛々とした瞳で見上げて来る、自分は十八歳だと主張する、見た目さえそれに追いついていない子供。
物心つく以前から傍についていた訳だから、その言葉には間違いはないと判っている。
けれども、やはりいつまで経っても抜けきらない幼さに、佐助は呆れるばかりだ。
「じゃあ立派な大人でしょ?」
「うむ!」
「んじゃ、俺の言う事も判るよね」
「おう」
「じゃあ……」
「でも嫌だ」
間髪入れずに割って入った幸村の言葉。
真っ直ぐに見上げて来る瞳は、強い光ではあるけれど、まるで捨てられた子犬のように揺れている。
これだから誰も彼もが、この若者を甘やかしてしまうのだろう。
「いーやーだー!」
言いながら、幸村はばたっと床に倒れた。
いつも通りに結っている髪が、無造作に散らばった。
あーあ、痛むのに、と佐助は場違いなことを考えた。
幸村が駄々を捏ねている理由は、大したものではない。
けれども幸村にとっては、何より大事なことだったのだろう。
佐助とて、まさか無碍にしたい訳ではない。
あまり感情を表に出さない佐助ではあるが、自分なりにあの時間を大切にしている自覚はある。
出来る事なら誰にも邪魔されたくないし、正直言えば、武田信玄公の命であっても、壊されたくはなかった。
だが自分や幸村の立場上、それは赦されない事なのだ。
幸村だって、信玄公からの命ならば、何よりも優先するだろう。
彼にとって幼い頃から、信玄公は神格化されている。
そんな人物からの命であれば、喜び勇んで命じられた事に意識を向けるだろう。
だから判らない訳でもないと思うのだ。
真田隊の長である戦忍に下される命が、この乱世に置いてどれほど重要な事かぐらいは。
けれど、頭と心は別物だ。
特に目の前の子供の場合、それははっきりと表に出る。
「大体、佐助から約束したのではないか!」
「そりゃそうだけどね」
「それを反故にするとは、如何いう事だ!」
「如何もこうも、仕事なんだよ」
素っ気無い言葉に聞こえるだろうが、佐助の表情はそれを裏切っている。
駄々を捏ねる子供に頭を痛める、言ってしまえば母親のような顔。
長年保護者をしている所為で、こんな顔が出てしまうのも、もう止められそうにない。
寝転んでいる隣にしゃがんで、癖っ毛のある髪をくしゃくしゃと掻き撫ぜた。
いつもはそれで仕方がない、という顔をしつつも了承してくれるのだが、今回はそうもいかないようだ。
幸村が言う通り、今日と言う日の約束を先に取り付けたのは佐助の方だ。
それを致し方ないとは言え、した側から反故されたのでは、そうそう納得行くものではない。
ふと背後に気配を感じて、佐助は振り返った。
そして其処にいたのは、才蔵。
「頭目、そろそろ行かねばならぬぞ」
「判ってるよ。ほら、旦那」
「うー………」
「なんなら、才蔵と一緒に行きなよ」
そう言えば間髪入れず、
「佐助じゃないと嫌だ」
嬉しいけれど、困る一言。
何よりも自分と一緒にいたいと願ってくれるのは、嬉しい事だと思う。
反面、どうにも融通の利いてくれない幼い主に困ってしまう。
ちらりと背後の才蔵に目をやると、才蔵は苦笑を漏らしていた。
別に幸村が才蔵のことを気に入っていない訳ではなく、佐助を突出して好いているだけの話。
真田隊の面々はそれをよく弁えているから、幸村のこの程度の発言で何か思う事はない。
「……でもなぁ旦那」
「嫌だ」
「…あのね」
「嫌だ!」
これが名だたる真田の若武者だと言って、一体どれほどの人が信じるだろうか。
駄々を捏ねる幸村は、佐助の腕を掴んで放そうとしない。
気に入りの玩具を取られまいとしている幼い子供と大差ない。
才蔵も才蔵で、こんな主を咎めもしない。
見た目はキツそうな容貌をして、事実辛辣な事もよく口にする彼だが、主に対してだけは甘い。
小助や海野の六郎も同様、鎌之助だって、何故か幸村を甘やかしている。
かく言う自分が一番甘い面があるのだとは、あまり自覚したくはなかったのだが。
早く仕事に行かなきゃ困るんじゃなかったのか、と思いつつ、
佐助は腕にすがり付いている大きな子供を、あやすように明るい色の髪を撫でている。
……突き放してしまえば、きっと手っ取り早いのだろう。
けれども、それを出来ない。
…無視してしまえば、それで済むことなのだろう。
けれども、それも出来ない。
こういう事がある都度、聞き分けのない子供を説得している自分。
そして渋々でも、「判った」の一言があるまで、ずっとこうしているのだ。
「好かれているな、佐助」
「じゃなくて助けろよ、才蔵」
のんびりと傍観している才蔵を睨み付ける。
子供は気付けば、佐助の胸に顔を埋めてしまっていた。
なんでこんな聞き分けがなくなったのかなぁ、とか。
これは絶対、十ぐらいの子供のする事だろう、とか。
つらつらと関係ない事を考えていると、く、と服を引っ張られる。
少しだけ視線を落とすと、上目遣いで見詰めてくる大きな瞳。
黒の比率が比較的高いそれは、見詰めていると吸い込まれそうな錯覚に陥る。
いつもはお館様と叫ぶぐらいに大きな声を出す口が、今は小さく小さく動いた。
「なに?」
聞き取れなかった、と。
佐助は幸村の顔に、自分の顔を近づける。
幸村は暴れた所為か、ほんのりと上気した顔で佐助を見て、耳元に唇を寄せた。
紡がれたのは、小さな小さな子供のワガママと、
送り出す、合図。
駄々っ子幸。母佐助。才蔵は……なんだ?